Ⅳ 金木犀⑩
店長と別れてから、俺は一人で目的地へと向かっていた。
喫茶店を発つ前、店長が飴をくれたことで、空腹で倒れるようなことは起こらなかった。
思えば、彼女の言う通り、俺は最近きちんとした食事を取っていなかった。今日に限っては特に、朝から先程まで、何も口にしていなかったのだ。
何故そのようなことになったのかと問われれば、いとこに誘拐されたり、ヒステリックになった叔母と対峙したりと、何かと忙しかったからだと言えよう。薫とともにあの喫茶店へ赴いたお陰で、一息吐くことが出来たのだが、それも束の間の話である。
俺は今一度タブレットを見て、赤いポイントの位置を見た。その位置が相も変わらず変化しないのを見て、深く溜息を吐く。
どうして、よりにもよってそこなのか。
いや、その理由が分からないほど、俺の思考回路が単純なわけではない。ただ、やはり最後はそこに行き着くのかと思うと、足取りが重くなるのである。
暫く閑散とした歩道を歩いていた俺は、不意に足を止めた。
目の前には、何本もの太い鉄の棒で作られた、巨大な門が立ちはだかっている。その奥には、古めかしい洋館が厳かに聳え立っている。
蘇芳本家。現当主である俺の祖父が、腰を据えている場所である。
俺は深く息を吸い込んだ。暫く目を閉じ、ゆっくりと息を吐き出す。
俄に目を開き、門に手を掛けた。普段は鍵が掛けられているのだが、今日に限っては解錠されたままで、子供の手でも容易に開けることが出来た。
俺は静かに敷地に入り込み、洋館を目指した。道中に通り過ぎる庭では、甘く清々しい香りが俺の鼻腔を微かに擽った。横目にその根源を見遣ると、青々とした低木の足下に、橙色の花の絨毯が出来上がっていた。
俺は視線をすぐに洋館へ戻し、玄関の前で立ち止まった。ドアノブに手を掛けると、こちらもまた、鍵が開けられたままだった。
まるで、何かに誘い込まれているかのようだった。人の気配は全く感じられないにもかかわらず、その先には、必ず何かがあるような気にさせられるのだ。
赤い絨毯の敷かれたエントランスホールは、二階の天井まで吹き抜けになっており、無駄に広い空間を有している。両サイドには幅の広い階段が取り付けられ、二階の通路へと続いている。壁のあちこちに均等に取り付けられた格子窓からは、自然光が降り注いでいる。天井に吊られたシャンデリアは、淡い光に照らされて煌めいていた。
俺は左右を見ながら、何処へ行こうかと思案していた。しかし、考えたところで分からないものは分からないので、取り敢えず手に持っていたタブレットを見ることにした。
暗くなっていた画面をタッチすると、先程と寸分違わぬ地図が現れる。これでは、薫がこの蘇芳邸に居ることしか分からない。俺は憶測に頼り、右の親指と人差し指でズームの操作をしてみた。案の定、地図が拡大されていく。画面上が蘇芳邸でいっぱいになったところで、今一度赤いポイントを探した。
エントランスホールから見て、右側の方にポイントの点滅があった。しかし、衛星からの情報であるためか、このGPSには高さの概念というものがなかった。
俺は画面から目を離し、ポイントの打たれた方向を見遣る。
本当に無駄だと言いたくなるほど、この邸宅は広い。親戚一同が集まれば部屋が埋まらないこともないが、基本祖父母のみの住まいである。
俺は顔を顰め、無鉄砲に進むのを渋った。それは骨折り損になるのが嫌だとか、面倒くさいとかそう言う理由ではなく、単に、自分の体力を推し量っての渋りである。
俺がここを蘇芳本家と知っているだけあって、過去にも幾度かここへ赴いたことがある。父親の部屋、もとい研究室は二階の奥の奥、最果ての地と言っても良いくらいの場所に設置されている。故に、俺はそこへ顔を出しに行く度に、息を切らしていたのである。
只今点滅しているポイントはそこまで最果てに位置しているわけではないが、それが二階であるなら結果は同様である。詰まるところ、難所は階段なのである。
そこまで考えて、俺は脳内を白紙に戻した。ここでぐじゃぐじゃと考えても、無意味なことは分かり切っている。
俺はタブレットの電源を落とし、ポケットに仕舞った。
思えば、ここ一ヶ月ほど、俺はわりと体力を使っていたのではなかっただろうか。母親に殺されかけた故に奮闘したり、長雨に濡れたり、家の中を荒らしたり。他にも、薫を探しに公園で野宿をしたり、街や山、警察庁内を歩き回ったり、薫の家を見て回ったり、ケチャップを買い出しに行ったり、悪魔に襲われたり、瀕死状態になったり、USBメモリの中に無理矢理入り込んだり、いとこに誘拐されたり、などなど、数え上げればきりがない。
要するに、いくら体力がなくても、やろうと思えば出来てしまうのである。そのエネルギー源が好奇心に因ることを加えれば、今の俺が渋るような話ではないのではないか。
俺は進行方向を決め、歩き出す。
記憶が鮮明に残るからといって、その記憶をあてにしてはならない。その時はその時であり、今は今なのである。状況は刻一刻と変化していくものなのだから、必ずしも同じ結果が待ちかまえていると断定するのは、早計である。
未来は不確定要素ばかりである。ある程度予想はつくけれども、それを百パーセント言い当てることなど、出来はしないのである。否、出来てはならないのだ。
俺はゆっくりと階段を登っていく。室内に土足で踏み上がる習慣がないために、一歩一歩靴越しに感じる絨毯の感触に、違和感を覚える。
階段を登り切り、二階の廊下を奥の方へと進んでいく。相変わらず不気味な静けさが空間を支配していた。
とあるドアの前で、俺は立ち止まった。記憶の中にあるタブレット画面を思い起こしてみても、ここであることに間違いはなかった。
俺は、ドアノブに手を掛ける前に、生唾を飲み込んでいた。
俺がこの邸宅に来たときは、決まって父親の部屋に籠もっていた。時折、広間に顔を出したり風呂に入ったりと動きもあったが、殆どは父親とともに研究に明け暮れていた。故に、他の部屋のことはほぼ知らないと言っていい。
とはいえ、知らない部屋に入るという理由だけで、俺が踏み留まっているわけではない。
俺は意を決し、ドアノブを捻った。用心深く重い戸を開けていく。
カーテンを閉め切っているせいか、部屋は仄かに暗い。本棚や机は設置されているが、その何処にも肝心の本はなく、まるで誰も使っていない空き部屋のようであった。
俺が部屋の中に入り込むと、背の方でカチャリとドアの閉まる音がした。
「誰?」
机のある方向から、テノール調の爽やかな声が響いてくる。間もなくして、机の影から黒い衣服に身を纏った青年が、姿を現す。
「……蘇芳、佑人」
俺が呟くと、彼は目を細めて薄い唇を広げた。
「佑磨君か。びっくりしたよ。……あぁ、いや、来るんだろうな、ということは分かっていたけれどもね。まさか僕の部屋に来るとは思わなかったんだ」
そう、ここは彼が蘇芳家を出る前に使用していた、彼の部屋なのである。親戚達はこの部屋を忌み嫌い、彼、彼女ら自身は勿論、俺にも近づけさせなかった。俺は特に興味が無かったために、近付かなかったに過ぎないが。
「薫に付けていたGPSを追って、ここに来たんだ。だが、間違いだったようだな」
そう言って早々に部屋を出て行こうとするも、佑人に呼び止められる。
「あぁ、待って、佑磨。GPSってもしかして、これのこと?」
俺は瞬時に振り返り、彼が手にしているものを見た。右手の三本の指でつままれているのは、見覚えのある怪しいピンバッジであった。
「……それを、何処で拾った?」
佑人は首を傾げ、ぱちくりと瞬きをする。
「たった今、この部屋で。机の下に落ちていたんだ」
それで俺が部屋に入ったとき、佑人は屈んでいたのか、と俺は一人で納得する。
「つまり、この部屋に薫が来た、と言うことだな?」
「……うん、まぁ、そうなるんだろうね」
歯切れの悪い言い様に、俺は顔を顰める。
「もしや、薫の姿を見ていないのか?」
俺の言葉を聞いた佑人は、申し訳なさそうに後頭部を掻いた。
「実は、そうなんだよね。僕がここに来たのだって、君と大して変わらない時間だったから。今でも、ここの何処で何が起こっているのかは、さっぱりなんだ。だって、ほら、部屋数が多いだろう?」
彼の言うことは、尤もな話である。加えて壁が防音素材で出来ているために、それぞれの部屋は孤立している。故に、一つ一つ見て回らなければ、この邸宅で何が起こっているのかを把握するのは難しい。
そこでふと、俺は引っかかりを覚えた。
「なら、薫はここへ何をしに来たんだ?」
佑人の瞳が妖しい色に変わる。彼が意味も無くカーテンを開けると、弱くなり始めた太陽光が差し込んできた。
「少なくとも、僕に会いに来たわけではないと思うよ。……彼女は僕と勝負をしていながら、端から僕のことなんか、眼中にないんだから」
半ば、諦めがかったように、彼は微笑する。
俺は、午前中のミラ・スワンとの会話を思い出していた。俺が佑人に連れ去られた後、廃ビルの中に放たれた悪魔から逃れつつ、外付けの非常階段から脱出していた最中の、あの会話のことだ。
黙静課因縁の悪魔、BLOOD。それがこの件に関わっているという。つまり、佑人はそのBLOODとかいう悪魔と行動を共にしているわけである。
しかし、何故そのようなことをしたのか、と彼に問うのは、些か無粋な真似だと俺は思う。
佑人はオカルトの研究に精通している。故に、BLOODという悪魔が並大抵の悪魔ではないと同時に、契約をすればそれの手駒にされてしまうことも承知していたはずである。それでも尚、あえてそれとの契約を選んだということは、俺への執着心と、薫の手強さがその代償を上回ったからということになる。
ここで一旦、俺の思考が止まった。
佑人の行き着きたい先とBLOODの行き着きたい先とが異なっているのなら、事の展開は一変してくるのではないか。それは、彼の取りたい行動に、所々矛盾が見られていたことにも説明が付く。
まず始めに、俺が悪魔なるものと第一接触した時のことだ。今の今まで忘れかけていたが、あの時あの悪魔は、確かに俺に殺意を抱いていた。殺意と言っても、憎いとか消したいとか、そうした負の感情から来るものではない。純粋な殺意だ。
純粋な、というと少しおかしく思えるかも知れない。しかし、単に俺を殺めたいという素朴な感情というものは、純粋と言えるのではないかと俺は思っている。まぁ、あの悪魔の殺意の質がどうであったかはさておき。
寧音とかいういとこに殺されかけたことも、次に挙げられる。薫が俺の護衛として――といっても殆ど護衛にはなっていなかったが、悪魔を付けたあたり、彼女には俺が直接悪魔に襲われる事が分かっていたのだろう。本当に、護衛にはなっていなかったのだけれども。
この二つの出来事が、実はBLOODの仕業であったと考えるなら、合点がいく。彼が何を考えて俺を殺そうと思ったかまではさすがに分からないが、自らが犯罪に手を染めるあたり、あってもおかしくはない話である。
俺は疑問が一つ解消され、一人で清々しい気分を味わっていた。それまで放置していた佑人の方を見ると、彼は愛おしそうに俺のことを見てくるのである。
「佑磨は、本当に考えることが好きだね。……今は、僕と雨霧の関係について考えていたのかな?」
俺は眉根を寄せ、「雨霧?」と聞き返す。佑人は持っていたGPS発信器を机上に置き、机の手前の方まで移動してくる。
「雨霧雅仁。君たちの言う、BLOODのことだよ。……これが本名かどうかは知らないけれども。彼がそう名乗ったから、そう呼んでいるんだ」
俺は呼吸を忘れそうになっていた。
「……日本人名、か。偽名だとすると、日本人に近付きやすくするためか?」
「それを問うのは無意味なことだよ」
俺の呟きに、彼は薄く笑う。
「それよりも、二人を探さないかい?」
そう言って出て行こうとする佑人の背に向けて、俺は「二人?」と再びオウム返しをした。彼は軽く振り返り、「そう、二人」と繰り返す。
「君が芹沢薫を追いかけてここへ来たように、僕も雨霧を追いかけてここへ来たんだ」
「だからさっき、来た時間は俺と大して変わらない、と言ったのか」
佑人は「うん、そうだね」と端的に肯定する。
「ここには、何をしに来たのかな……。彼が単独で動くくらいだから、あまり良い用事ではないんだろうね。といっても、僕は蘇芳家を捨てた身だから、ここの人々がどうなろうが知ったことではないのだけれども」
彼はクスリと笑い、部屋のドアを開ける。彼が出て行ったのに続き、俺も彼の部屋を出た。




