お姫様にはなれない、きっと
あのときああしていれば。そう思う人生の分岐点は必ず一つは存在するものだ。それがリブート可能な事象なら良いのだが、人生はフィクションではない。残機は一つしか存在せず、ズタボロになっても使い回して残りの人生を生き切らなければならない。
だから、俺は今日もこの醜い顔面を抱えて生きていく。
「──痛ッ」
「すまないルイス、爪が当たったか?」
「いや、問題ない。大丈夫だ」
鏡を見るのが苦手で、この部屋には反射して顔を映し出せるようなものが置かれていない。日課である包帯の付け替えも上手く行えないから、人に手伝ってもらう。
「ノア、貴方はいつまで経っても不器用だな」
「そう言わないでくれ。腕や脚ならともかく、顔はなかなか難しいんだ」
「……」
少し間を置いて自分の失言に気づいたのか、ノアの「すまない」と続く声が聞こえた。
「構わない。俺のわがままに貴方がいつまでも付き合う必要もない」
「……そんなこと言わないでくれ」
ノアは俺の幼馴染だ。手の不自由な俺を介助してくれている。不自由と言っても全く動かないわけではない。ただ、動きが悪いだけだ。フォークを握り口元に運ぶのにも苦労する指では包帯を巻けないから。
ルイス・レイシスは不幸な人生で知られている。事故でひどい怪我を負い、破れ崩れた顔面は見れたものじゃない。だから包帯で顔を隠し、屋敷に引きこもって根暗に暮らしているのだと。そう囁かれている。
「ルイス、今日もお前は美しい」
「世辞はいい」
真っ直ぐ見据えそう言うと、ノアは名残惜しそうに俺の頬を撫でた。
「大切なものは目に見えない。たとえこの先鼻が潰れ瞳が抉られ喉が潰されようと、お前の美しさは損なわれない」
「これ以上俺を醜男にしてくれるなよ」
「本当だ。つまらない噂など気にかける必要はない」
不幸な噂。まあ、事実だろう。事故で俺自身はこの有様だし、それが原因で母も気を病み床に伏せた。父は俺のことも母のことも見えないかのように振る舞っている。
噂が所詮噂である点は、俺は別に引きこもっている訳じゃないことくらいだ。
「出掛ける。母が俺を探していたら部屋で休んでると言ってくれ。あの人、家の中にさえいれば探しはしないからな」
「そろそろ俺も連れて行ってくれないのか」
「ノアも来たら何から何まで世話を焼くだろう。一人にさせてくれ、リハビリなんだから」
曖昧に笑ったノアに見送られ、私有地の森を抜ける。そこから更に少し歩くと湖が広がっているのだ。ここは敷地内ではないが、レイシス家の敷地内を通り抜けないと行けない。だから人に会わず外に出たいときにはうってつけの場所だった。
リハビリなんて口実で、本当は一人になりたいだけだ。それを知っていてもノアは何も言わず俺を見送る。
「責任を感じて従者の真似事なんて正気じゃないと思ったが、いつまで続けるつもりなんだろうな」
独り言に返事はない。さらさらとした風が伸ばしっぱなしの黒髪を揺らした。ノアはこれを黒壇のように美しいと褒め称えるが、俺からすればただ黒いだけだ。美の観点で言えば、ノアの見事なプラチナブロンドの方がよっぽど煌びやかで美しい。
「……ああ、まただ」
考えないようにしているのに考えてしまう。美醜を拗らせ僻んでしまうのは、昔の俺が自分の容姿に絶対の自信を持っていた報いに違いない。
その昔、伯爵家の嫡男として生まれ蝶よ花よと育てられた俺は貧弱で我が儘なガキだった。子爵の次男であるノアは生まれたときから騎士になる道が定められていて、大人びた彼は考えなしにちょこまかと動き回る俺のお目付役だったのだ。
この湖も昔二人で歩き回って見つけた場所だ。俺がどこに出掛けているのかわからないのだから、きっとノアは忘れているに違いない。
湖の傍に腰掛け、手慰みに摘んだ野花を編んでいく。一応リハビリの名目で出ているから、多少は手先を動かさなければならなかった。長い時間を掛けて手首を通るほどの大きさの輪っかができた頃、突然背後から物音がした。
「……ッ」
「ひっ!? うわああ……ッ、ば、化け物!?」
「なッ……誰が化け物だ!」
振り返った先には一人の男が立っていた。それも思ったより距離が近い。気配を消して背後に忍び寄ってきたことはすぐに見当がついた。俺が顔を庇うのと同時に男は飛び退く。
「貴様、俺を知らないとはこの土地の者ではないな」
「そんな大層な包帯だらけの顔面に知り合いはいねえな、しかも男じゃねえか! 黒髪のご令嬢との素敵な出逢いじゃなかったのかよ!?」
確かに俺の髪は男にしては長いし、地べたに座り込み花を編んでいたから女に見えたらしい。だが、少しでも顔を見ればすぐにわかったはずだろうに。この様子では顔を見る余裕もなく近づいてきたのだろう。
突如として現れた人間に驚きが強いが、それよりも化け物呼ばわりされたことで気分が悪い。相手にする気にもなれなくて立ち上がると、男は慌てたように呼び止めてきた。
「おい待て、待てって! 悪かったよ、いきなり叫んだりして」
「叫んだ事実より口走った内容を猛省しろ」
「あんたここら辺の人なんだろ? 俺、道に迷っちまってさ……」
「そこの道から先は我が家の私有地だ。ここは公有地だが、入ってきたら守衛に突き出してやる」
「おい、誓ってそっちには入ってないぜ。俺はあっちから来たんだ」
指を差した先を見る。崖だ。木々の合間に辛うじて人一人が通れそうな隙間はあるが、そもそも人が歩ける傾斜ではない。完全な獣道だった。
「……道があるように見えないが」
「あそこの崖を降ってきたんだよ」
「それは崖を落ちたと言うんだ」
あっけらかんと言う男の顔には、よく見れば細かな傷があった。服も泥のような汚れが目立つ。
崖を登り元の道に戻れるとは思えない。かといって道を歩けば守衛に見つかるのが関の山だろう。
「……ついて来い。街に続く道まで案内してやる」
「兄ちゃん、いい人だな」
「うちの守衛は話を聞かないんだ。俺がいなきゃ問答無用で豚箱行きだな」
ある時期、俺への嫌がらせの為にわざわざ屋敷の近くまで入り込む若者や、うちの屋敷を度胸試しか何かのアトラクションのように使う暇人がいた。最初は無視していたが、その数があまりにも増えたことでノアが過敏になったのだ。俺もどさくさに紛れて母の大事にしていた花壇を踏み潰されたことで腹を立てたから賛同した。それなりの広さということもあり元は人の出入りに寛容だったが、今では敷地内を散歩して偶然人に逢うことはない。
俺の世話はノアが率先して買ってくれるし、ノア以外の人と喋ったのは久しぶりだった。
「ところで今昼時なんだが、腹は空かないか?」
「貴様、金を持ってる格好に見えないが。まさかたかる気か? 正気と思えない厚かましさだな」
「人は選んでるぜ。上等な服。我が家の私有地と言ったよな? 貴族だろう、しかも遊んでるなら嫡男じゃない。三男坊あたりか?」
「当たりは半分くらいだな」
言い当てられた内容に目を眇める。残念ながら嫡男だ。俺は噂が広まると共に社交界からは姿を消し、表の世界に出られない役立たずとして居場所はなくなったけれど。
わざわざ他人に家の事情を子細に教える気はない。だが、これははっきりさせておかなければならない。これ以上施しをするほどの義理はないし、俺は慈悲深くないのだと。
「道の案内はするが、俺は街までは降りない」
「どうして? 俺、あんたに案内してもらいたいな」
「貴様の言う通り俺が化け物だからだ」
この男は俺を化け物と叫んだが、その化け物とこうして会話をする奴は稀だ。大抵は怯えているのか気味が悪いのか、逃げるように避けられる。俺だってそれに対して何も感じないわけではなかった。
「じゃあ街に降りたら俺とあんたはお別れってことか。そいつは寂しいな」
「……は?」
「と言っても俺は定住してないし職もないからなあ」
後半に言っていた言葉は耳に入らなかった。どうせ見えはしない包帯の中で顔が赤くなるのを感じる。
こいつ、何のつもりだ。疑心と期待するような気持ちで言葉に詰まっていると、男は更に予想を超えることを口走ってきた。
「なあ、俺を雇う気はないか?」
何を言われたのかわからず、唇をぼんやりと開いて呆ける。男はそれを拒否と捉えなかった。
「掃除皿洗い護衛の真似事、何でもする」
「と、とんだ押し売りだな」
「腕は立つぞ。保証する」
「生憎と腕利きは一人いるんだ。二人も要らない」
「頼むよ。俺、あんたに興味があるんだ」
ずい、と身体を割り込ませるように距離を縮めた。目と鼻の先に男の顔がある。よく見れば細かな傷が目立つ男の顔は、恐ろしく整っていた。整った顔立ちなんてノアで見慣れているが、その俺でも見つめられたら顔が赤くなりそうだ。
吐息がかかりそうなほど近くにある男の唇が動く。耳触りの良いヴァリトンボイスが鼓膜を震わせた。
「わからないけど、なんかいいなって。もっと深く知れば、もっと好きになると思う」
「こ、好意の押し売りは誰も幸せにならないぞ」
「そうか? どちらかが積極的にならないと恋愛なんて上手くいかないものだぜ」
「れ……ッ」
およそ俺に似つかわしくない単語に目眩がした。考えなしに身を引く。後ろに踏み込んだはずの脚が空を蹴ったのと身体が傾いたのは同時のことだった。
「ッ、ぁ」
「おいッ!」
派手な音が周囲に響く。気がつけば俺の身体は湖に沈んでいた。しかも男も道連れにして。彼も離してしまえばよかったのに、咄嗟に俺の肩を抱いて庇ったから巻き込まれたのだろう。
この湖は意外と深い。脚がつかないほどではないが、胸まで沈む。俺は知っているから冷静に対処できるが、この男はどうだろう。一先ず陸地のほうへ腕を引くと、意外なことに男は俺を下から押し上げて陸へと上げた。
「腕を掴め、引き上げる」
「やめとくよ。また落ちたら大変だろ」
暗に俺を貧弱だと言いたいのか、差し出した腕を無視して陸へと乗り上げる。
「……悪かった」
泥塗れの服が水で濡れ、彼の美貌を以ってしてもカバーできないほどには酷い有り様だ。腕を引っ込めながら小さく謝罪を呟けば、男は笑った。
「俺も急すぎたな。瞳が見たかったんだ。あまりにも綺麗だったから」
「……その呼吸をするように歯の浮く言葉選びはどうにかならないのか?」
「口説いてんだぜ、これ」
笑いながら水滴を振り払う仕草が様になる。ノアほど見事なプラチナブロンドではないが、彼の野性味の強いジンジャーブロンドも人目を引くだろう。
俺の何がいいと言うのか。美醜の感覚が死んでるとしか思えない。
「悪いと思うなら少し家に置いてくれないか? 服が乾くまででいいから」
「そのくらい言われずとも面倒を見る。……その、さっきの話は本気か?」
「どれ? 好きとか恋愛って言ったこと? 瞳が綺麗と言ったののことか?」
「違……ッ、くはない、が、雇えと言ったことだ!」
にやにやと笑っていた男が静かになる。失言したかと気づいて、思わず地面に視線を落とした。視界の端にあった男の靴が中央にまで寄って来る。
「本気にしてくれた?」
「……っ」
まただ。耳元で囁かれるヴァリトンの響きに身体が震える。今度は逃さないように押さえられた肩は痛いほど力が込められていて、それが女慣れしていないのだろうと察しがついた。
「……従者が一人いるんだ。正確には従者ではないんだが……その男の代わりになってもらいたい」
それがこの男、アレンとの出逢いだった。
■
俺の日常は変わらない。毎日誰かの手が俺の顔に触れ、包帯を巻く。ただ、最近はその手が幼馴染から一人の放浪者のものに変わった。
アレンを連れて帰った日。ノアはひどく狼狽して、彼に冷たく当たった。いつだってクレバーに整った彼にしては珍しく、怒りの感情を爆発させた勢いで俺にも怒鳴ったのだ。
「何故だルイス、俺がいるだろう!」
「ずっと思ってたんだ。いつまでもお前に従者紛いのことをさせるわけにはいかない」
「俺が好きでしていることだ、口出ししないでくれ」
それからの口論は堂々巡りだった。とにかく俺はノアを真っ当な騎士の道へと戻したいのだが、本人がそれを拒否する。
最初にノアを見たアレンは「彼氏持ちかよ」と呟き顔を歪めたが、俺たちがそんな色気ある関係でないことがわかるとすぐに飄々とした態度を取り戻したように思う。今ではノアが不機嫌な声を出す度に「そんなんじゃ嫌われますよ?」と猫撫で声で煽りを入れてくるくらいだ。やめろ。
「うん、今日もきれいに巻けた。屋敷から出ない日くらい気にしなくていいと思うんだがな」
「母と顔を合わせると可哀想なくらい取り乱す」
「へえ、いきなり現れた俺にも動じずにいたのに? もっと受け入れる器の大きな奥方だと思った」
「あれは驚きすぎて何も言えなかったのだろう。あとはノアの剣幕に負けただけだ」
言いながら立ち上がろうとする。目の前に手が差し出された。少し迷って、その手を取った。
「不自由なのは指先だけだ。エスコートされずとも脚は動く」
「理由がなきゃあんたに触れられないのか」
「言葉遣い」
「はいはい、ご主人様」
「またノアに怒鳴られるぞ」
扉を開ける。ちょうど俺の部屋を訪ねようとしていたのか、目の前にノアが立っていた。
「ルイス……! まだそいつと居るのか」
「まだっつーか、俺はご主人様の隣に永久就職でーす」
「口を慎め。俺は今ルイスと話してる」
「アレン、煽るなと言っているだろう。ノアも大人気ない。貴方こそどうして居るんだ」
「お前の隣が俺の居場所だからだ」
熱心にこちらを見つめるノアの瞳に何も言えなくなる。深々とした緑色は逸らすことを知らずただじっと俺を見つめている。俺は昔からノアのこういう顔に弱くて、何も言えなくなるのだ。
だからずるずると彼に言われるまま引き摺っていた擬似的な主従関係がある。なし崩しの関係を断ち切る楔となったのは真新しい従者の言葉だった。
「本人が要らないっつってんだから遠慮すれば?」
直接的な拒否の言葉に俺が固まる。それまでもうここには来ないでくれと遠回しに意志を伝えていたが、不要だとはっきり言えた試しはなかった。
何も言えない俺とアレンの顔を交互に見て、ノアが不快そうに口を開く。
「俺は今、ルイスと話している。こいつは内気でもないし、言いたいことを口に出せない性格でもないからな」
「そうか? 母堂の為に常に苦しい包帯を巻いたり、嫌なことも好意だと思えば拒否できない、繊細で優しい人だと思うけどな」
「それは自分がした付け入る行動を指した自白か?」
「面の皮が厚過ぎて都合の良いことしか聞こえないんだな」
どうして二人はこんなに仲が悪いのか。どこかに原因があったというよりも、出逢った当初からこうだった。俺は慌ててアレンの肩を掴み二人の仲裁に入ったが、こちらを睨みつけるノアが恐ろしくて何も言えなくなる。
「ルイス、丁度いい機会だ。今度こそ二人きりで話がしたい」
「だが、俺……俺から言えることは、もう何も……」
「だそうだ。諦めな色男」
「ルイス!」
ノアの声に肩が震える。彼は元々冷静な人だった。考えの浅い俺を諫める立場にあった。だと言うのに、こうして感情が抑えられない様子が増えたように思える。丁度、俺がアレンを連れてきたあたりから。
「……アレン、客間にお茶を持って来てくれ」
「いいやルイス、追い返せよ」
「アレンまで……もっと穏便に話をできないのか」
アレンと向き合う。予想に反して、そこには真剣な眼差しがあった。「いいや、」ルイスは先ほどと重ねるようにもう一度否定を口にする。
「あんたは知るべきだ。あんたの言葉を、意志を遮って自分の主張を優先させる奴はあんたを操りたい奴だぜ」
「さっきからベラベラと……!」
「図星をつかれたら怒るもんだよな」
「い……いい加減にしないか! 誰だって謂れのないことを言われれば怒りたくもなる……すまないノア、客間で待っていてくれ。お茶は俺が持って行く」
視界の端でアレンの納得していない顔が見えたが、気づかないふりをした。ノアが俺の手を取る。気障ったらしく口付ける動作も、この人がすると様になる。
「久しぶりに部屋を訪ねてもいいか? そいつのいないところがいいんだ」
「ああ、構わない」
アレンが何か口を開こうとしていたが、片手で制した。辛うじて彼は「……茶を淹れて来る」と苦々しげに言うと、階段を降りて行く。厨房へ向かったのだろう。
出たばかりの自室の扉を開ける。ベッドと、丸テーブルに椅子が二脚。ノアがいた頃と代わり映えのない部屋の中だ。ノアがテーブルの上にあった紙を手に取った。真っ白なそれは正方形に切り取られていて、それが何枚か重ねて置かれている。
「これは?」
「アレンが教えてくれた。紙で花を折っていたんだ。今日は雨で外に出られないから、指を動かしたいなら部屋の中ですればいいと」
本人は見目に反して粗野であるのに、アレンは不思議と繊細な花の折り方を知っていた。向日葵に朝顔、薔薇の花。白い紙を折って形にして、それをあとから色付ける。何の生産性もない行為だが、ただ野花を毟るよりいい気がする。何より上手く折れた物をアレンに見せたとき、彼は宝物のように扱ってくれるのだ。誰かに大事にされたとき、ただの紙だと思っていたそれが途端に何か良いものに見えてくる。
「……そうか」
ノアが払い除けるように手を動かすと、薔薇の形をしたそれがカーペットに落ちた。塗った絵具を乾かすために置いていたものだ。
「何をする!」
「失礼。邪魔だったからな」
「落とすこと無いだろう」
「お前こそ。そんなに怒ることもないんじゃないか」
言葉が詰まる。確かに、声を荒げた俺も大人気なかったかもしれない。だが、あれはアレンが色を塗った花だ。とびきり綺麗に折れたから、乾いたらやると約束した。人に贈る物を粗末に扱われて怒ることがどうして悪いと言うのだろう。
何も言わない俺に思うところがあったのか、ノアが床に落とした花を拾った。テーブルの端に追いやって、対面に座るよう促す。大人しく椅子を引くと、ノアは真っ直ぐと俺を見据えて口を開いた。
「俺は納得できない」
「俺から言えることは変わらない。貴方は騎士団に戻るべきだ」
「俺の意志は関係ないと言うのか?」
「罪悪感で俺の世話をする必要はないんだ。意固地になってるのはそのせいなのだろう」
「俺ばかりが意地を張っているように言ってくれるな。あの男と居たいのはお前だろう、俺を捨てて!」
テーブルに拳を叩きつける大きな音がする。
どうして彼がこんなにも怒るのかわからない。何より、たった今言われた言葉の意味が理解できなかった。
「貴方を捨てる? アレンと居たい? どうしてそうなるんだ」
「言葉のままの意味だ! だいたい、お前に何と言って近付いたか知らないが、あの男は──」
不意に扉を叩く音がした。まるでノアの言葉を遮るように。タイミングを計ったかのような声が室内に届く。
「茶を淹れて来た」
扉を開けて入って来たのは予想通り、トレンチを片手に持ったアレンだった。大声は部屋の外まで聞こえていても不思議ではない。だが、彼は何事もなかったかのように俺を見て微笑み、ノアに流し目を送る。そのアンバーの瞳の冷ややかさに俺のほうが身の竦む思いをした。
「本人がいないところで悪く言うのは感心しないな」
「……事実しか言っていない」
「そうか? ルイスの言葉を無視して決めつけているように感じたが」
言いながら、カタカタと音を立てて食器が並べられる。ティーカップとソーサー、シュガーポットにミルクジャグが並べられ、最後に紅茶が注がれた。ベルガモットの香りが周囲を包む。
ほう、とため息が漏れた。アレンと目が合う。にこりと微笑まれた。それを曖昧に笑い返し、注がれたばかりの紅茶に口をつける。
『あの男は』……ノアはあのあと、何と続けるつもりだったのだろう。
「俺も聞いていたいな、どうやら二人だけの話じゃないようだから。いいだろ?」
「弁えない男がいるなら俺は御免だな。ルイス、また話に来る」
「……何度来られても俺の意志は変わらない」
「それはこちらも同じだ」
平行線の話は何も生まない。だというのに、俺もノアも折れることを知らない人間だ。
部屋の窓からノアが屋敷を出ていく姿を見届けて、ため息を吐いた。アレンがまだ温かい紅茶を片付けている。
「すまない、毎度居心地の悪い思いをさせてしまっているよな……正直、こんなにも上手くまとまらないと思わなかった」
「ま、仕方ないんじゃないか? あの男が折れるには失うものが大きすぎる」
「失うもの?」
「あんただよ。あの男は人生を捧げていいってくらいあんたのことが好きなんだ」
「……はは、何を言うかと思えば。それはないだろう」
謙遜でも誤魔化しでもなく俺が笑っているのに気づくと、アレンは不快そうに眉を顰めた。
「本気で気づいてないのか? それとも気づかないふり?」
「気づくも何も、アレンの勘違いだ。あの人が俺を好きになる要素なんてないのだから」
昔は、小さい頃はそんなことも言われたことがある。というよりも、俺が言わせた。あの頃の俺は自分が誰よりも綺麗だと思い込んでいたからだ。俺は白雪姫の継母で、ノアは魔法の鏡だった。俺が綺麗かと問いて肯定の言葉が返ってくる。その後ろに決まって添えられた「好きだ」「将来結婚しよう」「いつも一緒だから」そんな言葉がリップサービスであったことくらい、この年齢になればわかることだろう。
「いつまでも罪悪感で尽くしてくれているだけだ。俺が手放さなければあの人はずっと俺の傍にいる」
「……そのことなんだが、どうして? あんたの傷はあの男が付けたのか?」
「違う。これは馬が暴走して鞍から落ちたせいだ。鎧に片足が引っかかり地面に叩き落とされることはなかったが、顔と腕を引き摺られた。ノアはただそのとき近くに居ただけだ」
「本当にそれだけ? 何か隠してるんじゃないのか。例えば助けられたのにわざと手を貸さなかったとか、馬を故意に暴走させたとか……」
「いい加減にしろ」
目を眇めアレンを見つめる。彼はまだ言い足りない顔をしていたが、何も言わなかった。
「酷い言い掛かりだ。アレン、君が俺のために言ってくれていることでも、俺は君をきつく叱らなければならない。それがこの場にいない男の名誉を傷つけることだからだ」
「ああ……そうだな、俺が悪かった。次からはあいつの目の前で言う」
「……おい!」
トレンチを片手に立ち上がると、呼び止めるのを無視して部屋を出て行く。ティーセットは片付けられている。テーブルの上には薔薇の形をした紙だけが端に追いやられ置かれたままだった。
■
知っていて知らないふりをしている秘密がある。
それは俺と会うと顔を強張らせる母がノアと会うときは女の顔で優しく微笑むことであったり、父が爵位を譲渡するため優秀な部下を養子に取ろうと家族に気取られないよう計画していることあったり、ノアが一時期飼っていたペットの行方だ。
ノアは昔、白いネズミを飼っていた。俺は可愛いと思わなかったが、少なくともノアは大切に扱っていたと思う。
その日は馬に乗って敷地内を散策する予定だった。適当なところで馬を降り、ノアはゲージからネズミを出して遊ばせていた。俺が馬に跨り軽く走っていると、何かが馬の前を横切った。
馬の嘶きと視界の反転、急な浮遊感。次いで襲う顔面の抉るような鋭い痛み。気がつけば俺はベッドに寝かされていて、泣きじゃくるノアが傍らにいた。
何度かノアが何か伝えたそうにしていたが、俺は何も気づかないふりをした。時には話題を逸らし、あるときは露骨に言葉を遮って。次第にノアは何も言おうとしなくなった。
だから知らない。言われなければ知らないのと同じことだ。
……
今日も天気は良くない。だがどんよりと曇ってはいるものの、降り出すことはなさそうだ。いい加減じめじめとした部屋の中に飽きた俺はアレンに短く断りを入れると、彼が止めるより先に屋敷を出た。
「おい! 待てって! 一人になるな!」
「敷地内だぞ。小一時間経ったら迎えに来てくれ」
最近、アレンは俺に過干渉である気がする。ノアのように何処へでもついて回ろうとするのだ。従者とは本来そういうものだが、そもそも俺は人に付き纏われるのは好まない。
今日も湖のほとりに腰を下ろした。アレンにはああ言ったから、きっときっかり一時間後に迎えが来るはずだ。束の間の休息に思わずため息が漏れた。
リハビリの成果はあるらしく、段々と指先の動きは良くなってきたように思う。以前のように野花を摘むことはないが、代わりに雑草を毟る。ブチブチと音を立てて引きちぎられた新鮮な草から溢れる瑞々しさが俺の手を濡らした。
そんなことを夢中になっていると、背後から声がした。
「ルイス、ここに居たのか」
「ノア?」
振り返った先にいたノアは相変わらず見目麗しく、俺を見て微笑む。ぎこちなく笑い返すと目を細められた。
実は、あれからノアに会っていなかった。ルイスが追い返しているという話を別の使用人越しに聞いたが、本人はそれを否定するばかりだ。
「……懐かしいな。ここにはあまり足を運ばなかったから」
言いながら、俺の隣に腰掛ける。少しだけ緊張して、それを気取られないように半身分距離を空ける。空けた空間より更に間を詰められた。
「ち、近いんじゃあないのか…!?」
「なに、少し強引にいこうと思ってな。どうやらお前はリードされるのに弱いようだから」
顔に巻かれた包帯をノアの指が引っ掛ける。元々飾りのようなものだから緩くしか巻かれておらず、少し力を込められると簡単に布がずれた。醜く爛れた皮膚が陽の下に晒される。
「やめてくれ」
「俺はこの傷痕を醜いと感じたことはない。だが、お前の意志を尊重して隠すのを手伝ったことがお前を傷つけ、付け入る隙を与えたのだとしたら。やはり遣る瀬無いな」
気づいたときには、ノアの瞳がすぐそこまで迫っていた。寸前のところで顔を逸らす。ノアの薄く色づいた唇がピンク色の爛れた頬を掠めた。
「何を……ッ!」
「大切なものは目に見えないように、言葉や行動で示さないと伝わらないこともある。そう学んだだけだ」
「……ッ、随分と熱烈じゃないか! 何を焦っている?」
「お前の傷が塞がるのを待ったのと同じだ。長い時間をかけて癒せばいいと思った。だが、どこからか現れた男が俺の宝物を奪って行ったんだ。許せない」
唇はそれ以上迫ることはなかった。だが、代わりにノアの顔が俺の首元に埋まる。背中に逞ましい腕が回された。首筋にかかる吐息に時折肩を跳ねさせながら、ノアの出方を窺った。
「緊張している?」
「当たり前だ……!」
「なあ、どうして俺が近いと緊張するんだ? まだ脈があると期待していいのか」
「ま、まだとは何だ……最初からそんなものない……ッ、貴方くらい整った男に近寄られたら誰だって緊張するだろう」
「そうだな。俺もルイスが側にいると心臓が高鳴る」
「俺は……整ってなんかいない」
「俺の言葉が信じられないか? それとも俺の言葉を忘れたのか?」
忘れてなんかいない。この人のくれる言葉はいつだって俺が縋りたくなるものばかりだ。
返事のできない俺に言い聞かせるように、彼は淀みなくそれを口にする。
「ルイス、お前は美しい」
「……っ、貴方が好きな俺はもういない。綺麗な顔をした男はあのとき馬に引き摺られて死んだのだから」
その言葉を口にしたとき、ノアは明確に顔を強張らせた。
だが、知っていてほしいことだ。きっとノアの中でまだ俺はわがままで、自分が綺麗だと信じて疑わない子供のままなのだ。だから庇護対象になってしまう。だから律儀に昔の約束を守ってしまおうとするのだろう。
「俺はもう大人だ。貴方の手を借りずとも生きていける」
「……お前は何か勘違いしている」
「んっ……」
手のひらが耳の裏を撫でる。冷たい指先だった。
「俺が一言でもお前は俺がいないと駄目だなどと言ったことがあったか? 俺のほうがお前といないと駄目なんだ」
縋る声色だ。それが何を思って出された声か、俺には推し量ることができない。
ただ背中に回された腕の力強さに応えるように、俺も彼の身体を腕の中に収める。俺たちはよくこうしていた。
『ルイスは俺の宝物だから腕の中に閉じ込めておきたくなるんだ』
幼い頃の幼馴染はそう言って俺を抱きしめた。ノアはお喋りができる魔法の鏡ではなく、腕も脚もある人間だったから。
「俺は……まだ貴方の宝物なのか? 今の俺に貴方が好きな要素なんて、どこにもないだろう」
「そんなことはない。だが、例えそうだとしても、それでもいい、壊れていても宝物は宝物のままだから」
深い緑の瞳が俺を射抜く。この瞳に見詰められると駄目なのだ。胸が高鳴り、喉が鳴る。頬に熱が集まるのを抑えられない。俺の動揺をわかっていて、ノアは俺の頬を擽った。もう一度唇が迫り来る。
重なる瞬間、遠くで馬の嘶きが聞こえた。
「──ノアッ!」
「……ルイス?」
慌てて密着した身体の間に腕を割り入れ、距離を取る。
「帰ったほうがいい。もうすぐアレンが迎えに来る」
「……何故だ。俺を傍に置くのなら奴にも話をする必要がある」
「いいや。俺は貴方の人生を潰せない」
目を見ていられなくて顔を背けた。俺は場の空気に呑まれやすいから、少しでも出した結論を、意志を揺らがせないために目を逸らすことしかできない。
それが間違いだったのかもしれない。
「そうか、ではもう一度死んでくれ」
え、と思ったのと身体が傾いたのは同時のことだった。襲われる浮遊感。嫌な予感と身の危険が同時に襲い来る。派手な音と水飛沫を上げて俺の身体が湖の水面の下へと沈む。
「ゲホッ、ノア……ッ」
陸へと伸ばした手の甲に鋭い痛みが走った。それがノアのブーツに踏みつけられたと気づく頃には腕ごと蹴られ、陸から手が遠退いていた。
ごぽ……ッ、と水面で音が鳴る。吐き出した空気を取り入れようと必死に顔を水から出そうとするが、上から押さえつけられ思うようにいかない。水を大きく吸った。喉を通る泥混じりの水が喉に引っかかる。泥を飲んだ。最悪だ。だがそんなことにも構っていられなかった。
「あの事故は本当に偶然だったんだ。だが嬉しかった。上手くいけばお前の見た目だけを好く連中はいなくなると思ったからだ」
何も言えない、話を聞く余裕すらない俺に滔々とノアは話を続ける。そのいつになく冷静な声色が、彼は今の状況に少しも動揺していないのだと教えた。
「悪意のある噂は簡単に広まるし、お前と他人を遠ざけることは思うほど難しくなかった。ルイスは昔からとても綺麗だと持て囃されていたが、お前の内面を見る人なんていなかったのだからな」
どうしてだ。ノアは俺のことを殺したいほど憎かったのか。
その問いに答えを与えるように、ノアは口を開く。そのうっとりとした声色に吐き気がした。
「俺にだけに依存すればいい。俺だけを頼ればいい。大切な宝物は俺が守るものだから……お前が誰かの腕に抱かれるところなんて見たくない」
自分勝手な言い分。人の話も聞かないで、自分で出した結論だけを押し付ける。それは数分前の自分と重なった。理想を押し付けるさまが俺の周囲の人間たちと重なった。息が苦しい。呼吸が続かない。だが動きを止めるわけにもいかずもがき続ける。諦めにも似た気持ちが滲むインクのように広がる。
濁った視界の中で見えるルイの化け物のように緑の瞳が俺を見下ろしている。その瞳と目が合った瞬間、がむしゃらに手を伸ばし水面を叩く中で俺は明確な怒りを感じた。
──ふざけるなよ。この俺に舐めた真似しやがって!
幸運にも、もがく俺の手が何かを掴んだ。溺れた先の藁のように、ただ何も考えず必死に引っ張る。硬く程々の太さのあるそれはノアの脚だったらしい。バランスを崩し、彼も湖へと落ちる。派手な音が周囲に響いた。
「……ッ、ルイス……!」
「俺は貴方の物じゃない! 俺は……自分の死に際くらい自分で決めるッ!」
振りかぶった拳が果たしてノアにぶつけられたかはわからない。ただ怒りと溺死を前にして意識がぐらぐらと混濁する中で、俺の名を叫ぶ声が聞こえた。耳に水が入り音がくぐもっていたから誰の声だかわからなかった。呼ばれたこと自体気のせいかもしれない。わからなかった。ただ、あれはアレンだと。そうであればいい願望混じりに思った。
■
愛してはいけない男に会うための出汁に使う母と、全て見て見ぬ振りをする父。居場所のない家。誰も彼も俺を化け物と呼ぶ。もう沢山だった。俺が醜い。ただそれだけで失うものが多すぎた。
俺が醜いのは俺のせいか。俺は俺が醜い責任を取らなければならないのか。
事故に遭ったそのときから、ずっと考えていた事がある。
他人から見て俺は不幸かもしれない。だが俺は幸運だ。死んでもおかしくない事故で死ななかったのだから。ならば、やすやす死んでやる真似はするものか。たとえ死ぬほど辛くとも、俺はあのとき死なななかった。死に時を間違えた。信じてはいないが、神が情けで唯一俺に許してくれたものとさえ思う。
だから、自分の死に時は自分で決める。それだけが俺の支えだ。
後ろ暗くて惨めな考え。誰も知らない、誰にも言えない俺の秘密。
……
揺蕩う意識が浮上する。目を覚ましたとき、俺はベッドの上にいた。見覚えのある天井。俺の部屋だ。
「気がついたか?」
「アレン……?」
傍らにいた男が俺に気づくと駆け寄る。彼は俺が与えた従者の服装ではなく、別の服を着ていた。出逢ったときのような小汚い格好ではなく、上等な服。美しい顔立ちと相まって貴族のようだ。
ぼんやりと見詰めていると、身体を起こせるかと聞かれた。言われるままに上半身を起こすと、そのまま身体が人の熱に包まれる。抱き締められているのだ。
「あんたは……死にたいのか?」
それがあのときノアに向かって叫んだ言葉に対する問いだと気づくと、不思議と誤魔化す気持ちになれなかった。
「わからない。死にたいと思ったことはないが、死に際を間違えたと思っている」
「ッ、何考えてんだ……!」
「俺はあのとき死に損なったのだから、生きるしかないんだ」
それ以上でも以下でもない。ただ思っていたことを言うと、少しだけ胸のつっかえが取れる気がした。誰にも伝えるつもりのないことだったから。
「ノアは?」
「今はどうでもいいだろ、そんなこと」
「よくない。俺、あいつの顔を殴ってやらないと気が済まない」
予想外だったのか俺の言葉にしばしアレンは目を丸くしていたが、やがて噴き出す声が聞こえた。
「そうか、そうだな。今度連れて来よう。あいつ、今頃病院のベッドで寝てるぜ。顔面腫らしすぎて誰だかわからないかもな」
今度は俺が驚く番だった。目を丸くする俺の頬を撫で、アレンが「そんなことはもういいだろう」と強引に話を切り上げる。
不承不承の顔で頷くと、彼は満足げに笑った。
「邪魔者がいなくなったってことで、やっと俺はルイスの隣に永久就職できるな」
「そのことなんだが、君もそろそろ自分の家に帰りなさい」
「……、!? え!?」
あまりに予想を裏切る言葉だったのか、アンバーの瞳がこちらを見て見開かれる。驚いた猫のようだなと思って笑いを漏らすと、きつい瞳で睨まれた。
「何でだよ!」
「俺は最初に言った。ノアの代わりになってもらいたいと。ノアを追い出す口実がなくなった以上、俺に従者は必要ない」
「だが介助する人は要るだろ、それが俺でも何の問題もないはずだ!」
「俺は誰かの人生を俺に縛りつける気はない」
「……それはあんたが決めることじゃないだろ」
「結局君もノアのようなことを言うんだな」
苦笑いを溢すと、アレンは心底嫌そうに顔を歪めた。
「俺はあの男があんたを水に沈めてるところを見た。あいつに同情する気はないつもりだが、こればかりは可哀想だと思うね。ルイス、少しは人の気持ちを慮る心を持てよ」
「自分が可哀想だからノアのことも可哀想だと言うのか?」
「どっちが先かは関係ないね、俺もあいつも可哀想だ! あんたもな!」
俺は怒りくらいで人の美が損なわれるとは思わないが、アレンを見ていると全くその通りだと感心せざるを得ない。頬を赤く染め瞳を吊り上げていても、人の造形はこんなにも崩れないものなのかと場違いな感想を抱く。
俺が呆けた顔で見ているの気づいたのか「真面目に聞けよ!」と怒鳴られた。
「俺はルイスの人生に関わりたい。あんたはただ受け入れてくれればいい」
「駄目だ、そんなの。俺は誰の人生も巻き込めない」
「何故だ。まさかこの後に及んで自分が化け物だからと言うんじゃないだろうな」
「そうだ」
俺が強く言い切ると、部屋は水を打った様に静かになった。視線を交えることなく話を進める。決意を揺るがせてはいけないから。きっと俺は彼の瞳を見ても動揺してしまうだろう。
「俺が綺麗に生まれたのは俺のせいか?」
「君のせいではない。が、考えたことはないか? 貴族に生まれたものは人より裕福に暮らししている分、向上心や闘争心を人一倍持つべきだと。生まれつき力が強いなら弱い者を助けるべきだと。強さを望み手に入れたのなら、その力を正しく使わなければならないと」
「……つまり? 俺が綺麗すぎだから責任持って相応の生き方をしろって?」
「強さに責任が伴うように美しさにも責任が伴う。そう思うだけだ」
目を眇めた彼が昏く笑う。「大層な持論だな」と吐き捨てるように言った。
きっと彼は本気で怒っているのだろう。自分の為に、ノアの為に、俺の為に。だが、俺は俺の考えを曲げられない。
「人に押し付ける気はない。だが俺の行動原理ではある。俺のために誰かの人生が犠牲になるのは許容できない」
「その持論じゃあんたはどうなるんだ。醜い生き物はさっさと死ぬか人目に触れず孤独死しろってことか?」
「まあ、そうなるな」
現に俺に残された道なんてそんな物だろう。今まではノアがいたから生活が回っていたが、結局人は一人では生きられないものだ。母もノアに傾倒していたようだし、あの人はそもそも精神的に弱い。母が崩れれば父もいよいよ見て見ぬ振りはでは過ごせないはずだ。
誰も知らないレイシス家の中身は砂上の楼閣だった。ここから崩れ去るのは、きっと俺が予想するよりも早い。
今後のことを考えていると、近くから鋭い舌打ちが聞こえた。言うまでもなくアレンのものだ。
「俺はルイスに選んでもらいたかったが、そんなこと言ってられないくらいあんたは死にたがりらしいな」
「死にたがったつもりはないが、強いて言うなら世間が俺を殺したがってるんじゃないか?」
「人のせいにするなよ」
「そうだな、言い過ぎた」
「俺が死にたがってるせいだ」そう言うと、彼は俯いた。長い沈黙が部屋を包む。
もう疲れた。ズタボロの身体とは一生付き合うしかない。家に居場所はなく、家族からも愛されない。見ず知らずの他人からは化け物と蔑まれる。唯一の望みは幼馴染には真っ当に幸せになって欲しかっただけなのに、どうやらそれも難しいことのようだ。
どうすることもできないならせめて誰とも関わらずに余生を過ごしたい。そう思うことがそんなにも悪いことなのだろうか。
俺は何も言わない。アレンも口を開かなかった。長い沈黙の中でアレンの鼻を啜る音が聞こえる。泣いているのだと気づいて、躊躇いながら目の前にある頭を撫でる。男の肩が震えた。
「……なあルイス。あんたは人の為に死ねるようだから、その崇高な献身の御心に付け込んだ俺の願いを聞いてくれるか」
「そうだな、内容によるが」
言ってみろと視線で促すと、彼は俺の顔を両の手のひらで押さえ固定した。目を逸らすことは許さないと言わんばかりの力強さに思わず顔を顰める。
だが、結局俺は文句を言うことができなかった。
「俺の為に生きると言ってくれ」
目の前にアレンの顔がある。日に焼けて浅黒い彼の肌が赤く見えるのは気のせいではないはずだ。
「あんたにとって死ぬほどどうでもいい人生は俺がとても欲しいものなんだ。人に優しくされないくせに優しさを損なわない、あんたの心がほしい」
「……最初から思っていたが、君は何でもストレートな物言いをするな」
「誤魔化すなよ」
「誤魔化してないさ。この程度で誤魔化されてくれる気もないのだろう」
彼と関わった時間はとても短いものだが、それでもわかることがある。若さゆえの傲慢なのか、彼はきっと手段を選ばない。ノアとはまた違ったものを腹の底に感じるのだ。案の定彼は「ああ、そうだ」とのたまい、そのまま俺の首筋に顔を埋めた。
「見返りを求めない愛というのは貴重なものだからな。だからあの男もあんたのことを手放せなかったんだろ」
「見返りを求めない、ね……そんなことないと思うけどな」
「あんたは知らないかもしれないが、普通の人間はルイスよりずっと欲深い生き物だぜ。手を伸ばせばきりがない。その人の全てが欲しくなるものだ」
「君もそうなのか?」
「今すぐあんたをぶち犯したいくらいにはな」
アレンが顔を上げた。アンバーの瞳が俺を射抜く。ノアも同じことをしたはずなのに、不思議と恐れはなかった。こんなことを口にすると腹の底がぞわぞわとしてしまうのだが、愛しいとさえ感じるのだ。
「そんなことしないくせに」
笑いが込み上げる。それを押し殺して微笑むと、アレンは意地悪く笑った。
視界が傾く。押し倒されたからだ。視界いっぱいにまで近づいた彼の吐息が俺の唇を震わせた。
「本当にそう思う?」
「……ふ、そんなことをせずとも、君が本気になれば俺のことなんて指先一本まで自由にできるだろう」
「へえ、俺のことをどこまで知ってるんだ?」
隠す気なんてないくせに。声に出さず唇だけでそう言うと、男はくすくすと笑った。野生的な彼に似合わないどこか上品さの漂う笑い方。
「君が俺のことを言い当てたように、俺も一つ推理してみようと思う。まず服装。随分と上等な物だ。そんな生地、貴族だって平服に使う身分は限られている。そうだな……貴族なら公爵といったところか。王族が使っていてもおかしくはない」
アレンは黙って聞いている。それどころか促すように、口元に笑みさえ浮かべて。
「アレンほど赤みの強いジンジャーブロンドは珍しい。俺は行ったことがないんだが、昔ノアに聞いたことがある。隣国の何番目かの若い王子がそれは大層なジンジャーブロンドで、若者はそれを真似て染めるのだと」
「へえ、この色そんなに人気なのか?」
「その王子というのが話題に事欠かない人なのだそうだ。誘致で本国に留学経験もあると聞く。この国は比較的治安が良いからな。ところがその治安の良さが悪い意味で目に留まってしまったのか、王子は自分の信頼できる部下にだけ居場所を伝えて旅に出ると言って聞かないらしいんだ」
「そうだな。治安の良さなんてたかが知れてる。例えばこんな格好のやつが一人で歩けば男でも追い剥ぎに遭う。どこの国も安全な場所なんてないと学んだだろうよ」
「ところでアレン、君は確か18歳だったな」
「ああ、ちなみにその王子ってやつも18歳だぜ。それと一つ補足なんだが」
何も悪びれることなくアレンが笑う。
「その王子、傷心直後に出逢ったいい人に惚れちまったらしいんだ。勝手に化け物扱いした馬鹿を許してあまつさえ街まで案内してくれるようないい人に」
それから俺が何か言うことはなかった。唇を塞がれてしまったからだ。こじ開けるように力強く顎を撫でられ、舌先が閉じた唇をノックする。
「……ッ、あ、んぅ……っ」
強引にも程がある。だが、それがどこか居心地がよい。息苦しさを感じるほどの濃密な口付けに目眩がしながら、どうやら俺はとんでもない男に捕まってしまったらしいのだとぼんやり思った。
……
誰もいない部屋の中。男は自分の呻き声で目を覚ました。気絶する直前まで殴りつけられた顔中が抉るように痛む。きっと気を失ってからも殴られたのだろうことは予想がついた。だがそんなことよりも、手を伸ばして掴めなかった存在が男を苛ませる。
「……ルイス」
返事はない。必死になって傍に置いた愛しいお姫様は王子が掻っ攫ってしまったからだ。自らを白雪姫の継母だと卑下したあの子は、間違いなくノアのお姫様だったのに。
水浸しの服を放置したせいか、傷口から雑菌が入ったのか、異常なまでに体が熱かった。熱に浮かされた頭で考える。これまで自分がしてきたことは何だったのかと。
誓ってルイスの母君に色目を使ったことはない。だが、あの女の瞳を向けられることを拒まなかったのは事実だ。愛しい人の父に気に入られ、母に気に入られ。そうして根回しは完璧だったはずだ。時間さえあればノアの勝ちだった。ルイスが中途半端に勘付いてた『父親が爵位譲渡目的で養子にする予定の優秀な部下』とはノアのことだ。
ルイスはノアを自分の側にいるだけとしか認識してなかったが、実際は父親の部下だった。計画通りに事が運べばルイスとノアは義兄弟という形であれ同じ姓を持つ家族になれたし、ノアもルイスと実質婚約のつもりでいた。
だが、必死にした根回しも今ではもう意味がない。
「……はっ、畜生、何が王子だ……俺だって、俺のほうが先に……」
熱くなる目尻を拭って呻いた。
都合のいい鏡になんてならなければよかった。初めからお姫様を守る騎士でいたかった。ただあの笑顔を大切にしたかっただけなのだ。
だが、後悔しても遅い。魔法の鏡は割れてしまったのだから。
ルイス…受け。元は美人で今は顔面コンプまみれ。事故直後は死ぬほど死にたかったけど、事故で死ねなかったことで「死に際を間違えた」と思って生きている。特に自殺する予定はないが死ぬ時期は自分で選べることが心の支え。
20歳。黒壇の黒髪
ノア…攻め1。ルイスとは幼馴染で初恋の相手。幼い頃のルイスの笑顔が忘れられない執着攻め。ルイスとは半ば主従関係。周囲からもルイスからも事故の責任を感じて仕えていると思われているけど別にそんなことはない
24歳。プラチナブロンド、深い緑の瞳
アレン…攻め2。口調は粗悪。美形。美しさに執着がない。一応自分の顔の良さの自覚はある。
18歳。ジャンジャーブロンド、アンバーの瞳