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香記  作者: 鏡春哉
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Ⅳ 金木犀⑨

 再びメニュー表を開いた薫は、すぐに注文する物を決めたのか、右手を挙げて店長を呼び寄せた。ツインテールを揺らしながらやって来た店長は、「新・新作がもう少しで焼き上がるんですけれど、そちらをお召し上がりになりませんか?」と提案をした。薫が満足げに二つ返事で了承した次の瞬間、彼女の表情が俄に固まった。

 薫は鞄から財布を取り出し、そこから一万円を抜き出した。それをテーブルに叩き付けると、風の如く喫茶店を去ってしまった。カランカラン、とドアベルの音が虚しく響く。

 瞬く間もないくらいの出来事に、俺は呆気に取られてしまっていた。暫くドアの方を凝視していたが、それが無意味であることに気付く。

 首の位置を戻し、向かい側に誰も居ないことを改めて見る。少し視線をずらすと、俺と同じく呆気に取られた顔をした店長の姿があった。

 そこで、俺は若槻から手渡されていた物があることを思い出した。ズボンのポケットから手のひらサイズのタブレットを取り出し、電源を点ける。パスワード認証は無しに、画面は黒から周辺の地図に切り替わった。暫くして、画面中央で赤いポイントが点滅を始める。そのポイントは、地図の南西方向へ動いていた。

 今得られた情報から察するに、若槻が渡してきたものは、GPSの送受信機であったと推測できる。つまり、この赤いポイントが、今現在薫のいる位置を示しているということだ。

 しかし、一つ問題がある。というのは、薫を追いかけるには、薫の進むスピードが速すぎるという点である。公共交通機関を使ったとしても、乗り継ぎやら何やらで手間がかかるし、結局は降りてから自分の足を使わねばならないから、到底追いつくことは出来ない。

 ならば、どうすれば効率良く薫を追いかけられるのか。

 俺は未だに硬直している店長の姿を捉えた。彼女はやおら、俺の視線に気付き、赤い瞳をこちらに向けてくる。

「大いに構わないわよ」

 まだ何も言っていないのに、俺が何を言おうとしているのかは、分かっているらしかった。彼女は真顔で言葉を続ける。

「そのために、薫さんはあなたと一緒にここへ来たんでしょう。或いは、時間を潰すために」

 窓の外を見ると、太陽は昼下がり頃の場所に位置していた。あまり意識していなかったが、警察庁を出てから既に、三時間以上は経っていたらしい。

 俺は「そうか」と呟いて立ち上がる。しかし店長は俺の行動を制止した。何故止められるのかと不快に思っていると、彼女はポケットから何やらキャンディーを取り出し、俺の口に押し込んだ。

 途端に、口の中に甘味が広がる。

「カンライ飴よ。あなた、ここ最近、碌な食事を取っていないでしょう。顔色が悪いわよ」

 店長はもう一度ポケットに手を突っ込み、片手いっぱいに溢れるほどのカンライ飴を取り出した。これらを俺のポケットの中にねじ込む。

「これ一個で一日分の空腹は紛れるけれど、飽くまでも非常食だから、あてにしないで頂戴」

 俺はやけに面倒見の良い悪魔店長を見て、首を傾げた。

「何故、この様なお節介な真似を?」

 店長は忽ち白い頬を膨らませ、「思い上がらないで」ときつく言う。

「薫さんの連れだから、優遇しているだけの事よ。途中であなたに倒れられて、薫さんに迷惑を掛けるわけにはいかないもの。……ほら、さっさと行くわよ」

 店長が形の良い綺麗な手を差し出してくる。

「店は良いのか?」

「有能な店員がいるから、問題ないわ」

 彼女が横目で見た先には、店の奥で待機する覚の姿があった。俺は「あぁ、確かに」と相槌を打ち、差し出された手に自分の手を重ねた。途端に、強い力で店の奥へと引っ張られていく。

「お、おい、ちょっと待て。出口はあっちだぞ」

 慌てて叫ぶと、店長は「そっちは表で目立つでしょ。裏口から出るの!」と苛立たしい口調で返してきた。尤もな言い様に、俺は言い返す言葉もない。

 裏口から店を出ると、店長は俺から手を離した。次第に、彼女の周りに風が渦巻き始める。それは徐々に強まっていき、同時に店長の体が変形していった。

 オリーブ色の髪を縛っていたゴムが弾け、長い髪が舞い上がる。両サイドに突き出した指先からは、赤い爪が鋭く伸びていく。背からは、服を突き破るようにして、蝙蝠のような漆黒の翼が出現した。狭い路地の中で、大ききな翼を上方向に伸ばす。

 赤い瞳が、ギロリとこちらを向いた。

「はい、行くわよ。腕挙げて」

 棘のある口調のせいか、反射的に両腕を挙げてしまう。

 店長は俺を背後から、脇の下を通して抱き上げた。俺が自然と腕を下ろすと、彼女は勢いよく羽を上下させ、宙に浮かび上がった。それからもう二度ほど羽ばたくと、あっという間に雲のある場所まで高度が上がっていた。

 一日に、二度も空を飛ぶ体験をするとは予想外の出来事である。今度は正真正銘の翼による飛行になるが、こちらの方が揺れを激しく感じた。

「ところで、薫さんは今どこにいる?」

 店長の声が頭上の方から聞こえてくる。俺はタブレットを見ながら、「世田谷区方面だ」と素っ気なく返した。

「じゃあ、あっちね」

 店長は進行方向を定め、地面と平行方向に移動を始めた。

 飛行してから暫くすると、上下が少なくなり、安定するようになった。翼を羽ばたく回数も減ったことから、気流に乗ったと考えられる。

 俺は店長に抱きかかえられながら、下界を見下ろしていた。薫に連れられて飛んだときよりも、断然高度が高い。視界と同じ高さにあったはずのビル群は、最早芥子粒のようであり、人間に到っては、見えるような見えないような域に達している。

 詰まるところ、これはこれで爽快ではあれど、酸素が薄いわけである。加えて飛行の速度が速すぎるせいで、口を開いても呼吸が思うように出来ないのだ。

「ちょ、ちょっと、あんた大丈夫!? 心臓の動きが鈍くなってるわよ!」

 俺の異変に気がついた店長が、心配そうな声で叫ぶ。しかし、呼吸がままならない俺が、言葉を口に出来るはずもなく。

 暫くの間、彼女に対して何の反応も出来ない時間が続いた。店長の方も、俺が反応をしなかったためにどうすればよいか分からず、結局そのまま飛行を続けた。


 薫を追い始めてから、十数分が経過した。店長の飛行速度が徐々に遅くなり、ついには停止した。彼女は翼を小刻みに上下させ、落下しないように空中に留まる。想像するとすれば、ヘリコプターのホバリング状態であろうか。

 強い空気抵抗がなくなったお陰で、再び楽な呼吸が可能になった。俺はズボンに仕舞っておいたタブレットを取り出し、もう一度起動させる。

 出て来た地図の上に、とある場所に留まって点滅する赤いポイントが見受けられた。俺は上の方を向いて、店長の様子を伺う。

「この先の建物に居るようなんだが……」

「……えぇ、そうみたいね」

 生返事をするだけで、彼女は先に進もうとしない。

「どうしたんだ。まさか、俺に気を遣っているとか、そんなわけではないよな?」

 俺の憶測に、彼女はすかさず睨みをきかせた。

「そんなわけ、地球が反転してもないわよ。あんたがどう思おうが、私には素粒子ほども関係ないんだから」

 結構な毒舌っぷりである。しかし、俺に気を遣っていないとすれば、何故彼女は先へ進むことを躊躇っているのか。店長は苦虫を噛み潰したような顔で、訳を話し出した。

「……この先に、結界が張ってあるのよ」

 心底悔しそうに、前方方向を見遣る。俺も同じ方向を見たが、何処に結界とやらが張ってあるのか、見当も付かなかった。

「結界を破れないのか? この前、ボティスは破っていたが」

「上級悪魔と比べないでくれる!? 悪魔は悪魔でも、出来ることに限りがあるものなのよ」

「あんた、上級悪魔じゃないのか?」

「そんなこと、今はどうでもいいでしょ!」

 荒げた声で叫んだ後、店長は降下を始めた。

「どうするつもりだ? 援軍でも呼ぶのか?」

 俺の率直な疑問に、店長は盛大に顔を顰めた。

「そんなこと、するわけないじゃない。あなたが行くのよ、一人で」

「俺が一人で、か? 結界が張ってあるんじゃなかったのか?」

 答えては質問されることに疲れたのか、店長は重く溜息を吐く。一方で、俺の足は再び地面に着こうとしていた。

 地上に降り立つと、店長は人間の姿に戻った。住宅街ではあったが、幸いにも人気が少なかったために、騒ぎにはならなかった。

 彼女は俺の元まで近付いてくると、進行方向を指差した。

「あの結界は、悪魔除けの結界。下級悪魔は勿論、中級悪魔でも容易には通れない構造になってるの。だから、後は自分の足で行って頂戴。どうせ、もうそんなに距離はないでしょう?」

 彼女の言うとおり、目的地までは残り数百メートル程度である。子供の足でも、さほど時間のかからない距離であることは言うまでもない。

「恐らく、第三者は退け、というメッセージなのよ。これ以上近付いて、いらぬ怪我なんてしたくないわ」

 店長は「あー嫌だ嫌だ」とぼやき、俺に背を向ける。その様子を見て、俺の脳内である考えが思い浮かんだ。

「あんた、下級悪魔なのか」

 店長は一度振り返り、冷たい瞳で俺を睨みつけた。

「レディーに向かって率直に言い当てるのは、不作法よ」

 そう言い残した後、彼女は颯爽と姿を消していった。


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