Ⅳ 金木犀⑪
部屋のドアが閉まってからは、暫く無言の時間が続いた。俺と佑人は例の二人を探すという名目で、ふらふらと邸宅内を歩き回った。
時折気紛れに誰かの部屋のドアを開けたり、風呂場に行ってみたり、広間に行ってみたり、外に出て庭を見て回ったりと、つれづれに散策する。以前の俺なら考えられないような行為だが、不思議と体力は保たれたままだった。ここ最近の運動でついた体力にも因子はあるのだろうが、一番の理由は太陽が沈みかけていることにあるのではないかと俺は思う。
実の母親、草薙靜音にさえ「吸血姫」呼ばわりされたくらいなのだ。三文字目については言及しないが、というかしたくないのだが、俺はどうしてか日光に弱い。いや、どうして、と疑問詞を使うのは、医学に精通する俺としては不適切な表現だろう。
一応、自分のコンプレックスであるために、この症状についてとやかく説明しようとは思わない。が、簡単に言えば、体質なのである。
体質だから仕方がない。受け入れよう。そんな事を思ったことは、勿論一度もない。だが一方で、こうした体質を治そう、なんて事も、一度も思わなかった。理由は簡単だ。
治す必要がないからだ。
医者の元にやって来る患者というものには、往々にして治す「必要」というものがあるからこそ、やって来るのである。それは、生活をするにあたり、支障を来してしまうためである。
対する俺の体質は、なんら生活に支障を来さない。過去には幾度か来した例もあるにはあるけれど、それは最早稀少なケースと言っても過言ではないだろう。
とはいえ、この先そのケースに遭わないかと問われれば、確実に断言できるものではない。寧ろ、薫に振り回されることで、その可能性が肥大することの方が目に浮かびやすい。
だから、彼女についていくのはやめる、などという優柔不断なこともしない。基本は研究に没頭させてくれそうだし、俺の好奇心もさらに満たされるだろうという点では、捨てようにも捨てきれない道であるからだ。
俺たちはエントランスホールに戻ってきていた。俺が今日ここへ来たときよりも、室内の明かりが橙色に傾いている。佑人は首を左右に捻り、次は何処へ行こうかと思案していた。
「……楽しいな、こういうの。デートみたいで」
佑人が真正面にある窓の方を見ながら呟く。
「やめろ。そうした発言を許可した覚えはない」
冷たく言い返すと、彼は乾いた声で小さく笑った。
「でも、雰囲気はあったよね。庭園が夕陽に照らされて、結構ロマンチックだった」
「悪い、考え事をして見ていなかった」
佑人は目を細めて俺を見る。
「いいよ、佑磨はそれでも。寧ろ、その方が佑磨らしいじゃないか」
彼は柔和な笑みをしてみせる。それから左側の階段の方へ視線を移す。
「僕ね、実は、怖かったんだ」
「唐突だな」
「うん、唐突でごめんね。でも、これだけは言っておきたいんだ。……あぁ、同情を惹こうってわけじゃないんだよ。別に、同情してくれてもくれなくてもいいし、それこそそれで僕のところに来てくれたら本望なんだけれども」
佑人はそこまで言うと、恥ずかしそうに苦笑した。
「君に抱いた愛情に対して、僕は恐怖を覚えたんだ」
俺は眉根を寄せ、小首を傾げる。
「こんなに小さい子に対して、恋情を抱いて良いものなのかってね。僕、君に言ったよね? 他の子も見てきたけれど、佑磨にしか心動かされなかったって」
あの、真っ白な部屋の中で交わした会話のことを思い出す。
『赤ん坊ならなんでも可愛いって思うんだろ』
今思えば、たいそう不躾な質問であったような気もする。半分は俺に差し迫ってきて思考回路を邪魔した佑人のせいでもあるが、きつい言い方であったことに、少しは罪悪感がある。
異常なものは非難、排除され、孤立させられる。そんなことを、子供の俺でさえ経験してきている。ましてや、オカルト研究の道を進んだからといって、家族だけでなく親族からも冷たい目で見られてきた佑人にとっては、尚更苦痛であったろう。
そうした痛みを知る佑人だからこそ、新たに発見した自身の性癖なるものに苦悩を抱いたに違いない。同情とまでは言わないが、俺もそこが彼の繊細な悩みであることに、無意識に気付いていたからこそ罪悪感を抱いたのだろう。
「だから、佑磨を愛しく思っても、その反面で、何かに押し潰されてしまいそうな自分がいる。本当に恋をしても良いのか、とか、無理矢理それを君に押しつけてしまったりしてもいいのかって。……そうやって自分を自制しなくちゃいけない。でないと、言葉通り、恋というものは己を盲目にしてしまうから。これは本当に恐ろしい言葉だと、僕は思うんだ」
その結果が、BLOODの契約と、俺の誘拐に繋がった。彼は、そう言いたいのだろうか。
「我慢をすると、おかしくなってしまいそうになるんだ。どうしても、君を求める気持ちが勝って、止まらないんだ。手段なんて、考えられなくなってしまうんだ」
佑人は目を剥き出しにし、両手で頭を抱える。
「欲しくて欲しくてたまらない。犯して一生僕のものにしたい。……人間の理性って、たかが知れているよね。所詮、本能を基盤とする生物から進化してきた最終形態であるに過ぎない。多少嗜好の幅が広がっていたとしても、誰かを求めずにはいられない生き物なんだ」
彼はくしゃくしゃになった髪から、手を離した。背筋を伸ばし、虚ろな目で何処か遠くを見遣る。
「でも、佑磨を傷つけてしまうことが、一番怖かった」
彼の瞳が、どろりとこちらを向いた。
「君と出会って、君に触れて、君の声を聞いて。漸く分かったんだ」
彼の顔は、今にも泣き出しそうに歪められている。
「欲望のままに扱ってしまうと、簡単に壊れてしまう存在なんだってことが」
歯を食い縛り、涙が出てこないように堪える。時折瞬きをするも、赤らんだ目尻は元の色には戻らなかった。
秋の夕暮れは短く、エントランスホールは徐々に暗闇へと呑まれていった。佑人の表情も、次第に見えなくなっていく。
「……俺も、恐怖を感じていた」
気付けば、俺も思っていたことを口に出していた。佑人が俺の声に反応する気配がする。
「初めは、何とも思わなかったんだ。人の嗜好に関して特に偏見はないから、変態に好かれたな、くらいにしか思っていなかった。勿論、俺の嗜好ではないから拒絶はしていたけれども」
聞いていた佑人は、「酷いなぁ」と苦笑しながら呟く。
「だから、どうして途中から急に怖くなったのか、今の今まで、全く分からなかった」
俺は暗くなった室内で、佑人の顔を見上げた。今や、彼の輪郭が薄ぼんやりと見える程度で、どんな表情をしているのかは分からない。
「あんたが完膚無きまでに、純粋な愛情を向けてきたからなんだ」
すぐに佑人の方から視線を外し、言葉を続ける。
「俺は今まで、そんな愛情を貰ったことがなかった。勿論、それに不満を持っていたわけではないし、家庭内に全く愛情が無かったわけでもない」
佑人が近くに寄ってきたのか、微かに周囲の空気が暖まる。
「寧音に襲われたときにも、同じく恐怖を感じた。その時は多分、彼女が憎悪を示してきたからなんだと俺は思っている。……この二つに見られる共通点は、そのどちらも、俺の持ち合わせていない感情を、百パーセント俺に向けてきている点だ。それが、問題だったんだ」
上方から、布ずれの音が聞こえてくる。暫くして、俺の肩に何かが掛けられた。同時に、それに籠もっていた体温で肌が温められる。掛けられた布を掴むと、コートの生地であることが分かった。恐らく、佑人の着ていた、あの真っ黒なコートなのだろう。
俺は上の方を向くと、微かに彼の薄い笑みが見て取れた。暫く目を瞬き、その顔を凝視する。
「夜は寒いからね。少し丈が長いけれど、羽織っておくと良いよ」
彼は優しく、そう言った。
「……あんた、俺の話、聞いていたか?」
「もちろんだよ。君の話を、聞き逃すわけが無いじゃないか」
言われて、佑人が俺のストーカーであったことを思い出す。俺は苦い顔をしながら、コートにくるまった。いつの間に冷えたのだろうか。こうして温められなければ、恐らく俺は、極限まで気付いていなかった。
「そっか、佑磨にも恐怖体験があったんだね。親近感が湧くなぁ」
「その一つは、お前のせいなんだがな」
「うん、それも嬉しい。なんだか、貴重な場面に立ち会えていたんだと思うと、死んでも死にきれないよ」
「そこは、『もう、死んでも良い』と言うところなんじゃないのか? 表現がおかしいぞ」
佑人は、はははと乾いた声で笑う。
「言葉の通り、『死んでも死にきれない』んだよ。一度嬉しいことを経験してしまうと、もっともっと、欲しいって思うだろう?」
俺は半眼になり、「ギャンブル依存症か」とツッコんだ。佑人はさらに笑う。
「佑磨が感情に欠けていることは、僕も知っていたよ」
「ストーカーだからな」
「あはは、そうだね」
「なんだ、否定しないのか」
「既に今日の午前中の時点で肯定しているからね。……でも、確かに、自分にないものを他人に見せつけられると、何だか怖いよね。嫉妬する人もいる。うん、世間的には嫉妬の方が多いのかな。でも、君は恐怖として現れたわけだ」
佑人が俺の頭を優しく撫でる。俺を誘拐した人物ではあれど。俺に恐怖を与えた者ではあれど。不思議と、触れられても不快感はなかった。
「多分、その感情の純度が高まるまで、君に反応が出ないからなんだね。嫉妬の概念を飛び越して、いきなり恐怖に来ちゃうんだ」
「……そんなものなのか?」
「そんなものなんだよ」
突如、白昼色の光が灯った。暗闇の中に、ポツリと白い円が出来る。
佑人が懐中電灯を点けたようだった。
「持ってきていたのか」
「うーん、持ってきていた、というか、所持していた、という方が正しいかな。仕事柄、暗いところにはよく行くからね」
俺は何も返さなかった。
佑人は手探りで俺の左手のひらを掴んでくる。子供扱いとは少し異なる理由で繋いだのだろうが、温かかったので放っておくことにした。
「じゃ、二人捜しの後半戦と行こうか」
佑人がそう口にした瞬間、パリィィィィィイイイイン! と硝子が割れて弾け飛ぶ音が響いてきた。俺たちは音のした方、左側の二階奥の方へと目を向ける。
「防音壁なのに聞こえてくるって、相当な音だよね?」
佑人が顔を向けずに訊いてくる。
「恐らく、な。方向からして、父さんの研究室か?」
彼は返事もせずに、暫く何かもごもごと呟いていた。呟きが消えたかと思うと、彼は短く息を吐いた。
「そうかも知れないね。行ってみよう」
静かな声で言い放つと、佑人は俺の手を引っ張って歩き出した。




