Ⅳ 金木犀⑭
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芹沢宅に戻ってきた薫は、佑磨を風呂に入れ、彼女は洗面所で衣服を洗っていた。つい先程までいた蘇芳邸での出来事を反芻しながら、ランジェリー用洗剤で衣服に付いた赤いしみをもみ洗いしていく。彼女の意識の向こう側では、温かいシャワーの水滴が、床に落ちて壊れる音が響いていた。
佑磨の服はさほど汚れていなかったため、すぐに洗い終わってしまう。薫はぐっしょりと水を含んだ衣服を絞り、少し広げてから洗濯機の中に放り込んだ。続けて、自分の服を脱ぎ、殆ど機械的な作業としてもみ洗いを再開する。
雨霧から言われた言葉が、どうしても薫の頭から離れなかった。どんなに強く布を擦っても、その一言が、記憶から抹消されないのである。薫はますます手に力が入り、仕舞いには、穴が開いて布が弱くなっていたところを破り裂いてしまった。
薫は我に返り、無惨な見てくれとなった元上半身用の服を見る。あの研究室で少し暴れたせいで、その服には汚れが付き、所々裂けたところがあった。そして極めつけには、自分で自分の腹部を刺した時に出来た、大きめの穴がぽっかりと開いている。その周辺には、かすり傷では付かないような量の血が、べっとりと付着していた。
薫は洗うのを諦め、裂けた服を不透明な黒いビニール袋の中に押し込んだ。下着も同様に、大量の血を吸収していたために、脱いで袋の中に入れた。
袋の口を固く結んだ後、短く息を吐く。その時、風呂場の折れ戸が音をたてて開いた。その奥から、湯気を立ち上らせながらバスタオルに身をくるんだ佑磨が姿を現す。彼はタオルでしっかりと顔を拭いた後、洗面台前に佇む薫を見て、絶句していた。
「何で、半裸姿なんだ」
そう呟く佑磨の方を、薫は遅れながら振り向いた。
「服の処理をしてたんだ。さすがに、もう着られないなと思って」
納得したらしい佑磨は、用意していた着替えの下着に手を伸ばす。そこで不意に、動きが止まった。彼の視線がもう一度、薫の方へ向く。正確には、薫の腹部に、である。
「傷の方はもう、大丈夫なのか?」
「見ての通り。もうすっかり治ってるよ」
薫は水を含んだタオルで、腹部に付いた血を拭き取った。佑磨が目を瞬きながら、その様子を見守る。
「本当だ。傷一つ無い。……あんたの血液は、蘇生も出来れば、治癒も出来るのか?」
薫は手に付いた汚れを流水で落とし、タオルで水気を取った。佑磨も止まっていた手を動かし、着替えを再開する。
「治癒はまぁ、粗方できると思う。でも、蘇生はねぇ」
「そういえば、何人が生き返るか、とか何とか言っていたな」
「うん、そうなんだよ。蘇生に関しては、さすがに百パーじゃないんだよね。その時の遺体のコンディションによって蘇生率は変わってくるから」
用の終わったバスタオルを洗濯機の中に入れつつ、佑磨は「コンディション?」と聞き返した。
「死んでからどれくらいの時間が経過した、とか、遺体にエネルギーがどれだけ残っているか、とか、細胞の状態とか、まぁ、いろいろね」
薫も風呂に入るらしく、下の服も脱ぎ始めた。佑磨は咄嗟に目を逸らす。
「あの五人を殺したのが人間じゃないっていうのが、ちょっと難点だよね。みんな生き返ってくれれば良いんだけど、それはちょっと無理そうだし」
「そんなこと、分かるのか?」
「まぁ、何となく? 時々僕の意表を突いて生き返る人もいるけど、大体は予想がつくよ。この位なら、佑磨にだって分かるだろうさ」
薫に言われ、佑磨も何となく想像してみる。
「……まぁ確かに、予想がつかないこともないな」
「でしょ?」
薫は佑磨とすれ違うようにして風呂場に入り、折り戸を閉めた。ガチャリと音をたてた後、シャワーの音が聞こえ始める。
佑磨は生乾きの髪を触り、一度折り戸を振り返った。磨り硝子風プラスチック板には、薫のシルエットがぼんやりと映し出されている。それを見ていたところでどうしようもないので、佑磨は歯を磨いた後、さっさと洗面所を後にした。
薫は風呂から上がると、ハンドタオルを首に巻いたまま、半裸姿で台所へ直行した。冷蔵庫を開け、中から茶色い液体の入った水出しポットを取り出す。続けて水切りかごから硝子コップを取り出し、その八部目まで液体を注いでいく。
勢いよくコップを傾け、鳩麦茶を飲み干す。もう一度ポットからお茶を注ぎ、今度はゆっくりと飲んでいった。
飲み終えてから、片手で水道のレバーを上げ、軽くコップをゆすぐ。適当に水を切ってから水切りかごへ戻した後、蓋を閉めたポットを冷蔵庫の中に仕舞った。
喉の潤った薫は、大きく伸びをし、台所から離れる。居間のテーブルに近付き、机上に置かれたルームウェアを手に取った。アイボリーの色をしたそれは、上下が繋がっており、頭部に可愛らしいクマの顔が描かれている。薫は広げた服の前後を交互に見遣り、首を傾げた。
着方が分からないのである。一応、全面に申し訳程度のジッパーは取り付けられているが、それも腹部の途中で終わってしまっている。取り敢えず開いてみるも、身長が百七十二センチもある大女の薫には、衣服が破れる予感しかしなかった。
しかし、それ以外に着るものが見当たらないので、仕方なくその服に左足を通す。薄い生地を丁重に扱いつつ、もう片方の足も通す。腰の高さまで服を引き上げ、左、右の順で袖に腕を通した。同時に袖口から手のひらを出し、その手ですぐにジッパーを上げる。
薫は着てから今一度、着ぐるみのようなぶかぶかのルームウェアを奇特な目で見た。この様な服を着る趣味は本人にはないが、特に嫌というわけでもない。そもそも、服選びを薫自身が行ったことは、これまでに一度もなかった。幼少期は母親の好みで、叔父夫婦に預けられていた期間は彼らやその息子が選び、今となってはいろいろな知り合いから服が送られてくるのである。
因みに、一番頻度が高いのは、薫が成人してからやけに絡みの多くなった雨霧雅仁からである。彼は毎度ジャンルの異なる服を送ってきて、それを見ては薫の許可無く写真を撮って帰って行くのである。今日のように勝手に服を置いて行くこともあるのだが、薫の見解では、どうせ何処かから盗撮しているのだろうと考えている。
「まぁ、いっか」
誰へともなく呟き、薫はフードを被った。頭に取り付けられたクマの耳が、薫の動きにそって、よれよれと揺れ動く。
居間の電気が消え、廊下に繋がる扉が静かに閉じられた。
暗い階段を慣れた足取りで上がっていき、廊下の突き当たりまで歩を進める。書斎のドアに手を掛けようとする寸前、それが半開きになっていることに薫は気付いた。ドアを開き、書斎の様子を伺う。
暗闇の中で、薫の金色の瞳がきらりと光った。
彼女は書斎のドアを閉じ、佑磨がいるであろう、隣の部屋に赴いた。電気は点けずとも、子供の香りと佑磨の息遣いとで、彼が何処にいるのかはっきりと把握することが出来る。
ふと、視線を外すと、ベッド横に据え付けられた小さなテーブルの上に、大量の本が積み重ねられているのが目に入った。薫はそこに近付き、佑磨がどの本を選んだのかを順々に見ていく。
プログラミングに関する本や、古い歴史の本、語学の本、医学の本などなど、様々な方向性の本であった。その他にも、薫のまとめた手書きのファイルもその中に数冊含まれていた。薫はベッドで深く眠りに就いた佑磨に近付き、その頬をなぞった。彼の頭の近くには、黒表紙のファイルが広げられたまま置かれている。
薫はふっと笑みを溢し、ベッドの向こう側へ移動した。窓を開き、近くにあった椅子に座り込む。
夜風がレースカーテンを靡かせる。雲一つ無い南の星空には、ぽっかりと丸い月が浮かんでいる。
薫は窓枠に肘をつき、頬杖を付いた。目を細めて、窓の外を見遣る。遠くの方からは煌々とした光が届いてきていたが、芹沢宅のあるこの住宅街は、暗闇に塗れ、至って静かであった。
「眠れないなぁ。もう少し周期が短ければ、佑磨と一緒に寝られたかも知れないのに」
「この間、一緒に寝てたじゃない」
薫の呟きに反応したのは、佑磨の守護霊、草薙靜音である。彼女は眠る佑磨の頭上を浮游し、黄昏れる薫を面倒くさそうに見遣った。
「あれは、本当に限界の状態だったから。一緒に寝たって感じはしないんだよね」
「でも、一緒に寝たことは事実でしょう?」
薫は外を向いたまま、顔を顰めた。草薙は不機嫌な薫にはお構いなしに、同じ口調で話題を転換する。
「それよりも、私、あなたのことが知りたいわ」
「……僕のことでいいの?」
「息子のことは、十分に分かったもの。研究が死ぬほど好きだって事がね。いろいろと真実を語りもしたから、守護霊をこれ以上する必要はないと思ったわ。あなたもいることだし」
草薙が、薫の隣にやってくる。
「だから、私は今後のことを考えたいの。このままあなたのことを知らずに帰ると、天界の神々に射殺されそうなんだもの。少しは知識を蓄えておきたいわ」
ははっと、短く吹き出す声。薫は右の人差し指で目尻を押さえつつ、草薙の方へ振り向いた。
「あんたも変わってるねぇ。ここなら普通、『期間をもっと延ばして欲しい』って言うところじゃない?」
草薙は眉根を寄せる。
「さっきも言ったけれど。私にとっては、もう、十分なのよ。寧ろ、守護霊で居続けても、私がアウェイになるだけじゃない? だって、私には佑磨が見えても、佑磨には私が見えないのよ?」
「あのUSBメモリを使えばいいじゃないか」
「きっと、佑磨が渋るはずよ。生身だと、かなり負担がかかる代物だもの」
「淡泊な人だね。でも、後腐れなくていいや。そういうところも含めて、あんたを佑磨の守護霊にしようって決めたんだし」
「そんなことどうでもいいから、早く教えなさいよ」
薫は再度吹き出す。腹部の痙攣が落ち着いてから、薫は窓枠から肘を離し、草薙の方向へ居直った。
「……そうだね。佑磨にはわりと喋ってるから、殆ど言うことはない気がするんだけれども」
「あなたが半神だってことかしら? でもそれだけで、私があそこまで神々に睨まれる理由なんて、ないでしょうに。絶対、位が高いとか、権力が絶大だとか、そんなオプションが付いているはずだわ」
草薙の言い分に、薫はうーんと唸った。
「そんなオプション、特にないんだけどなぁ。だって、あんたが僕を人間だと断言してしまうくらいには、僕の成長速度は人間そのものだし」
「確か、二十三歳と言っていたかしら?」
「そうそう。見た目そのまんまでしょ?」
草薙は首を傾げ、「おかしくはないけれど、少なくとも平均的ではないわよ」と補足した。
「その辺については、わりと僕自身も謎なんだよね。向こうが勝手に特別扱いしてくる感じで、正直、迷惑」
「ばっさりと言い切るわね。いっそ清々しいくらいだわ。……でも、それならそれで、やっぱり特別な何かがあるって事なのね。本人が知らない場合だって、十二分に有り得るわ」
「じゃあ、僕に聞くのはお門違いだ」
ニヤニヤと笑う薫。草薙は短く息を吐いた。
「なら他の話を聞くわ」
「プログラミングのやり方?」
「違うわよ。……そうね、なら、あなたが今着ているその服について聞こうかしら」
言われて、薫はアイボリー色の袖を掴んだ。僅かに伸縮性のある生地で出来ているため、掴まれたところが柔らかく伸びる。
「聞いてどうすんの?」
「話のネタにするのよ」
「正直に言うね」
「こちらも死活問題なのよ」
「もう、とっくの昔に死んでるじゃん」
薫は掴んでいた袖を離した。引っ張られていた生地は、ゆっくりと元の形に縮んでいく。
「それとこれとは話が別よ。そもそも、この件に私を巻き込んだのは、あなたじゃない」
「それは、佑磨の守護霊にすることでチャラになっているはずだけど?」
「佑輝君の死を突き付けられたことは、わりと……、いや、かなり重たい出来事だったわよ。本当ならそんなこと、余程運が悪くなければ知ることのない事実だったんだもの。――ことわざで言う、あれね。知らぬが仏ってやつ」
薫も顔を顰めた。頑なに唇を閉じようとするも、草薙の不満を聞いてしまっては、どうしても意志が弱ってしまう。薫は諦めたように息を吐き、目を伏せた。
「それにしても、びっくりしたわ。あなたって、そんな趣味があるのね」
「別に、誰がどんな趣味を持っていようと、驚くことじゃあないと思うんだけどな」
薫は被っていたフードを取り、右手で髪をかき上げた。仄かにシャンプーの甘い香りが、夜風に乗り、宙を舞う。
「そもそもを言えば、これは僕の趣味じゃない。仕事柄、衣服を消費しやすいから、勝手に送られてくるやつを適当に着ているだけなんだ」
体温が籠もって暑いのか、薫は服の胸元を掴んで、ぱたぱたと前後させた。
「仕事柄って、あれはあなたが自分で穴を開けたんじゃない」
「今日は、ね。普段は外敵の方に要因があるし。……僕だって、好きであんなことをするわけじゃない。必要に迫られたからだよ」
「そこまで迫られることでもないでしょう? 獣神なら、体が獣化してもおかしくはないじゃない。獣姿の神様なんて、ざらに見てきているわ」
薫は動かしていた手を止める。瞳が金色に煌めいたり、暗闇に塗れたりと、些か色が安定しない。最終的にはくすんだ琥珀色に留まった。
「……僕は人間だよ」
下手をすれば聞き逃してしまいそうな声で、薫は呟いた。
月明かりは強く、夜でも室内がよく見えるほどに照らされる。佑磨の静かな寝息が、一際大きく草薙の耳に響いてきた。
「えぇ、分かっているわ。あなたは確かに人間よ。ただ少し、ほんの少しだけ、血が混ざっているだけで」
「僕は人間だ!」
草薙に威嚇する薫。金色に戻った彼女の瞳は、突き刺さんばかりに煌々としていた。草薙は歯を食い縛った。勢いで唇を噛んでしまう。チクリと痛みを感じるも、霊体である彼女の唇から、赤い液体が出てくるようなことはなかった。
不意に、薫から表情がなくなる。顔を逸らし、頬杖を付く。草薙は唇に指を添え、息を吐いた。哀しげに眉を寄せ、窓の外を見る。
「一体、何があったのよ」
今日の夜空は星空指数が高い。真夏の天の川銀河には劣るけれど、それでも空は数多の星々に満たされている。
「……これじゃあ、戻るに戻れないじゃない」
草薙の小さな呟き。しかし、それも虚しく夜闇の中に消えていく。寝返りを打った佑磨が、ベッドの上から黒いファイルを落とした。
沈黙のなか、望月が南中する。
薫は窓の外を向いたまま、その瞳に遠い記憶の波を映していた。




