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そして人間は、その乙女心でもって進歩(もしくは進化)してきたのではないのか? 進化を即したのは神様でもモノリスでも宇宙人でもなく、利己的なスケベ心なのだ。宇宙から板が落ちてこなくたって、人間は自分たちの意思でもって前へ、前へと進むのだ。カンタは妻の新たな一面に飢えていた。それを知ったならば、カンタは一歩、前へ進めるかもしれない。それはアウフヘーベンではなく、純粋な進化である。カンタと妻の関係が一段高い位置へ昇華されるのだ。それは望ましいことではないのか? カンタは足らない頭で考えた。うむ、多分、望ましいことであろう。誰だって進化を否定する者はいない。カンタだって、御多分に漏れず望む事であった。だが……この時のカンタは、進化を軽く考えていた。進化とは常につらく、そしてさびしい。言い換えれば進化とは本人のえり好み出来ない問題なのだ。この原理原則が、この時のカンタの頭にはすっぽぬけていた。またせたな、愛妻、とカンタは寝室の扉に手をかけ、僕は君をどれほど待ち望んでいたかと勇み足で踏み込んだ。寝室は居間以上にしんとしていた。静寂はいやに生々しくそこに存在していて、ふと手を伸ばせば掴めそうなほどだった。この世から音という音が消え失せ、かわりに何か得体の知れないものがそこに入りこんで満たしているかのようだ。カンタは咄嗟に両足に力をこめた。気を失う直前かと思ったからだ。しかしいくら待てど意識が暗転することはなかった。ためしにカンタは頭だけ廊下につき出して居間の秒針に耳を澄ませてみた。たしかにカチカチと聞こえる。どうやらおかしいのはカンタの耳ではなくこの部屋のようだ。それくらい寝室は静かだった。寝息一つ聞こえない。ことによるとこの部屋には最初から誰もいないのかもしれない。カンタが求め続けた妻とは彼自身の妄想の産物で、長い独身生活末に寂しさを紛らわすために築きあげた幻影だったのかもしれない。そして見えないものを必死に求め続けたカンタが、とうとう現実と向きあう時が来たのだ。ということもなく、サイドテーブルのライトは付けっぱなしで、見慣れた妻の後頭部が照らし出されていた。もともと妻は静かに眠るのだ。死んでしまったのかと錯覚するくらい静かに眠る。新婚時代に夜中にトイレで起きた時など、あまりにも静かすぎて生きているのかと心配になったほどだ。妻が耳元までかぶった毛布が音もなく上下していた。確かに生きている。ちゃんと呼吸をしている。カンタ安堵のため息をすると微笑んだ。しかしその微笑みは一瞬にして凍り付いた。いやいや、そんなことは……とカンタは自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。それと同時に胸がキュッと締め付けられ、外では雪が降ているというのに変な汗が噴き出した。もちろん暖房が効きすぎているということもあるのだが、汗の原因はそれだけではなかった。目の前の光景をカンタの脳が理解することを拒んでいた。これは……悪い冗談であった。カンタはそっと廊下へ戻ると扉を閉めた。そして大きく深呼吸をし、いやいや……と何度も唱えた。そのうち、舌がもつれて、いあいあ、と変化した。そまま黒きハリ湖に住む化け物の眷属を呼び出して、魂だけでも無名都市に保管してほしかったが、秘薬も石笛も蜂蜜酒もないときている。このままでは死せるカンタ、東京の片隅にて、夢見るままに待ちいたり(何を?)、という状態に追い込まれるか否かの瀬戸際だった。