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妙なる響きの静けさよ

作者: 藤馬

電話が鳴っていた。決して早い朝ではないが、疲れているはずなのに、昨夜は寝つきが悪かった。寝ていることぐらい予想できるだろうに、マネージャーの石川響子からの電話だ。

「はい。」

「万奈ちゃん、起こしてごめんね。昨夜はお疲れ様。いい演奏だったよ。」

「あっ、ありがとうございます。」

「ところで、急な話なんだけど、来月、夕張で弾けないかな。ほら、ちょうど日本に帰っている頃ね。」

「はあ。」

「とにかく、今からそっち行くね。」

30分ほどして、車の音がして、響子がやってきた。

昨夜、帰宅してから、響子の恩師の桜井佳恵先生からメールが来たらしい。その先生のさらに恩師のバイオリニストのエドムント・バルツァー先生が一線から退き、ほとんどボランティアのように世界中のあちこちで演奏会や講習会をして回っていたそうだ。そして、夕張で桜井の教え子達と演奏会をやろうとしていたところ、急逝してしまった。とにかく偉い先生で期待も大きく、地元の発展の催し物として目玉であったので中止などできるわけはなく、かと言って見合う演奏ができる人を、実費のみ程度の費用で簡単に見つかるわけはなく、まずはマネージメントをしていて顔の広い教え子の響子にメールして来たらしい。

「曲はバッハのコンチェルトとアンコールでなんか無伴奏曲を一つくらい。練習は一回、あと当日のゲネプロね。どうしてもっていうわけじゃないから。忙しいこと知っているし、万奈ちゃんは個人的な関係ないしね。」

「バルツァー先生には昔お目にかかったことはあります。綺麗な音でした。」

「あ、そう。どこで。」

「こんな小さい頃です。日本での演奏会で父がピアノ弾いたことありましたから。」

「ええ、そうだったんだ。」

万奈は父が嫌いではなかったが、ピアニストの父が自分のバイオリン演奏にいろいろ注文をつけてくるのが嫌だった。ジュニアの頃からコンクールで成績を上げているのに、それをちっとも認めてくれなかったのだ。だから、日本へ帰るのは盆暮れぐらい、それもなるべく実家には長居をしたくなかった。だから、今回、日本に演奏しに行くことになり、響子さんが気を利かして実家に帰る時間を作ってくれたのは、あまり嬉しくなかった。できれば顔出すぐらいにしたかった。

「夕張、やります。」

「えっ。本当、本当、ありがとう。助かるわ。桜井先生にはほんとお世話になっていたから。」


万奈が練習場に着いた時には、すでにバッハの練習が始まっていた。誰かが自分の代奏をしているが、非常に綺麗な音で端正な演奏をしている。桜井の教え子達はよく訓練されていた。ビオラやチェロにはエキストラが来ていて安定している。万奈はともかく自分の演奏をしっかりしたいからと、自分の音に合わせるようにと、指示をした。有名コンクール優勝歴があり、その後も有名オーケストラとのコンサートで会場を一杯にして、拍手喝采をもらっている自分が演奏して悪い演奏になるわけがない、と思っていた。一週間後の本番も間違いないだろうと思っていた。

本番の会場はまるで体育館のようであった。クラシック専用ホールでしか演奏したことがない万奈にとって、これは初めての体験であったが、いつものように音が響かない。本番近くなると、あちこちから人が集まり始め、世間話が始まり、非常に賑やかな雰囲気になった。それでも演奏が始まるとなると、静かになり、演奏会らしくなって来た。まずは教え子達の演奏から始まったが、なかなか上手で、みんな真剣な顔で聞いている。素晴らしい雰囲気だ。やがて、プログラムの最後の万奈の出番がやって来た。ところが、始まると、みんな興奮と緊張からか、練習の時よりテンポが速い。しかも一週間前の練習の時と違い、なかなか自分の演奏に合わせてくれない。この一週間ずっとそういう練習をして来たのであろう。オーケストラをコントロールしようとするが、一向に合わさずに自分達のペースで演奏している。いや、違う。会場の関係で万奈の音がオーケストラには聞こえにくいのである。それでも終わると大拍手であった。ホッとしてアンコールのパガニーニを弾こうとしたら、最前列の客が急に上体を起こして姿勢正しくした。寝ていたようだ。この客の目を覚まさせるような演奏をしなくては。万奈はそう思った。そして、やや力んでしまった。終わってもシーンとしている。妙なものを見たような雰囲気だ。しかし、すぐに大拍手が起こった。

「本当に、ありがとう。」

「いえ、こちらこそありがとうございました。」

終わってから桜井と万奈に挨拶を交わした。桜井の隣にいる子は練習の時に代奏をしていた佐々木恵だ。

「この子が今度発表会で同じバッハのソロ弾くんですよ。」

「あなた、綺麗な音出していて、上手。頑張ってね。」

万奈はこの子はとんでもない才能を持っている、と感じていた。コンクールで優勝するのは大変なことだから、私のようにはいかないだろうが、将来は恐ろしいかも、と思っていた。最初の練習の時に聞いた代奏の音をはっきり思い出せる。そう、その後に同じような音を出そうとしたが、出なかったのだ。この一週間、いやその前から、この子がずっと代奏をしていたのだ。


何がきっかけなのか、万奈にはわからないが、調子が出ない演奏が続いた。今まではなかったミスも多くなった。気にすると、以前より拍手が小さくなっているように感じる。演奏の機会もこの頃は減って来ている。録音を聴いても、ミスはあるがテクニックに申し分ない。よく弾けていると思うのだった。しかし、勢いのようなものがない。響子に聞いても、悪くなかった、次も頑張ろうとしか言わない。そこで、桜井の教え子との演奏会から一年経っていたが、その桜井にメールで聞いてみた。今度日本に行った時に、教えを乞うと。万奈には桜井の教え子の佐々木恵の音がずっと忘れられなかったのだ。しかし、万奈と違い、街でバイオリンを教えているだけの桜井がOKするとは思えない。桜井からのメールは意外で、教えることはできないと思うが、とりあえず、話があれば聞くことはできる、であった。依頼する方も常識はずれだが、受ける方もありえない話である。


「お久しぶりです。」

「また、こうして会えるなんて、きっとバルツァー先生が引き合わせてくれたのね。」

「あの時の本番。なんか今になると、すごくいい経験をしたような気がします。」

「何言っているの。あなたほどのバイオリニストに、ほんと申し訳ないほど悪い条件なのに引き受けてくれて、私はいくら感謝してもしすぎることがないくらい。」

万奈はすぐにスランプに陥っていて、演奏に自信がなくなって来ていることを率直に話した。先生に言ったら、自信を持て、誰にでもそういう時期があるが、それでさらに上手になるのだから、と言われただけであった。桜井は私が教えることができるのは、すべてバルツァー先生から受け取ったもの、それなら伝えられると言った。

「私の自慢の弟子の佐々木恵ちゃん、覚えているでしょ。」

「実はずっと気になっていて、彼女みたいな音が出したいんです。」

「恵ちゃんは才能があるんだけど、それはあまり大事なことではない、と思っているの。才能があるから、いろんな表現ができる子なの。」

「でも、そんな豊かな表情の演奏はしていない、感じでしたが。」

「モーツァルトは表情豊かに演奏できる。そんな子は珍しい。いつも何かをやろうとするので、それを削ぎ落とすことでようやく音そのものが本人にも聞こえるようになったと思うわ。恵ちゃんじゃないけど、やはり教え子の山本晋次君がコンペティションで賞取って、発表演奏するから、その練習を聞いてみない。この後、私のレッスンがあるから。」



「晋次君、この人、誰か知っているかな。」

「こんにちは。」

「知っているよ。去年ソロ弾いたから。すごい上手。あんな演奏してみたい。」

「今日のレッスン、聞いてもらうから。」

「ええ、嘘でしょ。ちょっと緊張する。」

男の子の音は、女の子と違う。なんというか、積極性がない。この晋次の音もそうだ。しかし、表情がないわけではない。そして、心にストレートに入ってくる。

「晋次君、いつもよりカッコつけてるね。そんなことは邪魔者。万奈さんだってそんなカッコつけた演奏なんか期待していないから。」

「はい、先生。もう一回。」

「うーん、もしかして、綺麗なお姉さんがいるからカッコつけてるの。もう一回。」

「ええー、そんな、ちゃんと演奏している。」

「この音がね、いつもより濁ってる。力入っているのかな。ここも考え事しながら弾いているでしょ。普段のように音楽以外のこと頭から追い払ってね。」

「ええー、難しいよ。」

「お姉さんがいても、優しくしないよ。甘えない。はい、もう一回。」

音が少しずつ透明になっていく。気がつくといつの間にか音しか感じていない。その集中が途切れると、またやり直しの繰り返し。小さい子供の出す音にこれほど惹きつけられている。

「今日注意したところ、忘れず練習すること。」

「はい。ありがとうございました。」

「晋次君、上手。頑張ってね。」

「今日の先生ね、優しかったよ。」

「余計なこと言わない。」

「普段、今日の100倍厳しい。」


「バルツァー先生はしつこく言ってた。音は不必要なものを入れず、必要なものを全部含めること。意味不明だよね。不必要なものって何?必要なものって何?それから、闇があるから光が存在できるのと同じで、音にも静けさがある、とも言っていた。私が言えるのはこれだけ。コンペティションなんかがあると、不必要なものがたくさんついちゃう。晋次君にも恵ちゃんにも、音に不必要なものを入れるな、とばかり言っている。」

「私の音にも不必要なものがついているってことですか。」

「それは私が言えることじゃないと思う。つまり、必要不必要の判断は、演奏家によって異なっていいもの。未熟な段階の子供達には私なりの判断を言うけれど、私から見るとずっと不必要なものをつけたまま変わらない子もいる。そういうことは押し付けられることでもないみたい。」

「必要なものっていうのは、もっとわからない。」

「それも自分で見つけるもの。練習している時に知らず知らず見つけていると思うわ。コンペティションをやると不必要なものがたくさんついて来やすくなる、けれどその分、必要なものを見つける機会も多いんじゃない。」


万奈は、父が言っていた言葉を思い出した。昔はその意味がわからなかったのだ。話したくなった。

「お父さん、私今日本にいるの。今からそっち寄るから。」

「ああ、日本にいるのか。なんだ、もっと前から連絡してくれればいいのに。まあ、待ってるよ。」

「ちょっと、音楽の話聞きたい。」

「ははは。たまにはいいだろう。」

電話の向こうで笑顔でいる父の顔が、見えるようであった。万奈はちょっと悔しい感じがして、ああ電話しなければ良かったと一瞬思ったが、心の中ははや音楽のことで一杯であった。


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