Ⅳ 金木犀⑫
コートの裾を引き摺りながら、階段を登り、長い廊下を一直線に走っていく。手を引かれながら走っていると、何だか自分の足が速くなったように錯覚させられた。
邸宅の最果ての地、元父親の研究室前に辿り着くと、佑人は俺から手を離した。彼は俺を後ろに隠し、ドアノブに手を掛ける。俺は彼の背から開かれた先を見た。
床にばらまかれた分厚い本。机から落ち、割れて散乱した硝子類の実験器具。夜の僅かな光を反射する、得体の知れない液体。そしてその先に。
暗闇の中に、ギロリと光る、金色の瞳。
それは鋭く何かを射抜いていた。俺はその視線の先に目を移す。
月明かりでシルエットになった、背の高い男の姿が目に入る。割れた窓からは夜風が通り、カーテンと男の繊細な髪を揺らしている。
彼が、BLOODなのだろう。逆光でその表情は見えないが、エメラルド色に妖しく煌めく瞳からは、不可解な感情が醸し出されていた。
そこでふと、俺は首を捻った。
俺が今まで見てきた悪魔の瞳は、誰もが血に染まったような真っ赤な色を呈していた。しかし、今目の前にいる悪魔は、何度見てもエメラルド色の瞳をしている。
俄に、風を切る音がした。晩秋にもかかわらず、金木犀の香りがつんと鼻を突く。
薫が目にも留まらぬ速さで動き、BLOODに斬りかかったのだ。その時見た彼女のシルエットは、明らかに人間のものではなかった。
頭からは獣の耳のようなものが覗き、尾骨あたりからはしなやかな尾っぽが生えていた。右腕の肘から先は毛が生え、手のひらは人の何倍にも肥大し、爪は鉤爪のように鋭く尖っていた。
鋭い爪で斬りかかられたBLOODは、彼もまた、目にも留まらぬ速さで攻撃をかわす。そしてまた、薫が斬りにかかる。机上に残っていた硝子器具が薙ぎ払われ、もの凄い音をたてて割れる。
BLOODはあまり動きを見せなかった。時折避けきれなかった攻撃を防ぎ、薫を投げ飛ばす程度のことしかしなかった。彼女は窓に激突し、大きな硝子の破片がきらきらと煌めきながら、邸宅の外へと零れ落ちていく。
圧倒的な戦闘能力の差を見せつけられても尚、薫は立ち上がった。何も言わず、ただただ目の前の標的を睨み付ける。
俺は、そんな薫の姿に、不躾にも魅了されていた。
理由というものは、何処にもない。けれども、彼女には、俺の目を釘付けにさせる何かが、確かにあった。
金木犀の香気が強まり、目眩とともに思考回路が溶けていく。それでも、瞼は眼が乾くことも忘れて開き続けている。
唐突に、吐き気を催した。俺は耐えきれず口を押さえ、その場に座り込んだ。それを見たらしい佑人が、俺の背を優しくさすってくれた。
幾分か吐き気が落ち着くと、背中から熱が遠ざかっていった。そしてすぐに、隣の人物が立ち上がる気配がする。
「雨霧、今回は諦めよう。まだ、時ではなかったんだ」
呼びかけられた悪魔は、ゆっくりとこちらに目を向けた。まるで月光を取り込むかのような、不思議な色合いの瞳をしている。
「そうですか。……残念ですねぇ」
男とも女とも区別の付かない声で、彼は答えた。そして、一瞬だけ薫に視線を遣った後、俺のすぐ横を真っ直ぐに通り抜けた。つられるようにして首を動かすと、横にいたはずの佑人が忽然と姿を消していた。
ワンテンポ遅れて、夜闇に突っ立っていた薫が動き出す。こちらも速すぎて、俺の脳内画像処理には間に合わなかった。
俺は風のようなものを目で追いながら、慌てて薫を追いかける。階段を下りる途中、コートが邪魔だったので、脱いで小脇に抱えた。もう一度風を追うと、今度は右側の階段を上がっている様子が見受けられた。
俺は、エントランスホールで一息吐く。それからもう一度、同じ段数の階段を登った。
二階に続く廊下を走り、とある部屋の前で止まる。開け放たれたドアの向こうには、冷たくなった夜風で舞い上がるカーテンが。その手前には、茫然と突っ立っている薫の姿があった。俺は薫の隣まで移動し、彼女の横顔を見上げた。
神秘的な金色の瞳は、窓の外を見据えている。その先には、閑散とした住宅街が広がっているだけで、人の気配は微塵にも感じられなかった。
彼女の瞳が、俺の方へころりと転がる。
薫と始めて会ったとき、確かにこの目で見た瞳であった。その瞳が、俺の姿をしっかりと捉えている。
固かった彼女の表情が、不意に柔らかくなった。鋭い爪の先で、俺の頬を冷たくなぞる。
「逃げられちゃった」
異形の姿を為していても、薫の声は、薫の声のままだった。彼女は辺りを見回し、「へぇ」と感慨深げな声を漏らす。
「ここが、悪魔使い君の部屋だったんだね」
俺から手を離した薫が、そう呟いた。
「……薫、あんたは一度この部屋に来たんじゃないのか?」
俺の問いに、薫は首を傾げた。俺も、眉根を寄せる。
「そうだっけ? でも、こんな空き部屋みたいな部屋、一度見たら忘れそうもない気がするんだけどな」
「だが、あんたに付けておいたGPSの発信器は、この部屋の机の下に落ちていたぞ?」
実際には見ていないが、佑人の言葉を信じるならば、そう言う他ない。薫は「あぁ、そうねぇ」と呟き、左手で頭を掻いた。
「それ、雅のせいだ」
「マサ? 何だそれは?」
「雨霧雅仁。みんなにはBLOODって呼ばれてる」
あの悪魔のことを指しているには違いないが、いかにもな渾名で呼んでいるところは些か違和感を覚える。
渾名で呼ぶことは、親しいイメージを連想させる。しかし、つい先程俺は、薫が彼と敵対するところをこの目で見てしまっている。故に、薫があの悪魔のことを渾名で呼んでいることに、気持ちの悪さを感じずにはいられないのである。
「多分、激戦中に佑磨達があの部屋に近付いてこないよう、配慮したんだろうね。全く、変な男だよ、雅は」
「変なって、黙静課の因縁の相手なんだよな?」
俺が疑問を投げ掛けると、薫は困ったように額に手のひらを当てた。
「うーん、それは、黙静課メンバーらが思っているだけで、僕は特になにも。確かに、警察という立場からすると非常に厄介だし、今回も面倒事を引き起こしてくれたんだけれどもね」
「佑人との契約か?」
薫は「いや?」とあっさり否定する。
「蘇芳家の残り五人を殺してくれちゃったこと」
沈黙。俺は半眼で薫を見遣る。
「それは、さらりと言っても良いことなのか?」
「さぁ? 僕にとっては、それだけのことでしかないからね。佑磨がどう思おうと、知ったことじゃない」
「なら、何故BLOOD――雨霧に斬りかかっていたんだ。わりと本気のように見受けられたんだが」
薫は眉根を寄せ、軽く息を吐いた。
「うん、本気だったのは事実だね。でも、原因はそこじゃない」
「じゃあ、何処だ」
「それは、また別の話さ」
「別の話?」
「そう、別の話」
それだけ言うと、薫は佑人の部屋を出て行った。俺はここに取り残されてもすることはないので、大人しく薫の後に付いて行く。
無言で歩く薫の背を見て、これ以上訊いても、話してはくれないのだろうな、と俺は思った。好奇心はあったが、節度もまた重んじている俺に、それ以上聞き出そうと思う心は現れなかった。
薫とともに、父親の元研究室へと戻ってくる。彼女は部屋に入るや否や、部屋の明かりを点けた。
途端に、先程には見られなかった光景が、俺の目の中に飛び込んでくる。
床や机に散乱していたものは見たままであったが、床上で煌めいていた液体は赤黒くドロドロとしており、その近くには五つの屍があった。奥から順に、椅子に腰掛けて絶命している祖父、その近くに倒れ込んでいる祖母。その手前に川の字になって伸びている叔父夫婦と、いとこの寧音。いずれも、赤い血にまみれ、目を開いたまま事切れている。
薫は大きめの硝子破片を左手で拾い、思いっきり自身の腹部に差し込んだ。時間差で血が滲み出し、薫の表情が痛みに歪む。
「……何やってんだ?」
そう、呟かずにはいられない状況だった。折角軽い傷だけで済んでいたのに、わざわざ自らを傷つける行為の意味が見いだせない。
しかし、その理由は聞かずともすぐに分かることだった。
獣化していた薫の体が、次第次第に人間の姿へと戻っていく。
薫は腹部から静かに硝子破片を抜き取った。破片の先からぽたぽたと赤い液体が床に落ちていく。薫の服も彼女の血を吸い、赤く染まりつつあった。
薫は硝子破片をその辺に捨てた後、俺に視線を向けた。この時、彼女の顔には何とも言い難いほどの、恍惚たる妖しい笑みが浮かべられていた。
「自分では制御が出来ないのね。だから、こうした刺激で元に戻すしかない」
「……なにか、妖怪と契約でも結んでいるのか?」
「いんや、これは自前。父が獣の神なんだ」
「やっぱり、人間ではないんじゃないか」
「ははっ、人間だよ、半分はね」
頓智を利かせたつもりなのだろうか。俺は、そういうことなら最初から言って欲しかったと文句を言いたい気分だった。けれども、そんな文句を垂れたところで、薫には無効であることなど、俺には既に分かり切っていることだった。
「あぁ、後始末めんどー。五人のうち、何人が生き返るんだろうねぇ。せめて虫の息くらい残っててくれたら良いんだけど」
そうぼやきながら、彼女は死体に近付いていく。
「え、ちょっと待て。今、生き返るって言ったのか?」
薫の動作が止まる。ゆっくりと首がこちらの方を向く。
「言ったよ。……別に、不思議な話ではないだろう?」
「不思議も何も、そんなことが有り得るのか?」
俺の発言に対し、彼女は失笑した。
「なら、君がその理論を見つけてしまえばいい」
ニヤリと笑う。呆けていた俺も、つられて苦笑してしまった。
薫は血にまみれた左手を屍の口元に近づけ、その血を中に一滴ずつ垂らしていった。それを五回繰り返した後、ふぅと息を吐く。
「善処は尽くした。後は面倒だから一課の奴らに任せよう」
両手を腰に当て、満足そうに言い放つ。俺は、こんな事だから周りに疎まれているのではなかろうかと、邪推した。恐らく、間違ってはいないだろう。
薫は跨っていた屍から離れ、周囲を見渡した。
「じゃあ、帰ろっか」
俺に満面の笑みを見せ、左手を差し伸べてくる。その手には血がベットリと付着していたので、その手を取ることは遠慮させていただいた。
薫が部屋の電気を消すと、再び研究室に暗闇が戻ってくる。
蘇芳邸を出たとき、ふと俺の脳内にある疑問が浮かび上がってきた。
「これ、どうやって帰るんだ?」
電車で帰ろうにも、俺は電車賃を持ち合わせていないし、血塗れの薫が公共交通機関を使うことは論外だ。かといって、こんな夜中に歩いて帰るのも、さすがに俺の体力的にも無理がくる。
薫は街灯の下でニヤニヤと嫌な笑みを浮かべ、俺に左手を差し出してきていた。俺は歯を食い縛りながらも、荒くその手を掴んだ。
満月の日の夜風は、わりと気持ちが良かった。




