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なるべく音を立てないようゆっくりと鍵をまわし、扉にふれた肩にそっと力入れ、開いた隙間に己の体とキャリーバックを差し入れる。家の中はしんとしていた。居間の電機は消えていて、その闇の中で時を刻む秒針の音だけが踊っていた。時刻は十時を回ったばかり、随分お早い就寝だ。これには出鼻をくじかれたカンタであったが、すぐに気持ちを入れ替える。まだまだ妻を驚かすチャンスはあるのだ。カンタは静かに靴を脱ぎ、この、不気味なほどの静寂の中を、「幻想 その殻は割れ 中より実 はみだし」、ここまで苦楽を共にしたキャリーバックを玄関に置き去りにし、抜き足差し足、「その殻は割れ 中より実 はみ出せ!」、忍び足で進む。薄明りをつけると、居間には几帳面な妻としては珍しく、食べかけの皿が散らかっていた。その中にはビールの缶まであり、下戸の妻にしては珍しいもんだとカンタは微笑んだ。まあ飲みたい日もあるさと、皿に残っていたローストビーフをつまみ上げ口に入れる。食べなれたデパ地下の味がした。妻はいつもこれを自分が作ったと言い張る。それがカンタに意地らしく感じられて、ちょっとした心の癒しだ。並んだ缶を振ってみると、一本だけ飲みかけだった。これ幸いと飲んで食べて、食べて飲んで、小腹を満たす。亭主元気で外が良いなんて言葉もあるが、自分としてはいつも妻といたい。まあでも、それが妻の重荷になっては困る。誰だって一人になって羽目をはずしたい時はあるのだ。自分も少しは気を使わなければな、とビールの最後の一口を飲んで反省したつもりのカンタは、相変わらずの抜き足差し足忍び足で寝室に向かう。元気に「ただいま!」なんて言ったあとの妻の驚く顔を想像して、一人ニヤニヤしてみる。今頃は大阪のホテルにいるとばかり思っている愛する夫が、いきなり目の前に現れるのだ、これほど嬉しいサプライズなんてあるだろうか、いやない。カンタはさっさと結論を出し、寝室のドアノブに手をかける。かけたところで、はたとカンタの頭に疑問がよぎった。本当にこれがサプライズになるのか? 予定より早めに帰宅しただけの行為がはたして他人にどれほどの衝撃を与えるものだろうか? これではサプライズとしては二流、いや、三流、いや、下手をすればそれ以下……この大して意外性のない行為を、本当にサプライズと呼んでいいのだろうか? カンタはドアノブから手を放すと腕を組んでウンウンと悩んだ。そうこうしているとサプライズという言葉の意味自体が分からなくなってくる。仕方がない、ここは文明の利器を借りるかと、カンタはスマホを取り出して辞書を引いてみる。「サプライズ、1、人を驚かせること。また、驚き。思いがけない出来事。2、突然の贈り物などで、人を驚き喜ばせること。」2は当然の結果だとし置いておくとして、はたして1の条件は満たしているだろうか。愛する妻は、愛する夫の帰りに驚くだろうか。案外いつもの調子でお帰りなんてて言って、再びベッドに横になって寝てしまうかもしれない。なんせ、今の妻は酔っぱらっているのだ。酔っぱらった妻の相手なんて、いったい何年ぶりだろう。そう考えると、予想外の行動でサプライズをするのは妻の方であって、受けるのは自分なのかもしれない。カンタはこの立場の逆転を前に途方に暮れた。