脱藩計画
左門はまず、自分の頭の中にある印象をできるだけ正確に言語化しようと努めた。それから、それをさらに発展させ、より具体的なものへと高めるために、多くの人の意見を聞いた。
「左門殿。お主は、これからどうするつもりなのだ?」
「私は小倉に行きたいと思います」
「小倉だと?なぜだ?」
「小倉藩の細川家に身を寄せようと思っております」
「うーむ。細川か。細川なら良いかもしれんが……」
「何か問題でもあるのか?」
「細川は譜代の家柄ではない」
「ふっ、そんなことを気にしている場合ではない」
「確かにそうだが……」
「まあ、よい。とにかく、私は小倉へ行く」
左門の話を聞いた人は、みな一様に驚いた顔になった。左門が脱藩を言い出すなんて信じられないといった表情だった。周囲の人々からすれば、左門の考えは突飛なものに思えた。これは左門にとっても意外なことだった。
「左門様が脱藩するとなれば、黒田家はどうなるのですか!?」
「それはわからぬ。わかっていることといえば、私がお主達に迷惑をかけるということだけだ」
「左門様!お考え直し下さい!」
「そうです!お止めください!」
「左門様!どうかご再考を!」
「お主達……すまぬ。お主達の気持ちはよくわかる。だが、私は決めたのだ」
左門は自分なりに考えた結果、脱藩という結論に達した。しかし、弟子達の気持ちもわかるだけに、申し訳なく思った。だから、弟子達に謝った。そして、弟子達は涙を流しながら、左門の決意を受け入れた。
「左門様……。わかりました。それでは、せめて私もお供させていただきます」
「いや、それはならぬ。お主達は黒田家の大事な家臣だ」
「いいえ!私は左門様に命を助けていただいたのでございます!この恩をお返しするまでは死ぬわけには参りません!」
「お主達が死んでしまったら、私は悲しいぞ」
「ならばこそ、私共も左門様と共に死にとう存じます!」
「わかった。そこまで言うのなら仕方あるまい」
「ありがとうございます!」
主家を見限って他家に移ることは戦国時代ならば珍しくない。戦国時代を生きてきた武士には「君、君たらざれば、臣、臣たらず」の意識がある。しかし、江戸時代は許されなくなっていた。先祖代々「お家」に仕える時代になってきた。
特に黒田藩は脱藩への風当たりが強かった。後藤又兵衛基次は慶長一一年(一六〇六年)に黒田家を出奔したが、長政は奉公構を出して、基次の仕官を妨害した。その基次は大坂の陣で大活躍して名前を残したため、脱藩者への憎しみは他藩以上であった。
黒田藩では脱藩者を厳しく罰するようになっていた。それでも、脱藩者は後を絶たなかった。脱藩者の数は年々増えていった。脱藩者が出ないようにするためにはどうすればよいのかが藩の悩みであった。
「脱藩などできぬようにすればよいのです」
ある日のこと、家老の一人が言った。
「どういうことだ?」
「脱藩できないような仕組みを作るのです」
「ほう。具体的にはどのようにするのだ?」
「脱藩しようとした者には死罪を与えるのです」
「なるほど。それは名案かもしれん」
こうして脱藩禁止令が作られた。脱藩しようとした者を、その場で斬り殺すことも認められた。




