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吐けないならばせめて薄めようと腹がタプタプなるまで水を飲んだカンタは、この散らかった(散らかした)部屋に一人たたずみ、何を思ったのか服を拾いはじめた。たとえ砕け散っていようと、ここは夢の生活であった場所だ。たとえ出奔するにしても、立つ鳥跡を濁さずという言葉に倣って、せめて綺麗にしていってやろうではないか。少しだけ頭の冷えたカンタはそう思い、服を静かに畳んで部屋の隅に置き、テーブルの上の食器を台所へもっていって手が痺れるほど冷たい水で洗った。食器を水切りに並べると、他にやりの事したことは無いかなと、居間を見回した。新婚当初からここへ移り住み、五年も暮らしているというのに、まるで他人の家のように感じられた。並んだ家具はどこかよそよそしく、自分の物とは思えなかった。いたたまれなくなったカンタは窓まで行き、なんとなしにカーテンを開けた。外は相変わらず雪が降り続いていて、すでにベランダにも積もっていた。窓を開けると、身を切るような風がカンタを襲った。うう寒いとコートの襟を合わせ、ブルブルと震えた。まだ誰も踏み荒らしていないベランダへ、靴下のまま降りた。降ったばかりの雪は、まるで絨毯のようにカンタの足を受け止め、キュッキュと鳴き声を上げた。時間が時間なせいか、都会の喧騒はいくぶん遠くに感じられた。駅前にあれだけ溢れていた人たちは、ちゃんと自宅へ帰れたのだろうか。帰れる場所がある人間は幸せである。こと、カンタのような状況に置かれた人間にとっては、猶更羨ましく感じられた。今のカンタは、帰るべき場所どころか行先すら失くした迷子なのだ。君に逢う日は不思議なくらい、とカンタは口ずさんだ。今は雨じゃないけど、雪が降ていて、雪のトンネルではくぐったところで幸せにはなれないらしい。ただただいたずらに体が冷えていくだけだ。このままもう少し感傷に浸って黄昏ていたかったが、妻の名前は一風変わった方で優しさくらいありふれていないし、呼べば素敵どころか先ほどの光景が思い出されてムカムカしてくるし、何よりカンタはどうしようもなく尿意を感じていた。おまけに足もジンジンと痛みだし、根負けしたカンタは居間へ戻ると、雪でぬれた靴下をぬいで畳んだ洗濯物の上におき、そのままトイレへ行った。長い時間をかけて小便をし、さきほど飲んだビールを排出する。年齢が年齢なので見事な泡立ち具合が心配になるが、カンタはそこまで大食漢ではないし、太ってもいない。酒を飲んだってほどほどだし、間食癖もない。甘いものだってどちらかといえば苦手である。病は気からという言葉もあり、気にしすぎても仕方がないかと、カンタは勢いよくトイレの水を流した。うずまく水流をぼんやりと眺めながら、あの男も自分の小便と一緒に流れていってしまえばいいのにと思った。暗い暗い地下の下水を通り、東京湾にそそぐのだ。こんな卑劣な手にでた男には相応しい最後ではないか。