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香記  作者: 鏡春哉
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Ⅳ 金木犀⑮

 *


「あなたは何故、そこまであの子供にこだわるのですか?」

 蘇芳邸の奥の奥、元蘇芳佑輝の研究室。硝子器具や本棚、机など、室内が橙色に染まり始めていた。男の色素の薄い髪も朱色に塗れ、エメラルド色の瞳も日の光で煌めいていた。

「こだわっちゃいけないの?」

 男の立ち位置から三体の屍を挟んだところに立っている薫が、純粋に聞き返した。

「いけないとは言っていません。ただ、その理由が気になっただけです」

 男も純粋に、返答する。薫は壁に背をもたれ、髪を弄った。質の良い毛先をつるつると巻きながら、床上で池になった血溜まりを眺める。

「……二年前の夏のことなんだけれど」

 薫は、静かに語り出した。

「あの日は、お兄ちゃんの命日だったんだよね」

「あなたの伯父の息子――芹沢竜樹さんのことですね?」

 男の問い掛けに、薫は素直に肯定する。

「僕ね、その日も仕事してたんだ――」


 薫は書斎に引き籠もり、いつものようにプログラミング言語をパソコンに打ち込んでいた。画面には複雑な文字列が並び、画面が流れるように下から上へと動いていく。

 きりの良いところで一度キーボードから手を離し、大きく伸びをした。ふと力を抜き、大きく溜息を吐く。画面上のカーソルは右下端で点滅し、無言で次の指令を待っていた。

 薫は机上に置かれた小さなカレンダーを手に取ると、椅子の背もたれに深くもたれ掛かった。今日の日付をまじまじと見詰めては、溜息を繰り返す。

 暫くすると、カレンダーを持っていた手をだらりと下げ、天井を眺めた。壁の色とさして変わらない、天井の色。あまりにも無機質で、無感情で、ただ、そこにあるだけとしか言いようのない天井である。薫は顔を顰め、机に突っ伏した。ゴン、と額が机にぶつかる鈍い音が、室内に響く。同時に、カレンダーが床に落ちた。

 静止画のような状態が、長らく続く。秒針の音すらないこの書斎は、どこか異空間のような雰囲気が漂っている。

 不意に、薫は頭を動かした。柔らかい髪の毛がもそりと揺れ、キーボードの溝をなぞる。そのまま毛先がキーボードから離れて行き、再び薫の顔が露わになった。

 まるで、抜け殻のようであった。燃え尽きてしまった後の、灰のようであった。何もかもが、終わってしまった後のような表情であった。

 薫は無意識に、キーボードに手を添える。


『死にたい』


 一言、SNSで呟く。何の施錠もしていないアカウントでの呟きであるために、この一言は誰もが閲覧できる。しかし、薫が呟いてからの十五分間、誰もこの呟きに反応しようとはしなかった。別の言葉で溢れかえり、薫の一言は埋もれ、その意味も薄れていく。

 待っても意味がないことに気付いた薫は、パソコンの電源を落とそうとしていた。

 その時。


《死にたいのなら、その体、人体実験に使わせてもらえないだろうか》


 ポンっと、新しい呟きが画面に現れた。薫は寸でのところでシャットダウンの手を止める。魅入られたように口を開き、何度もその一文を読み返した。どう見ても、薫が呟いた言葉へのリスポンスである。

 薫は居直り、再びキーボードに手を添えた。


『からかってんの? それとも、窘め?』


 見知らぬ誰かのみに向けて、言葉を繰り出す。相手も会話が相互リンクに切り替わったことに気が付いたのか、すぐに返答が返ってくる。


《純粋な提案だ。自殺願望者なら、人体実験で失敗したとしても、気兼ねがないだろう》


 薫は今日が何の日であるかを忘れるくらいに、楽しくてしょうがなくなっていた。興味関心がパソコン画面の向こう側にいる人物へ釘刺しにされて、頑として動かなかった。


『わりとぶっちゃけた言い様だね。因みに、何の実験なの?』

《万能細胞の移植実験》

『うわ、胡散臭いね』

《この期に及んで、死にたくなくなったか?》

『さぁ? 分かんないや』


 暫し、返答までに時間が空く。


《まさか、勢いで呟いたんじゃないだろうな?》

『否定できないのが痛ましいところだよね』


 先程よりも、返答までの時間が一分長く空いた。


《すまない。今の提案は忘れてくれ》

『無理』

《即答するな。死ぬ気のない奴に用はない》

『そんなに危ない実験なの?』

《いや、人体実験の安全保障は八割弱程度だ》

『つまり、残りの二割強の失敗に備えて、被験者を選んでいるわけだ』


 相手からの反応はなかった。薫はそれを、肯定のサインと受け取った。


『なんだか、興味が湧いたな。話の流れからすると、健常者にも万能細胞を移植するっぽいけれど』

『移植だけじゃなさそうだね』

『もしかして、強めのワクチンとか打って、免疫機能を見るとか?』

『あ、それとも、癌細胞も一緒に移植して、どんな細胞変化が起きるかを見るとか?』

『確かにそこまで過激な実験となると、たとえ安全性が高くても、実験者側は慎重にならざるを得ないよね』


 薫の独壇場が続く。相手は返答できないでいるのか、それとも見放したのか、微塵も反応がない。しかし、そんな事にもお構いなしに、薫の弾丸攻撃は続行された。


『ますます興味が湧いたな』

『面白そうだから、僕にもやらせてよ。別に失敗してくれても構わないから』

《興味本位でやるようなら、断らせてもらう》


 漸く来た返事は、辛辣極まりないものだった。薫はますます笑みを浮かべる。


『どうして? 興味本位じゃなくったって、失敗するときは失敗するよ?』

《そんなことは分かり切った事だ。そういう意味で言っているんじゃない》

『じゃあ、医学進歩における信用面の保障という意味で言ってるんだ?』


 幾度目かになる無言。恐らく、向こうの核心を突いたのだろうと、薫は反射的に考えた。タイピングの手を速め、さらに相手を突いていく。


『相手の同意が取れたんなら、それでいいじゃないか』

《良くない。同意は同意でも、興味本位のような軽い同意では困る》

『おっと、それを言うと、論理が破綻しているんじゃないかい?』

《論理の破綻、だと?》

『うん、そう。論理の破綻。自殺願望者の同意も、ちゃんと深く考えて同意できないという点で、興味本位者の同意と似たようなものになるから、軽い同意だってことになるよ? それじゃあ、自殺願望者も集められないって論理になるけれど』

《生への欲望が圧倒的に違う》

『あはは、容赦ないねぇ、君は』


 薫はそう返しながら、被検体になるのは無理そうだな、と考えていた。別に実験参加に固執しているわけでもないから、望みの薄いところで手を打つ必要性はない。薫は次の手を打たんと、キーボードを叩いた。


『ねぇ、名前教えてよ』

《これは出会い系サイトではない筈だが?》

『違うけど、興味が湧いたから』

《残念ながら、関係のない人物に個人名を教えるような真似を、しない事にしているんだ》

『じゃあ、ニックネームでもいいよ』

《断る》

『頑なだなぁ。じゃあ、僕の名前を教えれば、教えてくれる?』

《そんなわけがないだろう。教えられたところで、それが本名とも限らないからな》

『まぁ、それもそうだね。じゃあ、仕方がない。諦めることにするよ』

《そうしてくれ》


 二人の会話がそこで途切れる。ログアウトをした後、SNSのページを閉じてパソコンの電源をシャットダウンした。数秒で暗くなった画面を見つつ、薫はニタリと笑った。

 画面上では「諦める」と書いたものの、当の薫が諦める筈もなかった。彼女は殆ど本能的に、次にする行動を決め、早速実行に移し始めていた。

 先程まで使っていたパソコンとは別のパソコンを起動させ、怪しげなファイルを開く。目にも留まらぬ速さで何かを打ち込んでいくと、画面上に数多の個人情報がピックアップされていった。彼女が得意とする、ハッキング行為である。目当ての情報を引き出すと、薫はその人物について深く掘り下げていった。

 顔も名前も知らないこの日のお相手は、こうして知らぬ間に薫の前で白日の下へと晒されていったのである。


「絶対に、こいつだ! って思ったんだ。調べれば調べるほどその思いは強くなってね。だって、当時佑磨は六歳だったんだよ!? 僕、大人と会話してると勘違いしてたもん」

 薫は興奮気味に話す。

「意表を突くような提案を思いつく脳と、ぶれない意志がある人材は、とっても貴重だよ。あの子がこれからもだらだらと意味もなく小学校に通うと思うと、いてもたってもいられなくなってね」

 室内を染める光が、紫色へとシフトし始める。

「なら、あなたは彼を大学へ行かせるおつもりなんですか?」

 太陽光を遮っている男が尋ねた。

「追々ね。田中教授方面から行けば、滑り込めると思ってる」

「まさか、日本の大学に行かせるおつもりなんですか?」

「佑磨の体力を考えると、国内じゃないと無理でしょ。飛行機に何時間も乗るとか、多分論外だと思うんだよね。あと、時差ボケとかも」

 嬉々として考えを口にする薫。どう攻め入っても彼女の意志は固く、崩れることは無さそうであった。男は、観念したように溜息を吐く。

「……あなたの思いは十分に理解できました。ですが、一つだけ、申し上げたいことがあります」

 薫の瞳が、ころりと男の方を向いた。その目は「何?」と言わんばかりに、鋭く光っている。

「失礼ながら、あなたの意を成し遂げるためには、あの子供は些かひ弱すぎるように存じます。可及的速やかに事を終わらせるためにも、余計なことはしない方が良いのではないでしょうか」

 男の言葉を聞いた薫の瞳が、金色に光り始めた。

「余計な事じゃないよ。僕は、一兎しか追えないような人間じゃないんだ」

「あなたは人間ではありません」

「僕は人間だ」

「私はただ、あなたに一刻も早く苦しみから抜け出してほしいと願っているんです」

「それは、あんたの都合だ」

 男は悲哀に満ちた表情をしながらも、不気味に笑う。

「えぇ、私の都合です。しかし、あの子供に執着したところで、彼の身代わりであることに変わりはないのも事実でしょう」

「身代わりなんて、思ってない」

「思っていなくても、無意識の内ではそのように捉えている筈です」

 男は屍をまたぎながら、ゆっくりと薫の傍にやってくる。

「悪いことは言いません」

 彼は手を差し伸べ、優しく、妖しく微笑んだ。


「私と|契約(結婚)してください」


 薫は盛大に顔を顰めてみせる。しかし、神経の図太い男がそれに怯むはずもなく。目を細めて薫を見詰めてくる。薫は視線を逸らし、歯を食いしばった。

「冗談じゃない。悪魔と契約するとか、自殺したいも同然じゃん。そんなの、進んでやるわけないって、前にも言ったよね」

「ですが、あなたはボティス等々、数体の悪魔と契約しているではありませんか」

「あれは僕が相手の願いを聞き入れる契約。悪魔(あんたら)のする契約とは、また種類が違うじゃん」

「なら、私もその契約で構いません」

「やめて。『契約』を『結婚』って言ってる時点で、もうアウトだから」

「アウトでも構いません。結婚してください」

 男の陰にいる薫は、彼に手を強く握られ、凝視されていた。口をへの字に曲げて、彼の瞳に向けて睨み返す。

「また、いつ暴走するか分からないでしょう?」

「もう、暴走しない」

「奴が目の前に現れても?」

 薫は言い返せずに、唇を噛んだ。次第に震え始め、唇の薄い皮膚を噛み切ってしまう。赤い血液が、粘膜上に広がった。男は薫から片手を放し、切れた薫の唇を、親指で一撫でする。彼は付着した薫の血を、ぺろりと舐めた。

「私も、奴には怒りを覚えているんです」

「……雅も?」

 薫が訝しげな顔をして、男の顔を見上げた。彼は薄い笑みを浮かべる。

「えぇ。あなたが兄として慕った、芹沢竜樹さんを殺したのですから」

 男の返事に、薫の表情がますます不可解なものを見るような目になる。

「あんたにも、悼む心ってものがあるんだね」

「もちろん」

 エメラルド色の瞳が、夕闇の中に浮かび上がる。

「あの男を自らの手で殺れなかったことは、相当の痛手(・・)でしたよ」

 虹彩が急激に縮まり、金色の光が増長する。薫は男の手を払いのけ、目を剥きださんばかりに睨んだ。顎が砕けてしまいそうなほど歯を強く噛むと、鋭い犬歯が露になった。獣の耳と尾が生え、右腕と右足が鋭く変形する。

 くっきりと半分だけ、獣化した体。それでも、神の血を引く彼女の威力は、並大抵のものではなかった。一振りするだけでも鎌鼬のような風が生成され、周囲の硝子器具が悉く割れていく。男は薫の攻撃を冷静に受け止めつつ、正直に言いすぎたか、とちらりと反省していた。

 研究室内は暗闇に濡れ、太陽が沈むとともに顔を出した月の光によって、青白く照らし出されていた。


 *


 窓の外をぼんやりと眺めていた薫は、唐突に頭を掻き乱した。時折頭を叩いたり、髪を引っ張ったりする。暫くして落ち着いた薫は、窓枠に突っ伏した。ぼさぼさになった髪が、夜風に揺らされて元の位置に戻っていく。

 男――雨霧雅仁との会話が、脳内にこびり付いて離れない。起き上がって机の引き出しからカッターを取り出すも、自分を刺す気にはあまりなれなかった。痛みを感じたところで、件の会話が忘れられそうもなかったからだ。

 薫はカチカチとカッターの刃を出したり引っ込めたりした。南中してから少し西寄りに傾いた月の光によって、カッターの銀色の刃が煌めいている。

 不意に、佑磨が寝返りうった。薫は反射的にカッターを弄る手を止める。溜息を吐き、持っていた物を机の引き出しに戻した。

 薫は一際強い夜風を室内に招き入れた後、窓を閉めた。しっかりと施錠し、カーテンも閉じる。それから彼女は、佑磨の寝顔を見詰めた。いつもは不愛想な顔をしてませた発言を連発する彼も、眠っている間は子供らしくて可愛いものだった。

 薫はふっと笑みを溢し、布団をかけ直してやった。床に落ちた黒いファイルを拾い上げ、高く積まれた本の、一番上に置く。

「急ぐ必要はないんだよ」

 そう、小さく呟いた後、薫はこの部屋を去っていった。


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