4.遅れてきたもの
高千穂たちが警視庁に戻ると、廊下ですれ違った同僚が松実に声を掛けてきた。
「松実、科研の鹿賀先生が呼んでたぞ」
「鹿賀先生が!?」
松実の背筋がピンと伸びる。
「ななななんで!? なんか悪いことしたかな!?」
「松実ちゃんビビりすぎでしょ」
「じゃあな、ちゃんと伝えたからな! さっさと行けよ! 遅れて怒らせんなよ!」
「今すぐ行きまぁす!」
足速に駆けていく松実の背中を見送りながら、残された高千穂は同僚に話し掛けた。
「『怒らせんなよ』って、鹿賀先生そんなに怖い? 私タメだし怒られたこともないから分かんないんだけど」
「ナンパしてきた警視を三人埋めたって噂です」
「んな馬鹿な」
科研。つまりは科捜研。正式名称科学捜査研究所。
科学であって化学じゃないのでケミカル以外のことも捜査してくれる組織である。心理学から物理学まで網羅しており、実は筆跡鑑定も科研がしてくれる。
たまに鑑識と同じものだと考えている人がいるが、鑑識は正式な鑑識課の警察官であるのに対し、科研は附属機関の一般研究職なのでまったくの別物である。
ちなみに名前も似ている科警研と混同する人が少ないのは、ひとえに科警研の知名度が低いせいである……
と、こんな長ったらしい言葉の洪水を初対面の松実に「初めまして」代わりに浴びせ掛けたのが鹿賀咲良先生である。
鹿賀咲良。専門は法医学。
二十代後半の年齢だが、見た目はもっと幼く見える。
若く見えるとかではなく幼く見える。150にいかない身長で西洋のお人形さんみたいに綺麗な顔。
そのせいでそんなに長くない明るい茶髪をさっぱり後ろでまとめても幼く見える。そのくせ声はけっこうハスキー。
たまに警備員や備品の業者に中学生と間違われて憤慨しているし、コンビニの年齢確認とかごく普通のことにもキレ散らかしている。キレっぽいくせに怒ると怖いらしく、科研では多くの部下後輩同僚先輩たちから恐れられている。
結果、ついたあだ名は『カンシャク玉』、そんな人物である。
そして松実は一度、白衣を脱いで寛いでいた彼女を忍び込んだ近所の子供と間違えてしまい(一度会っているにも関わらず)、現在のような条件付けがされるほど怒られた。
松実を呼んだのはその咲良だったが、待っていたのは別の科研の職員だった。
「よかったぁ……」
ほっと胸を撫で下ろす松実を見て青年も苦笑いをしている。よっぽど怖いのだろう、と高千穂は今年最大級に簡単な推理した。
青年は病院で診察時に上着を入れるような籠を松実に渡す。中には冬のフル装備一人分くらいの衣類や鞄。高千穂は首を伸ばして中身を覗く。
「これ、誰の?」
「梶谷さんのです。犯人の証拠が残ってないかの検査が終わったので、松実さんに返しに行ってもらおうと」
「えー、僕忙しいから別の人に」
「鹿賀先生が」
「宅配ピザより速く届けちゃうぞぉ!!」
完全に誰の部下か分からなくなっている松実を放置して、高千穂は青年に質問をする。
「何か犯人に繋がる痕跡は出たの」
「いえ、まったく」
「へぇー」
「一応ご覧になられますか?」
「うん」
高千穂は一応ゴム手袋をもらって一つずつ確認する。
「マフラーにコートに手袋に……」
「あぁ、その手袋」
不意に青年の背中越しにハスキーな声が届いた。松実の背筋がバキッと伸びる。
「あぁ、鹿賀先生。どぉも」
「姉御につかれましては、ご機嫌麗しゅう!!」
90度の最敬礼をした松実に対し、グロテスクなことで有名なアニメのマグカップ(なぜそんなものを持っているのか分からないし似合わない。そして何よりそんなアニメがマグカップを作る理由が見つからない)片手に射殺すような視線を向けているのがそう、咲良である。
「誰が姉御じゃボケェ」
「ヒィ!」
また松実の背筋が伸びて、体が地面と垂直になる。
「松実ちゃん前世はオジギソウ?」
「蝶番じゃね?」
なぜ世の女性は松実を虐めるのか。自然界の法則である。
「それで鹿賀先生、手袋が何か?」
「あぁ、そうそう、ちょっと変なことがあってね」
咲良は開いている方の手で手袋を片方摘み上げる。
「コート、マフラー、つまり防寒具は基本的に鑑識さんの方で回収して届けられたんだけど、この手袋だけは後から衣服と一緒に回ってきたんだよね」
「……なるほど?」
高千穂と咲良が頷き合うのを、松実はややついて行けていない顔で見つめる。
「つまりどういうことですか?」
しかし高千穂も咲良も答えることなく、そのまま別々の方へ歩いていった。
翌日の朝。病室のベッドで弥子は大きなあくびをした。早起きの習慣がついていない彼女は病院のスケジュールに沿って早くから叩き起こされるのに、いまいち頭と体のリズムがついていかない。
昨日の雑誌は読み終わってしまったし、執筆をしようにも愛用のパソコンは手元にない。そもそも安静を言い渡されているのだから、作業をしていていい顔はされるまいが。
眠いけど二度寝には頭が起きてしまっている。しかしすることがなくて暇。
何か退屈しのぎになることはないかな……、弥子が一人寂しく天井のシミを数えていると、
「うふふ、どぉもぉ」
病室のドアが開いて、印象の強いヘルメット頭が顔を覗かせた。
「あぁ、千中さんだっけ。また来たんだ」
「はい。あ、ちょっとここ、置かせてもらいますね」
高千穂は大きな段ボールを来客用の椅子の足元に置いた。
「それは?」
高千穂はガムテープの封じを指でなぞる。
「事件当日、あなたが身につけてらっしゃったものです。梶谷さん意識がないまま病院へ搬送されたので、警察の方で預からせていただいてました。お返しします」
「そうですか。普通病院が預かるものじゃ?」
「事件が事件ですから」
「まぁね」
「それで、傷の方はいかがですか?」
高千穂が弥子の頭の包帯を指差す。弥子は包帯の、傷口に被さっていないところを触った。
「そりゃ傷口があるだけ痛むけど、もう深刻な感じはしないかなぁ。だからって言うか退屈しててね。刑事さんが話し相手に来てくれて助かるよ」
「そうですか、それはよかった。お大事になさってください。脳は怖いですからねぇ。こう言っては失礼ですが、その辺デリケートになってくる年頃でしょう?」
「刑事さんじゃなかったら殴ってるね。殴られに来たの?」
弥子がニヤリと笑うと、高千穂も両掌をそちらに向ける。
「いえ滅相もない。あ、そうだ。殴られると言えばですね。凶器、金属バットなのはご存知ですか?」
弥子はまた少し考えるフリをする。
「そうだったかもね。記憶が曖昧でね」
「そうだったんです。しかもですねぇ、現場に落ちていたんです。しかもケースごと」
「それが?」
弥子が聞き返すと、高千穂は椅子に軽く座り直して少し前傾姿勢になった。
「私、これが大変気になって。犯人がわざわざ情報を残していったわけですから」
「ふぅん」
「普通はどんなものでも、犯行現場に『自分が使ったもの』を残しては行きたくないはず。となると、残して行かざるを得なかった、と考えたほうが辻褄が合うんです」
「そんなもんかね」
「はぁい」
高千穂は満足そうに頷くと、今度は上体をやや後ろに引かせる。存在しない背もたれに沈んでいるような角度。
「しかし、すると今度は待って帰れない事情を考えなければならないんです。うふふ、持ってきたものが持って帰れなくなる事情、なんでしょう」
「さあ? 血が付いたから持って帰る時に見られたら困るとか? でもケースがあったんだよね? じゃあ見られやしないか……」
高千穂は「そうです!」と言うように人差し指を立てる。
「えぇ、犯人には凶器を持って帰れない事情がないんです。なので」
高千穂は自分の膝元に肘を突き、そして立った拳の先に顎を乗せた。
「私案外、そもそもの前提が違うんじゃないかと思うんです」
「……どういうこと?」
弥子が『まったく理解できない』という顔をすると、高千穂はニヤニヤ笑いながら顎を乗せている手の人差し指を立てる。
「うふふ、持って帰れない、ではなく、そもそも帰ってなかったんじゃないかって」
「は?」
「どう思われますか?」
弥子は言われている意味をじっくり吟味してみる。そして、なぜこの話をされているかも。
「……どう思うってそれさぁ、犯人は店の中にいたってこと?」
「それもあり得ます」
「それとも……、私がやったとでも?」
高千穂は拳に顎を乗せるのをやめて大袈裟に首を左右へ振る。
「そんなまさかぁ」
「でも君が言うところによると帰ってない人、つまり店内にいた人が犯人だってことだよね? そして店内にいたのは私と死んだいろはちゃんだけ。つまり私を疑う可能性が出てくるわけだよね? 正直どうなの?」
弥子が真っ正面から睨み付けてやると、高千穂は対照的に微笑み掛ける。しかしよく見ると目が笑っていない。
「うふふ、そうなりますねぇ。金属バットから指紋は検出されませんでした。それとこれ、何かお分かりですか?」
高千穂は足元の段ボールを弥子の眼前に持ってくる。
「私の服とか私物でしょ? あんたがそう言ったんじゃない」
「事件当時の、です」
「それがなんだって言うのさ」
「次はこちら……少々お待ちください」
高千穂はいったん段ボールを足元に戻すと、今度は手袋だけを取り出す。
「今度は何!」
「こちらの手袋、ここに来るまでにちょっと面白い経緯がありましてね?」
「……どうせ面白くないだろうけど、聞いてやろうじゃない」
手袋には少し思い当たることがある弥子は、少し体温が下がったような気がした。
「こちらの手袋、現場で鑑識が回収した他の防寒具と違って、あとから他の衣服なんかと一緒に病院から送られてきたんです。この意味が分かりますか」
「分からないね!」
高千穂は手袋を弥子の手元に置く。
「鑑識が来た時すでに、手袋だけは現場になかったということです。ではどこにあったのか!」
高千穂は弥子の目と目の間を射抜くように人差し指を向ける。
「それは、病院です。脱がれていた他の防寒具と違い、あなたが身に着けていたものはあなたごと救急車で搬送されたからです」
弥子は今まで『追い詰められて歯軋りをする』なんて作り話だと思っていたが、なるほど今の彼女は自然と顎に力が入っている。
「つまり梶谷さんあなた、事件の時手袋なさっていたんです。店内なのに、しかもコートは脱いでいたから寒かったわけでもないのに。そして金属バットに指紋は……?」
弥子は手元に置かれた手袋を握り締める。
「末端冷え性なだけだよ! 犯人なら誰だって、私だとか関係なく、そういうことするのに指紋は残さないでしょ! 手袋してただけで犯人にされたら堪らないな!」
思い切り怒鳴られても高千穂は怯まない。どころか相変わらず小癪なニヤニヤすら崩れない。
「そういえば梶谷さん。あなた、通報したのは誰だと思われますか?」
「は? そんなの知るわけないじゃん!」
「やっぱりあなた、朝は農家さんが来ることもあるのをご存知ない! 知っていれば農家さんではないかと思い当たるはずです! 朝から来店していることがあるというのも嘘ではないですか? となると、引き戸が開いて誰かが入ってきたという話も怪しくなってくる」
「だったらなんだよ! 私の証言が嘘だっていうの!? そう言えるだけの証拠があるって言うの!? 第一私は被害者なんだよ!? 頭を殴られた! 私が犯人なら一体誰がやったって言うの!」
弥子が手袋を投げ付けると、高千穂はそれを右に躱す。そのニヤ付きには、今までとは違うはっきりした挑戦的な色がある。
「容疑者から外れるために必要なら、自分で自分の頭を打つこともあるでしょう」
「なんだって!? そんなのイチャモンだ! しっかりした証拠もないのに!」
「なんですかさっきから大声出して!」
大声で騒ぎすぎたのだろう。看護師が慌てた様子で駆け付けた。
「こいつが……! 痛っ!」
「あまり患者を刺激しないでくださいよ。うるさいって他のベッドからも苦情が来てます」
「はい、今は一旦引き上げます。次は納得していただけるよう努めます」
高千穂は立ち上がって慇懃に頭を下げると病室を後にした。