2.【剣士が剣士で在るために】
突然のイレギュラーに対して状況を処理できていなかった脳が、今ばかりは迷走をやめる。やめさせられる。
視覚的に落ちるグレンの影と、感覚的に陥る不安の闇。そのどちらにも鋭く滑り込み、輝き、煌めく何かの正体は、少女だった。
長く伸ばされ、腰元あたりで踊る金髪。胸元に揺れるピンクのリボンに、肩だけ露出した可愛らしい服装。長い睫毛の奥には、濃ゆく、いや鮮やかに輝く大きな瞳。その色は、暗闇を切り裂く鮮烈な金。扇情的な体のラインは、出るところは出て引き締まるところは引き締まる、なんて称されるのであろうベストボディ。滑らかな曲線を描く脇腹から尻にかけての色気は、きっと同性ですら酔わせるだろう。
「貴様は……スレイヤー……」
そんな美貌の背に庇われている事に、ようやく意識が追いつく。この少女によって一旦打撃が止んだだけで、少年の心の内には安堵が大きく広がる。己を痛覚の迷宮へと閉じ込めた剣士。その姿が少女によって見えないだけ。ただ、それだけだったのに。
いまだ己を痛めつけ続ける痛み、それを成したのは目の前で無傷で佇む男、グレン。その蹴りと殴打の威力は、惨めな姿でうずくまる少年が証明している。その少女とて、なんの勝算もなしに飛び込んで来たわけではないだろう。
その証拠に、少女を視界に写したグレンの表情はあまり芳しくない。
「竜伐第1聖、リディア。あなたのその暴虐は、見逃せないわ。」
「……いいだろう。見せてみろ、その力で。」
「ええ、もちろん。」
その美しい、まるでこの世のものとは思えない美しい顔の造形をピクリとも動かさずに、金麗の少女、リディアは己の腰元に手を添える。己の腰元で、その鋭い闘志を滾らせる相棒に、手を添える。その手には、何処かの紋章が刻まれた黒い手袋。よくよく見ると、その黒が鱗のように連なっていることがわかる。例えるなら、まるで竜のように。
異彩を放つ手袋で触れた腰元。伸びるのは剣の鞘に見えた。グレンのように腰元で揺れる鞘。しかし、グレンのものとは違う、圧倒的な差異。それは、その様相にあった。まるで何かを隠すかのように、鞘全体が包帯でぐるぐる巻きにされている。その卓越した包装技術を見るに、この戦闘に躍り出るために即席で行われたものとは思えない。おそらく、日常的に巻かれている。
片手剣の鞘と同じくらいだろうか、その鞘からは、剣の柄というには些か細いような気がする持ち手が、その存在を薄っすらと放っている。
町娘のような格好のリディアは、動きにくそうな長いスカートをビリビリと破り、鮮やかな手並みで身軽に。スカートはバサバサと空中で暴れながら地面にゆっくりと舞い降りる。
「えっ!?ちょ」
その行動に1番驚いたのは相対する剣士、ではなく、胃液の混じり合った吐瀉物で口を汚した、無力な少年だった。少年の視界を覆うスカート。つまり、リディアは今。
「…………。」
身軽になったミニスカートからは、思わず頬ずりしたくなるほどの魅惑のふとももが覗き、程よい肉付きの肌色が眩しい。
心配、もとい期待していた下着姿ではなかったものの、なかなかに刺激的な格好にチェンジアップしたリディアは、いよいよその鞘から剣を引き抜く。鞘から飛び出た柄を握り、その刃を煌めかせる、はずだった。
「そうか。貴様が……」
グレンの言葉すら耳に入らない。少女が引き抜いたのは、輝きに反射する刃でも無ければ、対象を貫き抉る槍でもない。そもそも、刃すらついていない。それを形容するとしたら、少年のボキャブラリーでは1つしか導き出せない。それは、おそらく。
「つ、杖?」
少女のしなやかな指先が握る、黒い柄。そこから先端への道筋は徐々に曲がり始め、先の太さは持ち手と比べ物にならないくらい細い。無機物にすら嫉妬を向けてしまいそうなほど美しいリディアの手元には、杖に取り付けられた結晶がキラリと光る。
その輝きに当てられたのか、グレンが今まで触れもしなかった剣の柄に指を添える。
「特殊魔装『プロキオン・クルーガー』、で間違いないな?」
「あら、知っていたのね。せっかくバレないように魔術の先制攻撃を控えてたのに。」
グレンがその杖を指差して言う。それに大した動揺もなく、リディアが杖の先端をグレンに向けた。まるで銃口を突きつけられたかの如き異様な緊張感が、そのグレンの瞳を満たした。
「でも、関係ないわ。燃やされるか、光に貫かれるの、どちらがいいかしら?」
「安心しろ。例え燃えようが、貫かれようが、俺の剣を止めることは貴様にはできない。」
「そ、なら安心だわ。」
「?」
リディアの口元が微かに動いた。聞き返すグレンに鋭い眼光だけで返して、リディアが再び声を紡ぐ。次は、しっかりと聞こえるように。
「手加減しなくていいもの!」
刹那、リディアの杖の先端が爆ぜる。爆煙を撒き散らし、空間を一瞬で白に染め上げたものの正体は、何だっただろう。理解すら追いつかないまま、視界すら取り戻せないまま、己すら見つけられないまま。煙が真一文に晴れる。一枚の布を切り裂いたように消えていく、とてつもない火力の暴虐の軌跡。少年に確認できたのは、直前に発されたリディアの呟きの息遣いのみ。それ以外は、理解することすらできなかった。
「いい暖かさだ。アイクで人間魔力製品でもやってみたらどうだ?」
「あなたこそ、いい剣ね、それ。まるで鉄をそのまま切り出したみたい。粗雑で乱暴。今のあなたみたい。」
よくもまぁ焦げ臭い煙に巻かれてそこまで口を回せるものだと感心する刹那、グレンが再び剣の柄に手をかけた。アキトの五感をその全てでもって破壊しようとした爆炎を前に、グレンは剣を抜いていなかった。理解の追いつかない少年を置き去りに、グレンがその第一歩を踏みしめる。リディアが構える一瞬前、リディアの立っていた地面が五角形に刻まれる。丁度リディアを中心して掘られたそれは、その精巧な見た目から魔方陣かなにかかと勘違いしそうになる。それほどに、繊細な溝。
そして恐らく、それを成したのは。
「訂正するわ。あなたの剣技は繊細で精巧だわ。本当に似てる。そうやってすぐに力をひけらかしちゃうような、繊細なあなたに。」
そうして、リディアは表情を変えずに杖を振るう。頰を滑り落ちた冷や汗を、必死に無かったことにしながら。
★
少年は、ひたすらに混乱していた。リディアの立つ地面に刃を落とし、その精巧な五角形を生み出したのは恐らくグレン。しかし、少年にはその挙動が、そもそもグレンの姿すら見えていなかった。その上、彼の腰にて存在感を放つ刃すら、まだその視界に収めてはいない。今まで己が見てきた物の、世界の、全ての狭さに、矮小さに、滑稽さに、思わず視界が眩みそうになる。意識を手放してしまいたくなる。
いまだに痛みを発し続ける体。それは、きっと普通の状態だとしたらアドレナリンに脳を浸されていてももがき苦しむほどの痛みだったはずだ。しかし、今はそこまで気にならない。何故だろう?
痛み、不安、怒り、困惑、無知、なにもかもが、己を苛む悪感情。視界を黒く染め上げる。思想を真っ黒に捻じ曲げる。未来を漆黒に蝕まれる。それが、普通だったはずだ。なのにも関わらず、そんな素振りは体から見つけられなかった。
その黒には、金の鮮烈さが染み付いていたから。
「ッ!」
リディアが微かに眼を見張る。表情を無表情に一貫していた少女から発せられる、微かな、しかし確実な緊迫感。それが、今は酷く大きく見えた。視線の先、グレンの姿はない。いつの間にやら消えた男の存在を探すも、そこに在るのは降りしきる葉と微かな木漏れ日。どこにも、あのプレッシャーの塊は見つからない。
超人同士の命のやり取りに、常人以下の少年が視線だけでも追いつこうとするのが馬鹿らしい。そんな言葉が聞こえてくるほどに、その戦いは少年の意識外で行われている。
今だって、例外ではない。グレンを探していた視線が、視界の外から漏れた嗚咽によって一気に引き寄せられる。それは、グレンから繰り出される、弾丸の如き速さの鉄拳。そして、それを髪一本ほどの距離で避ける少女の声。
グレンの一見無気力に見える構えは、その手に剣が見えない。依然、鞘に差さったまま。しかし、それがリディアの実力を見誤っているとは思えなかった。ぶらりと下げられた左腕と、残像すら生み出すほどの右拳の威力は、リディアすらも圧倒してみせる。
グレンの視線がリディアの顔面を這った。そこで反応できたのは、ほぼ偶然。それこそ、これまでリディアが培ってきた能力の、無意識の反応だったのだろう。視認することすら容易ではないその些か速すぎる打撃を、握りしめた杖の中程で弾き、己の背後に受け流す。微かに、グレンの重心が傾く。その隙は、大きすぎる。
「い、ンフェルノ!」
リディアの杖の先が、ガラス越しに見たかのようにぐにゃりと歪曲する。世界ごと握りつぶされた空間に、赤い何かが一粒。そして、爆破。グレンの腹部のゼロ距離で、己の腕すら巻き込みそうなほどの大爆発が巻き起こる。燃え上がる炎は空中で揺れ、踊りながら消え去る。白煙に巻かれる2人の様子は、外からでは窺い知れない。しかし、あの距離であの威力のものを避けられるとしたら、それは化け物と変わらないという安堵に似た感情が、ふと少年に襲いかかる。
「今の隙は、大きすぎた。」
瞬間、鬱陶しいほどに一帯を覆っていた爆炎のベールが、微かな火花とともに熱風となって消失する。その風圧に身体中を打たれながら、口や鼻から侵入してきた煙に咳き込む。己の内側を焼き焦がす、引き裂かれるような痛みに瞳を潤ませれば、依然身体中から発せられる痛みが一層増えた気がした。
ようやく呼吸を整えて、視界を濡らす涙を拭けば。戦況は、一目瞭然だった。
「隙……ね」
「大きすぎる隙は、小さすぎる敵意かもしれない。覚えておけ。」
そうしてグレンの長い脚が弧を描き、蹲るリディアの腹部を打つ。そうすれば、嗚咽を漏らして地面に転倒。美しい容姿を煤まみれにしながら、ひたすら痛みに喘ぐ。背徳的なまでの美しさに喉を鳴らしながらも、少年はどこかで理解した。
ここまでの痛手をリディアに負わせた上に、この男はまだ剣を見せていない。己の持つ武器を、まだ使っていない。その恐ろしさは、戦闘とは無縁の無力な少年を震え上がらせるのには、十分すぎる結果だった。
リディアの処理を早々に切り上げ、グレンは先に少年の処置を優先したようだった。再び、暴虐の嵐が巻き起こる。ただそれだけが怖い。理不尽が、憎い。
「使えねえ、登場の仕方は一丁前で戦ったらこれかよ……クソが」
それは既に、方向すら定まらない、銃口の向きを考えない乱射。醜い吐露。少年は、己を守ろうとした少女に、その罵倒の銃口を向けた。
ピクリ、と。グレンの表情が陰る。それが怒りだったのか、悲哀だったのか、嘆きだったのか、あるいは全部だったのか、的外れだったのか、わからない。しかし、グレンは確かな嫌悪感を示して、アキトに再び拳を振り上げた。心なしか、その威力は、強そうに見えた。
(やば、それは死)
ガキン!、という金属音が鳴り響く。恐怖に陥った少年は、閉じていたまぶたをゆっくりと開けて、己を打つはずだった拳を見る。
そこには、剣があった。今まで一度も見なかった剣が。そこに鞘が付いていたとしても、頑なに剣を握らなかったグレンにそれを握らせたのは、その攻撃音の主に称賛を送らざるを得ない。
煤に汚れたリディアに、称賛を送らざるを得ない。
リディアの握る杖は、心なしか宝石に光が灯っているように見える。しかし、そこに対して意味はないだろう。その劇的すぎる変化の前では、大した意味もなさない。杖には、刃が付いていた。杖の先端を挟むようにして刃が伸び、片手剣の体をなしている。しかし、それがただの剣でないこともまた、一目瞭然だった。刃は杖に固定されていなかった。いや、形的には固定されているのだろう。しかし、刃は杖に接着されていないし、触れてすらいない。
まるで見えない何かに繋がれたように杖と刃は一体化し、片手剣へと成り代わっていた。それを鞘付きの剣で受け止めるグレンの表情には、大した感情はない。まるで知っていたかのようにそれを弾き、リディアの胴体に前蹴りを叩き込む。
またしても途轍もない威力の蹴り、しかし、リディアはその肢体を僅かにずらし背後へ跳躍。綺麗に衝撃を受け流して見せた。
「しぶといな。」
「いつ私が倒れたように見えたのかしら?」
「話が見えないな。」
「今、私が蹲っていたの、とても大きな隙だと思わない?」
グレンは静かに頷いて、フードの帽子を深く被り直す。
「仕切り直しに付き合ってもらうわよ?」
「相当な特殊性癖に見える。己への蹂躙を仕切り直そうとは。」
嘲笑気味にグレンが口角を僅かに吊り上げる。しかし、それが心からの笑みかと問われたら、一切の余地なくノーと言える。どちらかと言うとそれは、笑みではなく。威嚇に見えた。
「……面白い。」
それでも彼は剣を抜かない。依然拳を構えてリディアを見据える。正確には、そのリディアの手に握られている武器、『プロキオン・クルーガー』と称された武器、魔装に視線を合わせる。その特異であろう武器を眺めるグレンの目には、それに対する恐怖や好奇心、関心は皆無。そこに宿っていたのは恐らく、愛しさ。
「鞘への収納によって量産魔術杖と量産刀剣魔装の機能を入れ替える、一対の魔力機巧を有する特殊魔装。貴様がそれをどれだけ扱えるのか、見せてもらおう。」
グレンの姿が搔き消える。全身を細切れにされたかの如き挙動で、グレンは消えた。勿論再び現れる時は、リディアの眼前。
振り下ろされる手刀が、確かにリディアの頭を捉える。息を呑む暇すらない。突然目の前に現れて、即死級の攻撃を放ってくるそれは、理不尽すぎる脅威だった。
脅威なはずだった。空気を切り裂く風切り音すら聞こえてきそうな威力で放たれる手刀と、華奢なリディアの頭の隙間に、針に糸を通すような繊細な剣技でもって刃がねじ込まれる。リディアの頭蓋を砕くはずだった手刀の脅威は、少女の掲げた剣に受け止められ、その威力を大きく削ぎ落とした。それでも消しきれなかった衝撃を、刃を振るうことで受け流し、空中で静止するグレンの腹めがけて、ノータイムで剣を切り返した。
天を突くように振り上げられた刃に接触したグレンが、鋼鉄を打ったようなくぐもった轟音とともに吹き飛ぶ。一度は空中で持ちこたえたが、いくらその体躯が強靭であっても、衝撃を受け流す地面も、踏みしめる大地もない状態では、耐えきれなかった。
叩き上げられたグレンはその勢いのまま、乱立する樹木の1つに着地。自由落下とともに木の樹皮を駆けて地面めがけて視線を伸ばす。そして、あわや地面に血の華が咲く寸前、樹木を蹴ったグレンの拳がリディアを再び襲う。
鼻先を掠めたその威力に戦慄しながら跳びのき、杖を鞘に戻してグレンを観察する。断ち切られていてもおかしくない。それほどの太刀筋を、リディアはグレンに叩き込んだはずだ。しかし、彼の腹部には傷がない。傷どころか、羽織ったローブ、衣服にすら、糸のほつれすら見当たらない。ならば、考えられることはひとつ。刃に響いたあの重い感触と音。彼は、鞘で刃を防いで見せた。同時に距離を取りながら。
途轍もない反射速度に、恐れを飛び越して笑みすら溢れそうになるリディアに、グレンが再び距離を詰めてくる。その動きは、酷く迷いがない。
(杖を鞘に入れるという行為は、彼にとって私が魔法と剣とを入れ替える行為となんら変わらない。)
今、刃を携えた杖を鞘へと導いたリディアの行動。それを見たグレンは、なにを思うだろうか。きっと、彼は直感で思うはずだ。次は、杖を使った魔術攻撃がくる、と。グレンの見せた圧倒的な頭のキレ、そしてそれを戦闘に瞬時に反映させる肉体センス、あるいは実力。そんな男にだからこそ、その分かりにくいかもしれない行動が読まれる。
魔術の攻撃を確信したのであろうグレンの行動はわかりやすい。リディアの懐へと潜り込む。その疾駆の先に、待っているのが刃だというのに。
握り締めた柄を引き抜いた。その杖には、まだ刃が存在していた。魔術攻撃は、一定のタイムラグが生じる、いわば中距離向けのもの。だからこそ、グレンは肉薄してきた。そこを、魔術攻撃に切り替えていない剣で斬りつける。研ぎ澄まされた剣技が、その刃を正確にグレンの頭へと導く。
グレンの眼球スレスレで躱された刃は、グレンの髪を数本斬り裂いて空を食む。
「今のを……避け……!?」
刃を紙一重で躱したグレンは、その勢いのまま体勢を低く、鼻先が地面を削りそうなまでに前傾姿勢をとる。それによって、リディアの刃を完璧に躱してみせた。速度を落とさずリディアの背後で反転、少女が殺意に振り向く暇すら与えずに、鋼鉄と見まごうほどの拳鎚がその背中に叩き込まれた。
「え……ぐっ……!」
弾き飛ばされたボールのように跳ねまわり、尋常じゃない速度で森を駆け抜けていくリディア。しかし、そのままで終われるほど、学習能力は低くはなかった。煌めく刃を地面に突き立てて、己を吹き飛ばす威力を殺しながら、地面とともに切り刻みながら、ゆっくりと静止する。
ぜぇ、ぜぇ、と荒い呼吸を繰り返すリディア。肩を揺らして顔を歪め、無表情に痛覚の片鱗を滲ませた姿は、見ていてとても痛ましい。背中を貫いたグレンの拳の威力は、リディアをそこまでさせるのに十分な威力だった。
痛覚と衝撃に苛まれ、その度に視界を火花が覆い尽くす。その可視化するほどの痛みを必死に押し殺して視線をあげれば、リディアの眼前に迫った拳が再び視界を白く染め上げる。一瞬の反射で顔を逸らし、その拳の威力を顔半分に抑えられたのは幸運と言える。しかし同時に、それだけで済むことはないと、わかっている。
容易にリディアに踏鞴を踏ませるグレンの拳は、既に待つという行為を忘れ去っており、忘却の彼方に消え去った躊躇とともにリディアを殴り殺さんと追撃の音色を響かせる。
それを必死に剣で受け止め、あるいは受け流し、己を取り巻く死という概念から逃れようと足掻く。足掻く、足掻く。しかし、その攻防が剣と拳だとは言え、実力差というものは精神力や心の在り方で覆せるものではない。その隔絶した隔たりを埋めるための時間は、今のリディアにはない。
「っ!」
不運にも、グレンの拳を叩き落とそうと果敢に攻め入った刃が軌道を変え、ブレる太刀筋の側面にぶち当たる鉄拳が金麗の刃を弾き飛ばした。くるくると回りながらリディアの背後に落ちた剣は、魔力の供給元を失ってただの杖となって地面を転がった。
完全なる無手となったリディアに、グレンは最後とばかりに手向けの拳を振り上げる。その初速は既に人の認識できる速度を超えていた。
幸運とは、連なるものではない。何度も繰り返される幸運は、ありがたみを忘れられた奇跡は、既にその言葉の意味をなしてはいない。つまり、そこでリディアがグレンの拳を受け止めたのも、左手にあった手袋も、依然変わらない表情も、幸運ではない。奇跡でもない。
彼女は成し遂げたのだ。今までの多大な暴虐の中で、その隔絶した溝を埋める『何か』を、その溝を埋める、ほんの少しの材料を見つけたのだ。勝ち取ったのだ。
奇跡ではなく、実力として。
「特級……魔術!」
その表情に一瞬迷いを生じさせて、グレンがリディアの左手に掴まれた拳を振りほどこうと動く。しかし、リディアの方が数瞬早い。彼女の幸運から繋がった実力の奔流。それは、確かな形として顕現した。
「『インフェルノ』」
リディアの左手で燻っていた漆黒の手袋。黒く鱗のように光を反射させるそのなんとも言い難い忌避感を覚えるそれから、瞳の水分を焼き尽くし、尚その奥に眠る脳髄すら干上がらせようとするかのような紅蓮が、顕現した。
その威力はただの魔術として片付けていいというほどの威力ではなかった。爆炎の火柱は周囲の大樹を軽々と越し、そこから巻き起こされる熱風と旋風の風圧は、リディア達から離れていた無力な少年すら焦がすほどだった。グレンとその後方の広範囲を包み込む、爆炎と炎上の連鎖。爆発音は鳴り止まず、グレンが背負うように乱立していた超巨大樹は、その数本を葉の一枚すら残さず消し飛ばされていた。
そんな炎の地獄。まさにインフェルノの中で、黒影は小さく肩を揺らした。
役目を果たした爆炎が炎と化し、炎の勢いは煙となってかき消され、その理に従って魔力となって世界に溶ける。残っていたのは、消し炭になった樹林の無残な姿と、焼け焦げて煙に巻かれるグレンの死体、ではなかった。真っ黒な世界の境界線で、グレンはゆっくりと剣を腰に戻した。
(鞘だけで、防いだ?)
「今の攻撃には、敬意を称さなければならないな。」
一筋の紅が、グレンの頬を彩った。パチパチと燃えるローブの先端を叩き、真っ直ぐにリディアの瞳を見つめる。その瞳には、確かな罪悪感と敬意、そして一握りの悲哀も含まれていた。混ざり合った感情は次第にグレンの体を巡り、やがて、彼の腕を動かした。
リディアの瞳が静かに見開かれる。表情の変化に乏しい少女が見せた驚きは、きっと1番の変化だったろう。例えどれだけ痛くとも、例えどれだけ激昂しようとも、己の内で火花を散らす感情の葛藤に波打っても、その波動は決して表情に届かず、氷の仮面ともとれる無表情を作り出していた。それでも芯のあるような少女だった。
しかし今は、驚愕に立ちすくむ少女だ。
グレンが静かに剣を抜いた。
いや、考えれば当たり前の事のはずだ。剣士は剣と、魔双師は杖と、王は民と、きっても切れぬ因果関係。人はそれを武器と呼び、人はそれを相棒といい、人はそれをかけがえのないものという。剣士にとってそれは剣であり、剣にとってそれは剣士だ。今、目の前で剣を抜いた彼の剣士に、何を驚くことがあっただろう?
それは、必然だった。リディアが杖を取るように、少年が呼吸をするように、世界に朝が来るように、世界に闇が落ちるように、炎が燃えるように、水が流れるように。王が、王であるように。なのにも関わらず、その場にやっと何かが満たされた気がした。
「あなたは……まさか……!?」
言葉尻に静かに驚愕を滲ませて、リディアの視線が抜かれた剣に釘付けになる。
その剣は、大きかった。片手剣ほどの様相だったが、抜かれた刃の厚さは大剣をゆうに超え、刃の広さも片手剣よりいくらか大きい。それは既に、人が両手で扱えると考えるには重すぎる、粗雑で、乱雑で、けれどそれらを一身に刃に込めた、繊細な剣だった。
「特殊魔装、ナンバーアルタリカ。『鉄骨』……本当に……?」
「よく知っていたな。なに、剣の重さと刃の厚さ以外は、量産刀剣魔装と大して変わらない。」
「実力が圧倒的に違います……!」
震える手でなんとか杖を握りしめて、リディアが皮肉を込めて言った。
そうして、グレンが剣を両手で構えた。上段で水平に保たれた剣は、既に剣だとは思えないほどの威圧感を放っている。
「スタンジオ・グレン、俺の名だ。安心しろ、殺しはしない。」
「っ!」
リディアの双眸が苦渋の色に塗られる。その圧倒的な実力差の正体に、気がついてしまったから。それがどうしようもならないことを、知ってしまったから。
グレンがローブを脱ぎ捨てる。はためきながら消えていくローブを視線で追えば、次の瞬間、既にグレンは動いていた。
しかし、その速度は酷く緩慢だった。まるで水の中にでもいるかのように、ゆっくりと、ゆっくりと、剣が、振り下ろされていく。そのコマ送りの世界の中で。グレンが呟いた。
(こんな男のために命を張るのは、あまり賢いとは言えないな。リディア。)
閃光が瞬いた。己の眼球に焼きついたその輝きは、確かに剣の形を模していた。それは既に剣技の域を超えていた。それは既に人の域を超えていた。それは既に、手遅れだった。
轟音。
一瞬の瞬きのうちに、樹林は瞬く間に蹂躙されていく。一度目を瞑れば、次に見えるのは輝きの奔流と呑み込まれていく樹林。次に開けた視界で既に木々は消失していた。次の瞬きの後、地面が抉れて岩石と土砂が捲き上る。空から降り注ぐ光を遮るほどの天幕を作り出す。次の視界では、それすらも吹き飛ばす純粋な剣の力が、なにもかもを無に帰した。
無力な少年すらも、そこにはいなかった。
「1度助けかけたのに見捨てるなんて、私にできるはずないでしょう。」
傷だらけ、致命傷もある。そんな中、リディアは地を這って樹林を進み始めた。
そうして、
「大丈夫っすか?」
声を、聞いた。