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香記  作者: 鏡春哉
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Ⅳ 金木犀⑬


 *


 薫が蘇芳邸に辿り着いたとき、彼女の嗅覚が血液のにおいを感知した。その優れて鋭敏な感覚器官は、それが五種類あることを瞬時に察知する。薫は人の背の何倍もある門を軽々と飛び越え、足早に庭園を横切った。

 洋館の真正面までやって来ると、その屋根を見上げた。目を閉じ、一つの器官に神経を集中させる。

 目の前は暗くなっていても、においの形跡はありありと目に見えた。薫はゆっくりと目を開き、警察犬のようにその香を辿っていく。

 洋館の裏の方まで歩を進めると、一カ所だけ、不自然に開かれた窓が見受けられた。カーテンが風に揺らされ、窓の内と外とを行き来している。薫は持ち前の脚力で地を蹴り、ほぼ鉛直方向に高く飛び上がった。斜方投射の最高点から、少し下がったところで窓枠に足が着く。

 つん、と、濃い血の香りが鼻を突いた。虹彩が収縮しそうになるのを、顔を顰めて留める。薫は室内に入り込み、その向かい側に佇んでいる男を見据えた。彼は、待っていましたとばかりに、不敵な笑みを浮かべていた。

「お久しぶりです、薫さん」

 男は年齢性別の区別が付かない声で、そう話しかけてくる。薫はさらに顔を顰めた。

「二年そこらで久しぶりって、長命のあんたが何言ってんの」

「私はいつだって、あなたに会いたいと思っているんです。一瞬でもあなたがこの視界から消えてしまうなんて、耐えられるわけがありません」

「大年寄りの癖に懲りずにストーカーするとか、よっぽどの暇人だよね」

 男は、ふふふと不気味に笑った。

「っていうか、仕事増やさないでよ。こんなんだから、黙静課諸君に忌み嫌われるんだよ」

 薫は芸術作品のオブジェクトと化した、五つの屍を目にしながら、男に文句を垂れる。彼はさらに笑った。

「あなた以外にどう思われようが、私には関係ありませんから」

 薫は口を尖らせ、納得のいかない表情を見せる。

 晩秋の涼しい風が、部屋の中を通り抜けた。それと同時に、死のにおいも流動していく。男はその風の流れに逆らい、薫に近付いていった。薫はその行為に警戒などせず、男が彼女の髪に触れることを、抵抗なしに許可する。

「私はあなたの仕事を手伝ったまでです。……私が手を出すのは、迷惑でしたか?」

「……迷惑っていうか、やり過ぎ。ここまでしなくったって、仕事は果たせていた」

「しかし、あの男は、そうして欲しい、と願わんばかりでしたよ?」

「それは、雅の勘違い」

「そうですか」

 男は残念そうに顔を歪めた。


 薫が蘇芳佑輝と出会った、というか、彼の元へ押しかけたのは、二年前の夏の夜のことである。その日は連日の霖雨から抜け出して、久しぶりに星空が顔を見せた日だった。蘇芳邸の庭園に植えられた金木犀は、これでもかというほど花開き、夜風に乗せて甘く清々しい香りを主張していた。

 蘇芳は、そんな日でさえ陰鬱な研究室に籠もり、実験に明け暮れていた。薫は開かれた窓から勝手に侵入し、彼の背後に立つ。

「実家に帰っても研究三昧なんて、とんだ気狂いだよね」

 いきなり声を掛けても、腰を丸めて机に向かう白衣の姿は、微塵も変わることがなかった。薫は床上の資料や本を踏まないよう、爪先足で進みながら、彼に近付いていく。

「誰だ」

 そこで漸く、彼から反応が返ってきた。薫は足を止め、嬉々として返答する。

「僕は芹沢薫。佑磨君の大ファンさ」

「断る」

「まだ何も言ってないよ?」

 クスリと笑うと、蘇芳は椅子ごと体を百八十度回転させた。無表情を貼り付けたような顔とは対照的な、敵対心を見せる黒い瞳が印象的であった。彼は座ったまま、口を開いた。

「何を言わずとも、俺には分かる」

「何が?」

「お前が、俺の息子を引き取ろうと、許可をもらいに来たことくらい」

 薫は乾いた声で、はははと笑った。大真面目にそう言う蘇芳が、あまりにも滑稽に見えたのである。

「二、三週間くらい前から、こそこそと嗅ぎ回っていただろう。さすがにこんなに早くやってくるとは思わなかったが」

「あらま。あんたの甥のフリをしてたつもりだったんだけど。どうしてバレちゃったかなぁ」

 薫は「あんたが驚くところを見たかったんだけど」と、あっけらかんと言い放つ。蘇芳の表情は変わらないものの、彼の瞳の中に不快感が現れた。

あれ(・・)は、佑磨が生まれた時から佑磨のことを知っている。にもかかわらず、初歩的な情報を今になって集めるはずがないだろう」

「あはは、やっぱりそうか。……仕事に加え、研究にも腰を入れて、家庭を顧みない男。でも、その正体は、ヤキモキするほど息子思いの、歴とした父親だったわけだ」

 笑い続ける薫。蘇芳は「何が言いたい」と低い声で呟き、眼力を強める。薫はその姿を見下ろすような形で、嫌な笑みを浮かべた。

「知っているのに知らぬフリ。分かっているのに、分からぬフリ。あんたが今までやって来たことじゃあないか」

 蘇芳はここで漸く、表情を動かした。眉根を寄せ、強い瞳で薫を射抜く。

「……何処まで知っている」

「全部」

 即答する薫。蘇芳は一瞬、動きを止めた。ゼンマイの切れた古い玩具のように首を動かす。薫は相も変わらず、薄ら笑っている。

「全部、知ってる」

 薫は二度、そう言った。蘇芳はやおら、目を伏せる。深く息を吐き、眉間に寄った皺を指で揉む。

「蘇芳家の過去の全てを、か」

「いんや? これまでと、これからの蘇芳家の全てを、さ」

「蘇芳家の、これから……だと?」

 顔から手を離した蘇芳の瞳には、得体の知れないものの影が映り込んでいた。妖しく光る、金色の瞳。下手をすれば、何もかも、吸い込まれてしまいそうだった。

「うん、これからは、僕が盛大に動かしていくつもりだからね」

 彼女は歯を見せて笑ってみせる。唇と唇の間からは、鋭い犬歯が見て取れた。

「傲慢な女だな。その為に佑磨を使おうといって、俺が許すとでも思っているのか?」

「えーっと、何の話?」

「ほざけ。お前も蘇芳家の権力を欲しがっているんだろうが」

 返事はせずに、彼女はただ、目を大きく見開いていた。次第にその表情も崩れ、クツクツと笑い出す。壺にでも嵌ったのか、暫く痙攣が止まらなかった。

 蘇芳が不可解な目で薫を見ていると、彼女は右腕で腹を押さえ、呼吸を整え始めた。時折思い出し笑いをしつつも、何とか体勢を立て直す。

「いらないよー、そんなもの。違う違う、その為に来たんじゃないってば」

 蘇芳はさらに顔を顰める。対する薫は、優しい笑みを浮かべていた。

「だから、佑磨君だけ(・・)をもらいに来たんだよ。最初に言いかけたのに、あんたが言わせてくれなかったんだよ?」

 蘇芳が警戒心を強めた。

「つまり、佑人と同じ目的で来た、ということか?」

「それも違うね。僕はただ、あの子の才能に惹かれただけさ。彼の生涯を、こんな所で終わらせるべきじゃないって。僕はそう思ったからこそ、あんたに会いに来たんだ」

 蘇芳はしばし薫を凝視するも、反論の言葉が思いつかなかった。彼は眉根を顰め、歯を食い縛った。しかしそれも長くは続かず、吐息が漏れ出ていく。

「蘇芳家を、『こんな所』と言った奴は、初めてだ」

 言えたとしても、このようなことくらいである。彼は行き場を無くした怒りが、呆れに変わる瞬間を体験していた。当の薫はクスクスと笑うばかりである。

「僕はね、警察庁に新しく設立した部署――といってももう五年くらい前の話なんだけどね、その人材集めをしているんだ」

「お前、正気か? 佑磨はまだ、年端もいかない子供だぞ」

「それを、父親のあんたが言っちゃうの? 佑磨君のこと、よぉく分かっているくせに」

 彼女はニタリと笑う。蘇芳には最早、薫に敵対するための意欲が消え失せていた。否、敵対すること自体が、馬鹿馬鹿しく思えたのである。

 ぶっ飛んでいる。想像以上に、目の前にいる女の思考は支離滅裂なのだ。佑人の時もかなりの衝撃を受けはしたけれども、その比ではなかった。

 尋常ではない。しかし、不思議と抵抗感が湧かないのも、また事実であった。

 何故か。

 そう、自問自答した時、蘇芳の脳内にとある記憶が手繰り寄せられた。ハッと息を漏らし、今一度薫の顔を凝視する。

「お前、もしかしてあの時の……」

 薫は小首を傾げる。蘇芳は構わず続けた。

「あの時の、クラッカーなのか?」

 途端に、薫の表情が歪められた。

「無駄な知識をひけらかさないでよ。そこは、ハッカーって言うところだよ」

 口を尖らせ、不満げな声で言葉を返す。それでも、彼女は否定をしなかった。

 蘇芳の頭の中で、様々な事象が繋がり合う。

「……お前は――『(セイ)』は、俺の依頼を受けに来た、というのか?」

 『樨』と呼ばれた薫は薄く笑い、「まぁ、それもあるね」と答えた。

「五年越しに、か?」

「僕の方にもいろいろあってね。あの時は『樨』としての活動が、暫く妨げられちゃってたんだ。だから、最後に来たあんたからの依頼を、この際消化しちゃおうかなって」

 蘇芳が眉根を寄せ、言葉を発しようとすると、薫が手のひらを向けてそれを止めた。

「あぁ、詮索はしないでね。こっちの方はついでだから」

「……飽くまでも、佑磨を引き抜きに来た、と言いたいのか?」

「寧ろ、そっちがメインだよ。その後に、そういえばあんたから依頼があったなぁって思い出したくらいだから」

 蘇芳は半眼になった。心の奥底が見えない目をしているが、どうも、冗談を言っているようには思われないのである。

 蘇芳は深く息を吐き、佇まいを整えた。しっかりとした瞳で薫を見据え、意を決して口を開く。

「……分かった、息子、佑磨のことは、君に任せよう」

 薫の顔に、満面の笑みが広がった。早速握手をしようと手を伸ばしてくる彼女に制止し、蘇芳は言葉を続ける。

「ただし、俺の依頼もつつがなく果たして貰うぞ」

「もちろん! 後先短い人の願いを中途半端にしてしまうほど、僕は非情な人間じゃあないからね」

 沈黙。薫が再び不満そうな表情をして、蘇芳の顔を鬱陶しいほどに覗き込んだ。彼は顔を顰め、薫に背を向ける。

「なんだー、反応うっすいなぁ。そんなに、自分に興味ないの?」

「……いつか、そんな時が来るだろうことは、前々から承知していた。あれも執念深い奴だからな」

 薫は顔を上げ、口をへの字に曲げる。

「助けは乞わないんだ?」

「乞う必要がないだろうが」

 薫が目を瞬いていると、蘇芳が頭だけを薫の方に向けた。

「息子の安泰な将来が見えたんだ。ならば後は、運命の為すがままに、流されてゆけばいいだけだろう」

「わーお、カッコイイ!」

「ものすごく棒読みだな」

 薫は「まぁまぁ」と蘇芳を宥め、彼に背を向けた。広い空間を有する研究室の中、二人の背中が向かい合う。薫は一歩、また一歩と来た道を戻り始め、窓枠に手を掛けた。その時、外耳の向こう側から低い声が響いてきた。


「佑磨と、蘇芳家をよろしく頼む」


 薫はニヤリとほくそ笑み、「承知した」と呟いた。カーテンが舞い上がり、近くの書物が巻き添えを食らう。

 ものの数秒で、暴走したカーテンが静かになる。室内には、一つの人影だけが取り残されていた。

 雨霧雅仁の電撃攻撃により、蘇芳佑輝が息を引き取るのは、それからまた一年後の話である。


 薫は息を吐き、二年前に見たままの研究室を見渡した。あの時と違うのは、この研究室の主がいないことと、それ以外の人物が床なり机なりに伸びきっていること。そして、この光景を作り出した当の本人が、薄い笑みを浮かべて薫を見詰めているということだ。

「……彼の依頼は、蘇芳の勢力を絶やすこと。血を絶やす事じゃない」

「ふむ、一理ありますが、やはりそれでも、血を絶やしてしまった方が、手っ取り早いでしょうに」

 男の言葉に、薫は唇を尖らせる。

「僕は、佑磨が欲しかったの。人材集めにもノルマがあるんだから!」

 男はエメラルド色の瞳をきらりと煌めかせる。

「ノルマ、ですか。それは初耳です」

「雅がいない時に、理人に言われたんだもん」

「なんと! あの男は、本当に隅に置けませんね。妻子を持ちながら、まだ薫にこだわりを持っていようとは――!」

「いや、妻子は関係ないでしょ。理人は僕の上司だし。というか、僕のやりたいことが合法的に出来る環境をくれた人なんだよ。こんなノルマくらい、ちゃっちゃとこなせないとね」

 薫は言い切るが、男はまだ何か言いたそうに口籠もる。しかし、彼女に言い返すようなことはせず、代わりに「ノルマは後、何人ですか」と問うた。薫は斜め上を向きながら、「四人くらい」と返す。

「なら、その中に私も入れてください。それなら、後三人に減ります!」

 男は胸に手を当て、堂々と言い放った。薫は非難がましい目でその姿を眺める。

「今の黙静課メンバーに一瞬で射殺されるよ」

「私には関係のないことです」

「組織に協調性は必要不可欠だよ」

 胸に当てていた手が、ゆっくりと下に落ちていく。その手はそのままぶらりと宙を彷徨い、行き場を無くした。

 薫が彼から目を逸らすと、再び涼しい秋風が室内を通り抜けていった。薫の柔らかな髪と、男の繊細な髪とが、優しく揺らされる。

「なら、仕方がありません。あなたが彼らの誤解を解くまで、我慢することにしましょう」

「何それ、結局入りたいんじゃん」

「言ったでしょう? 私はあなたを始終視界に入れておきたいと同時に、あなたの視界にも入っていたい、と」

 薫は眉根を寄せ、一歩だけ退いた。

「そこまで、聞いてないよ?」

 男は笑うだけだった。


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