エピローグ
様々な出来事で怒涛のように終わった一日から、早くも三か月が経っていた。
あの日の疲労は長い期間をかけて、ゆっくりと解消されていった。今では筋肉痛も、倦怠感も無く、吐き気も眩暈も起こらない。
相も変わらず芹沢家のルールを守り、自分で料理なり洗濯なりと、家事をこなしていた。三か月もあればさすがに慣れてきて、家事に手間を取らなくなった。お陰でやりたいことへの時間を増やすことができ、有意義な生活を送ることができた。
ただ一点、薫がこの三か月間ずっと、目を覚まさないこと以外は、だ。
以前、李深蓝が「薫は寝溜めをする」というようなことを言っていたが、それにしても長すぎるのではなかろうかと俺は思うのである。蘇芳邸から帰ってきてからの数日間は、昼夜問わずに何やらパソコン画面に齧り付いていたが、ある日を境にして、彼女はパタンと寝込んでしまったのである。
その「ある日」というのは、俺の中でもわりと印象深い日であった。
薫の本職はプログラマー故に、勿論のことプログラミングの仕事も受け持っている。俺の勧誘が一段落したために、その仕事を消化する期間が「あの日」までの数日間だったのだろう。かなりの剣幕で高速タイピングを繰り出していたから、相当な量の仕事が溜まっていたと推測される。
まぁ、それはさておき。肝心の「あの日」に何が起こったのかと問われれば、薫のスマホに一本の電話が入ったと答えよう。薫は煙たげに画面を見るや否や、顔を顰めて即刻通話を切った。しかし、相手もそれを承知しているのか、辛抱強くかけ直してくるのである。
暫らく、着信音が鳴っては切り、また着信音が鳴っては切るという光景が続いた。そうでなくても薫は立て込んでいたから、粘る相手に苛立ちが募り、とうとうスマホを床に投げつけてしまった。加えて右足で何度も踏み潰す。遂には、最早原形を想像することもままならない程の残骸となった。
薫がそのまま放置して作業に戻ってしまったので、仕方なく俺が片付けておいた。こんな時に片桐がいれば、完璧に片付けてくれるのだろう。しかしこれだけのために呼び出すわけにもいかないので、四方八方に飛び散った液晶画面の破片に注意しながらミニ帚で集めたのを覚えている。
それからだ。薫の様子が急変したのは。
それまでの倍速でタイピングを打ち、三時間ぶっ続けで作業を進めた。彼女の表情は剣幕を通り越して、寧ろ無心になっていた。彼女の持てる集中力なるものを、プログラミングに注ぎ込めるだけ、注ぎ込んだかのように見受けられた。俺はその間、書斎の中を見て回り、興味に触れた本やファイルを抜き出しては読んでいた。
途中で、再び何処からともなく着信音が鳴り響いた。初めに聞いたメロディとは、少し異なっていた。けれども、仕事に没頭している薫の耳には聞こえていなかったようなので、俺は持っていた本を棚に戻し、音源を探した。
着信音の正体は、薫の持っていたスマホと、全くの同機種同色のスマホであった。それは彼女の手持ちバッグの中に隠れており、画面には「ウザ眼鏡」の文字が表記されていた。
正直俺は、出て良いものなのか迷った。迷いはしたが、俺の好奇心が右手の親指の神経を操作するのである。気付けば、俺は画面の通話ボタンを押していた。
『Hi, Kaoru! How are you?』
唐突に流れ出す流暢な英語。相手は男性らしく、テノール調の澄んだ声をしていた。
『Is your work going on? I want to hear the progress of it. In addition, I would like to add a new security. About security cameras. From now on, can you change it? ――――って、聞いてる?』
男は日本語も流暢に話せるようであった。話の内容からして、相手の男は薫の、プログラマーとしてのクライアントといったところだろうか。
『おーい、薫ー!』
何やら叫んでいるが、無心状態の薫に渡したところで、反応がない事は分かり切っている。しかし、通話ボタンを押してしまった以上、俺が責任を持ってどうにかしなければならないのも事実だった。
「なぁ、薫。『ウザ眼鏡』って言う人から電話だ」
『え!? 僕、薫にウザ眼鏡って呼ばれてるの!?』
薫からではなく、電話の向こう側から反応が返ってくる。顔から遠ざけて持っているのに、俺の声が聞こえたようであった。そこまで大きな声を出したつもりはなかったのだが、恐らく相手の耳が良いのだろう。
「スマホの画面に表記されていた」
『You must be kidding! 前々から扱いは酷かったけれど、まさかそこまで嫌がられてただなんて!』
それは、しつこく電話をかけてくるからではなかろうかと思ったが、言わないでおいた。
『それより君は? もしかして、薫のBoyfriend?』
「そんなわけないだろう。それより、俺と話していていいのか?」
『あ、うん、大丈夫。用件は伝えたから』
彼の言葉を聞いた後、目を剥いてタイピングする薫の姿を見る。どう見ても、聞こえているようには見えない。暫しの沈黙から俺の疑問を読み取ったのか、男は明るい声で言い放った。
『集中モードの薫なら、ちゃんと聞いてるよ。五感がフル活動しているから、少しの情報でも逃さない状態になっているんだ』
想像を絶するような話を聞いた気がしたが、十人の話をいっぺんに聞き取れる彼女のことだから、さして難しい事でもないのだろう。
『因みに、電話に出たのはもしかして、蘇芳佑磨君かい?』
これにはさすがに驚かされた。警察庁内で俺の名が広まるならまだしも、公職に無関係そうな人物にまで知れ渡っているとは、よもや思わなかったからだ。
出所が薫であることは聞かずとも想像がつくが、何故そんな事をしたのか。
『僕はアレン・アンダーソン。アメリカで経営をしているんだ。薫には何かと協力してもらっていてね』
プログラマーとしての薫について調べた時、「アメリカの某有名企業のセキュリティ装置の開発」という文章をネット上で見つけた事を思い出す。
『でも、今日みたいに突き放されることが多いんだ。……君とは長い付き合いになりそうだよ』
ここで、薫が彼に俺の名を伝えたことの意味を理解した。要するに、俺には警察庁特設管理課としての役割のみならず、彼、アレン・アンダーソンとの取引の仲介役をも担わせようとしていたのだ。
俺は半眼になって薫を見遣るも、俺が先に折れる未来しか予想がつかなかった。溜息を吐き、アレンに向かって「そうだな」と呟く。
『じゃ、僕はこれで。後は宜しく頼むよ』
そう言って、アレンは一方的に通話を切った。彼は彼で、キャラの濃い人物であった。
アレンとの通話が切れてから半時ほどで、薫の動きがピタリと止まった。丁度、夕方の五時頃のことだ。薫は大きく伸びをした後、深く息を吐いた。それから一、二分程度マウスを操作した後、パソコンの電源を切って立ち上がった。
「おやすみ」
それだけ言った後、倒れ込むようにして書斎のベッドにダイブする。屍のように身動ぎもしない薫を見て些か不安になった俺は、ベッドに近づいて行った。
仄かに聞こえる寝息の音。たった数秒で、眠りの世界に入ってしまったようだった。ここ数日間、徹夜をしていたようだから、疲れ切って寝てしまうのも、仕方のない事だった。俺は彼女に布団をかけてやり、数冊の本を持って書斎を出た。
それから三か月が経過し、今でも状況が全く変化していないのである。俺が心配に思っているのは、その日に見た薫の寝姿から、三か月間ずっと、変化がない事である。通常なら寝返りを打つなり浅く覚醒するなりして寝姿が変わるものなのだが、俺の記憶が正しいと判断するならば、彼女はその位置から一ミリたりとも動いていないのである。
寝相が良いと言われても、さすがに彼女の場合は異常である。それ程衰弱していた、とも考えられるが、それなら病院に行った方が良いだろう。
いずれにしろ、薫が起きてからでないと俺にはどうしようもないのである。俺は干した一人分の洗濯物を外に出そうと、庭に出た。今日は春先の天気にしては、よく晴れ渡っていた。スギ花粉がよく飛んできそうである。
幸いにも、俺は花粉症ではないから、花粉に苦しめられることは無い。ただ、アレルギー反応が出ていないにしても、大量に花粉を吸いこんでいる事を想像すると、少し嫌な気分にさせられる。
俺は早々と家の中に入り、窓を閉めた。同時に、ドアフォンが鳴る。
インターフォンの画面を見ると、白衣姿の男が立っていた。若槻にしては少々背が高く、片桐や李深蓝にしては、堅物さも剽軽さもなかった。勿論、俺のいとこである佑人でもない。要は、知らない人物であるということである。
そうこう考えているうちに、二度目のドアフォンが鳴った。
薫の顔は、些か広すぎやしないだろうか。その原因は彼女が仕事を掛け持ちしているからなのだろが、それにしたって、各方面に多すぎると俺は思う。
幾度も鳴るドアフォンを無視していると、唐突に鍵が施錠されるような音が響いてきた。俺は慌てて玄関に顔を出す。
靴を脱ぎかけた白衣の男。彼の手には、マチの広い黒色の手提げバッグがある。彼の方からつんとした薬品の臭いがしたため、そのバッグには医療器具が入っているのではないかと考えた。
男の顔を見ると、彼は驚き交じりに目を剥いていた。靴を脱ぎかけている事も忘れて、暫く呆然と俺を見る。はたと自分の目的を思い出したのか、男は脱いだ靴を揃え、再び俺に向き直った。一つ、咳払いをする。
「まさか、子供がおるとは思わんかったわ。隠し子か?」
テレビの向こう側でしか聞いたことのない関西弁で、男は喋った。俺は半眼になり、即座に否定する。
「違うに決まっているだろう。そもそも薫の年齢を考えると、十五歳で俺を生んだことになるぞ」
初対面である上に、誰であるかも知らない相手ではあれど、笑えない冗談はバッサリと切っておくに限る。男は頭を掻き、苦笑いをしながら「せやな」と答えた。
「冗談はさておき。お前が芹沢佑磨やな。月谷から聞いとるで」
得意げに、さも言い当てたかのような顔をして男は言った。
「……は?」
「あぁ、心配せんといて。俺は薫ちゃんの専属医で、天城翔っちゅうんや。一応、専門は外科やけど、内科も精神科もやってる」
俺の怪訝な顔を誤読した男、もとい天城は、進んで自己紹介をする。
「ちょっと待て。俺は、蘇芳佑磨だ」
素直に訂正すると、天城も不可解な顔をした。
「え、でも、月谷がゆうとったし……。ん? 『芹沢』って、そういや薫ちゃんの名字やん! じゃあ、あの戸籍は何なん!?」
「……戸籍?」
俺がオウム返しに問うと、額を抑えて一人で悶絶していた天城が、俺の方を向いた。
「せや。月谷がお前の戸籍を見してきてん。そこにはちゃんと、『芹沢佑磨』って書いてあったで。あれ、まがいもんやろか?」
俺は顔を顰め、振り返って階段の奥の方を見遣った。天城もつられて同じ方向を見る。
二人とも、同じことを考えているようであった。俺と天城は階段を上り、廊下の突き当たりまで進んでいく。そして、一番奥の部屋のドアノブに、俺が手を掛けた。無造作に扉を押し開け、眠りこける薫のもとまで近寄っていく。未だに、規則正しい寝息が聞こえてくる。
ベッドのそばに立った天城は、持っていた物を一旦床に置いてから、小さく呟いた。
「薫ちゃん、眠っとるな」
「あぁ」
「いつから?」
「三か月前から」
「…………それは、もう起こしてええやつや」
そう言った天城は、両腕の袖を肘までまくり、日に焼けていない肌を露わにさせた。父親も、丁度このような腕をしていたな、と頭の片隅で思いながら、俺は天城の行動を見守っていた。
彼は眠り姫の如く昏々と眠り続ける薫の上半身を起こし、そのまま九十度傾けて床上に落とす。頭から直撃した時の音は、脳内で内出血が起こりそうなくらいの鈍い音だった。
「結構、手荒だな」
率直に感想を申し上げると、天城は「これくらいせな、全然起きひんのや」と悟り切った顔で答えた。
かなりの衝撃だったはずだが、薫はまだ目を覚まそうとしない。天城は取り敢えず薫から布団を引っぺがし、ベッドの上に放り投げる。その勢いで、薫の体もベッドの下に落ちた。
「起きないな」
「ノンレム状態の薫ちゃんは、なかなか手強いんや。特に自傷後のノンレムは酷い」
薫の頬をつねる天城を見ながら、俺は「ジショウ?」と聞き返した。
「ん、お前はまだ知らんのか。薫ちゃんはな、思いつめた時とか、切羽詰まった時とかに、自分で自分を刺すんや。特にカッターでの自傷行為が多いな」
そういうわけでの専属医なのか、と俺は一人で納得する。負傷しても薫の傷はすぐに癒えるから、医者いらずの筈だろうと、先程までは思っていた。しかし、彼女には精神面で、医者が必要だったわけである。
「この家にも、そこかしこにカッターナイフが仕込まれとるやろ?」
「そうなのか?」
「あぁ。徹底的に探さな見つからんから、偶然見つける以外にはお目にかからんかもしれんな。……だから、こうやって定期的に回収しに来るんや。でもなぁ」
「回収しても際限がないのか?」
「それな。ほんっまに、それな。しかも、来るごとに増えんやで? 頭痛なるわ」
天城は薫の肩を前後に大きく揺らす。薫の頭はされるままに、前後した。俺なら、吐き気がするほどの動きだ。
「獣化した後の自傷行為は、体に負担がかかるのか?」
俺の素朴な問いを聞いた天城は、薫を起こす手を止めた。彼は床に片膝をついた状態で俺を見上げてくる。
「あぁ、最近は専らそれが原因やな。成人するまでは全く獣化とかせぇへんかったし」
「幼い頃の薫を知っているのか?」
「知ってるで。聞きたいか?」
俺はがくんと首が垂直に曲がり、顔が天井を向いている薫をちらりと見た。すぐに視線を天城の方に戻す。
「いや、いい。あんたもどうせ、これから長い付き合いになるんだろ?」
天城はニッと笑った。好印象の持てる笑みだった。
「せやな。じゃ、また今度ゆっくり話したる。……それより、ほんまに起きひんな。薫ちゃん、寝る前になんかしとったか?」
さすが薫の専門医というだけはある。彼は的確な質問を突いてくる。
「プログラミングの仕事をしていた。……数日程度、徹夜で」
楽観的な顔をしている天城でさえ、呆れた表情をして見せた。
「それは、アホちゃうか? お前、止めんかったんか?」
「薫のことだから、大丈夫なのだと思った」
無表情で言い返すと、天城は大げさに溜息を吐いた。
「そんなわけないやろ。薫ちゃんとて、人間やで? 多少逸脱しとることは認めるが、それでも疲労の反動はあるんや」
「……以後気を付ける」
「ん、そうしてくれるとこちらも助かる」
会話が途切れたところで、んー、という唸り声が聞こえてきた。声のした方を見ると、床に転がっていた薫が、自らの腕で体を起こしていた。半開きの目で室内を呆然と眺め、再びうーんと唸る。
「薬品臭い。帰れ、天城」
薫がぶっきらぼうな口調でそう言った。どうやら、目が開いていなくても嗅覚で俺たちの存在を把握できているようだ。天城は「まぁまぁ、そう言わんとき」と慰めるも、薫に突き放されてしまった。
薫は両目を擦り、眩しすぎる昼前の太陽光に顔を顰めた。徐々に彼女の瞼が開いてゆき、俺の姿を視界に捉える。彼女は小さな欠伸を一つした後、ゆっくりと立ち上がった。室内をきょろきょろと見回し、窓の前に置かれた机へと近づいていく。彼女は机上から小さなカレンダーを取り上げ、小首を傾げた。
「ねぇ、今日は何日?」
「二十九日だ」
薫の問いに、俺が答える。彼女はますます首を傾げた。
「僕、三日しか寝てないの?」
「いや、三か月だ」
「あはは、冗談きついよ、佑磨」
室内が静まり返る。薫は無理に上げていた口角を引きつらせる。彼女は天城の方に視線を遣ったが、得られる答えは変わらなかった。
薫は年が明けて不要になってしまった昨年のカレンダーを、ゴミ箱に落とす。
「ヤバい、これはさすがにヤバい」
「薫ちゃんも、漸く事の重大さに気付いたんか?」
天城も半眼になって呟いた。この調子を見ると、毎度生活習慣の乱れを説得しては一蹴されてきていたに違いない。
「クリスマスも元旦も、節分もバレンタインデーも過ぎているなんて! 何たる失態!」
頭を抱えて叫び出す薫。俺と天城は、最早言葉を失っていた。
「深羅ちゃんとのハッピーデートプランがぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああ!」
俺は眉根を寄せ、無言で天城に視線を移した。彼は今度こそ俺の心情を察したらしく、この状況を説明する。
「某大財閥のご令嬢と親しい中でな」
「……薫は、同性愛者だったのか?」
「いんや、ドが付くほどのロリコンや。対象年齢は中学生以下」
俺はもう一度薫を見た。どこから取り出したのやら、俺が初めて見るスマホを操作していた。そのスマホは薫が仕事用に使っているシンプルなものとは打って変わり、派手に装飾が施されていた。トーストに目玉焼きの乗ったイラストが描かれたスマホケースが取り付けられ、イヤホンジャックには透き通る素材で出来たプリンやらリボンやら宝石やらの飾りが付いている。
とにかく、パステルカラー満載だった。そして、薫の脳内もきっと、お花畑がぎっしりと詰め込まれているのだろうな、と俺は思った。
「……そう言えば、さっきの話を聞き忘れていたな」
俺がぼそりと呟くと、スマホ画面に意識を注いでいた薫の顔が不意に俺の方を向いた。ここぞとばかりに切り込んでいく。
「天城の話によると、俺の戸籍に『芹沢佑磨』と書かれていたらしいんだが。どういうことだ?」
薫の関心が、完全にこちらへ向いたようだった。彼女は天真爛漫な笑みを浮かべて言う。
「どういうことって、そういうことだけど?」
沈黙。
「いや、薫ちゃん。そこはちゃんと答えてあげなあかんやろ」
天城に窘められた薫は、不服そうに唇を尖らせながらも、事の成り行きを話し始めた。
「んー、だってさぁ。佑磨ってぶっちゃけ身寄りがなくなったわけじゃん? だから、代わりの保護者がいるなぁって」
「俺の許可は?」
「別にいらないでしょ」
なんだそれは。黙静課に入れるためには俺の許可も必要だと言っていたくせに、こういうことには必要ないとはどういうことなのか。
そこまで考えて、ふと思考を止める。
養子縁組には、養子にされる子供よりも寧ろ、実父母の同意が必要になってくる。しかし、当の父母は二人とも他界してしまっている故に、届出と法定代理人による代諾さえ済ませられれば問題はないわけである。
俺は溜息交じりに「俺はお前の養子になったのか」と呟いた。すると、薫はきょとんとした顔をした。
「いや、僕の義弟になったんだよ」
彼女はあっけらかんと言い放った。俺は数回ほど目を瞬く。
「それはつまり、俺はお前の両親の養子になったというわけか?」
薫は満面の笑みを浮かべる。俺はしどろもどろになり、一旦薫から視線を逸らした。その先には、深く考え込む天城の姿があった。
「あの人ら、よう承諾したなぁ」
「この歳で子持ちは嫌だって言ったら、普通に判子くれた」
「うん、そういう人らやったわ、薫ちゃんのご両親」
二人の会話を意識の向こうで聞きながら、俺は去年の秋ごろの出来事を思い出していた。薫とゲームをしていた、あの時期のことである。
俺は黒い傘を元に、薫の居場所を突き止めていった。その途中、スコレーというオーダーメイド製の高級傘専門店に立ち寄った時のことだ。そこのマスターと、短期バイトをしていたミラ・スワンとに、俺が薫の生き別れの弟だと勘違いされていたのだ。ミラ・スワンに限っては薫の言い分を鵜呑みにしていたために、ゲームが終わってからもそのはったりを長らく信じ切っていた。
他にもある。黙静課メンバーによる俺の歓迎会の時だ。最後に出てきたケーキ――若槻印の睡眠薬入りケーキであったこともわりとトラウマチックであるが――そのケーキに乗ったチョコプレートに、「芹沢佑磨」の文字が書かれていた。
その時はスコレーでの出来事をからかっているものだとばかり思っていたが、どうやら俺の思い違いであったようだ。
薫は端から、俺を彼女の義弟にする気でいたのだ。
何故か、とはもう言わない。どうせ、その方が、都合がいいから、と返答されるのがオチである。
「そういえば天城。ここに来たって事は、理人にも会ってるね?」
デスクに軽く腰を掛けている薫が問うた。天城は「あぁ」と声を漏らし、床に置いていた黒いバッグを開いた。聴診器やら注射器やら試験管やら、医療器具のみならず、様々なものが仕舞い込まれていた。天城はその中からデニム生地で出来た手のひらサイズの巾着袋を取り出し、薫に手渡した。薫は満足そうに顔をニヤケさせながら、袋の口を開く。
中から取り出したのは、紺色ベースで中央に金色の旭日章が入った手帳と、簡略化された金木犀のマークがあしらわれたピンバッジだった。薫はそれを俺の手に乗せ、ニタリと笑った。
「四月から正式な活動をしてもらうから」
そう言って、彼女は俺の頭をぐしゃりと撫でた。俺は今一度、手渡されたものを見る。薄い手帳の方は、警察手帳のようであった。よくドラマで見る物とは形状が異なり、中身も黙静課に沿った規則が収められていた。ピンバッジの方には、よく見ると金字で「007」の数字が刻まれていた。俺専用のバッジである。
俺が感動に胸を膨らませながら薫を見上げると、微笑んでいた彼女の顔が、ふと、何かを思い出したかのように変化した。
「あ、そうだ。あの五人はどうなった?」
「……ついでみたいな口調で言わんといてくれるか?」
天城が溜め息交じりに反応する。それでもちゃんと受け答えはするようで、真面目な表情を浮かべた。
「生き返ったんは、蘇芳トキと蘇芳寧音だけや」
「おや、あのお婆さんも生き返ったんだ」
薫が目を丸めながら感嘆する。天城は不快そうに顔を顰めた。
「そういう言い方は好かんわ。……もっと早く処置していれば、蘇生率は高かったはずや」
「それは状況的に無理だったよ。雅が居ないところでしないと」
天城は苦虫を噛み潰したような表情をした。
「……あの男、ほんまにどうにかならへんの? 倫理観がぶっ壊れ過ぎとちゃう?」
「悪魔にそれを求めたところで無意味だよ、天城。世界規模で破壊活動をされるよりは、マシだと思わないと」
淡々と返す薫。天城はどうしても納得できない様子だった。彼は「ちょっとカッター探しするわ」と言ったきり、荷物を持って部屋を出て行ってしまった。
俺と薫の二人が、書斎に取り残される。
「世界規模の破壊活動って、あの悪魔、そんなに危険な奴なのか?」
天城が出て行ったあとを眺めつつ、俺は問うた。
「そうだね。人類滅亡レベルで危険な奴だよ」
「なら、なぜあんな奴とあんたは親しげなんだ?」
三か月前のあの日、蘇芳邸へ行ったときに感じた疑問を、ここでぶつけてみた。薫は冷ややかな瞳で、俺を見下ろしてくる。
「その方が、都合が良いからだよ」
「……都合?」
「うん、都合。雅は佑磨みたいに、正当防衛で殺人を犯すわけじゃないんだ」
薫は横髪を耳にかけ、物憂げに目を伏せる。
「娯楽。悠久の生を受けたものは、何もかもが退屈になってしまうんだ。だから、娯楽となる何かを見つけないと、生きる意味を見失ってしまう」
俺は眉根を寄せた。
「自殺にはならないのか?」
純粋な問いに、薫はクスリと笑う。悪戯っ子のような笑みだが、どこか淋しげでもあった。
「それが出来たら、苦労はしないよ」
俺は瞬時に、彼女の言葉を脳裏に焼き付けた。理由は分からない。しかし、どこか大切な事のように思われた。
「雅は今、僕の事を気に入ってるらしいんだ。お陰で僕は幼少期から付き纏われて迷惑してるんだけれど。でも、それでみんなに被害が及ばないのだとすれば、そうした方がいいのかなって、思ったんだ」
彼女は窓の外を眺めた。太陽が屋根の上に隠れたのか、室内が少し陰になっている。
「寛容な人間だな、薫は。だから、罪を犯した俺でさえも、仲間に引き入れようとするんだな」
薫の表情が、打って変わって明るくなる。
「ははは! 佑磨のは罪じゃないよ!」
「……どういうことだ? どう考えても、刑法には触れている筈だが?」
薫は人差し指で俺の持っている警察手帳を指した。手帳の中を開くと、丁度黙静課のルールが書かれたページが開かれた。俺はその内容を呼んで、目を瞠る。
「『特設管理課は、以下の項目を除く如何なる法律も適用されないとする』、だと!?」
薫の笑みが、またニヤニヤとしたものになる。
俺は息を呑んでいた。
「俺は黙静課に入る前に罪を犯したんだ。そんなもの、適応できるわけがないだろ」
苦し紛れに反論すると、薫はナンセンスとばかりに片目を瞑った。
「それじゃあ、黙静課の半分が前科者になっちゃうよ」
俺は静かに口を閉じた。言い返したい気持ちが一気に引いて行ったのだ。
俺以外には、少なくとも薫が前科者であることは分かっている。世間には善良なハッカーと言われていたようだが、ハッキング行為をした限り、それは犯罪以外の何物でもない。
薫は「半分」といった。他にもいるのか、と考え、ふとスパイまがいのミラ・スワンや、何でも引き受ける元掃除屋の片桐が脳内に浮かんできた。
なるほど。黙静課はその人の経歴よりも、その能力を全面的に重視しているらしい。変人ばかりが集まるわけである。
「因みにそれ、理人が提案して、部署の設立まで推し進めたの」
月谷理人。我らが黙静課を直接管理する上司である。
慎重な日本国内で計画を進め、法律をも覆してしまう彼とは、一体何者なのだろうか。
「法律の荒い目をすり抜けて見逃されていく犯罪を潰していくための、最後の砦のようなものが欲しかったらしいんだ。分からなくもないよね」
薫は薄い笑みを浮かべた。
「『目には目を、歯には歯を』って言うじゃん? だから、僕らは罪には罪で対抗するのさ」
「それが理由で、他部署から煙たがられているのか」
薫はもたれていた机から離れ、俺に近づいてきた。
「ま、そだね。向こうからすれば、黙静課は無法地帯、異空間だから、僕らが忌み嫌われてしまうのは仕方のないことだよ。でもね、この部署の設立によって、法では裁ききれない犯罪も裁けるようになったことは事実だよ?」
「悪魔絡みの犯罪か?」
俺は即座に浮かんだ考えを口にした。薫は満足そうに笑みを広げる。
「その他にもいろいろあるけどね。まぁそれは、これから事件と対峙していくうちに分かるでしょうよ」
薫は俺の頭を二、三度ポンポンと叩き、「お腹減ったね」と言って書斎を出て行こうとした。俺も今日はもうここに用事はないので、彼女の後に付いて行く。
唐突に、薫が「あ、そうだ」と手を叩き、後ろへ振り返った。俺は危うく彼女の腰にぶつかりそうになる。
薫は俺の目を凝視しながら、こう言った。
「九歳の誕生日、おめでとう」
「……ついでみたいに言うな」
俺は不満顔で呟いたけれど、内心では筆舌に尽くしがたい思いに駆られていた。
こんな何気ない一言を嬉しいと思ったのは、これが初めてだ。
どうも、鏡春哉です。
最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございます。
執筆中、この物語は果たして推理小説なのか否かと疑問に思うようになり、やっぱり推理小説ではないなという考えに至った次第です。しかしそうなると、一体これはどんなジャンルの小説になるのか、それはそれで分からず、悩んでしまいます。
もしこの小説のジャンルが分かった方は、どうぞ私に教えてください。




