Ⅳ 金木犀⑦
薫が姿を現してから暫くして、仕事を終えたらしい片桐も署に戻ってきた。彼は部屋の隅にある縦に細長い灰色のロッカーを開けるや否や、何処かに隠し持っていた掃除道具一式をそこに仕舞った。それからその近くにあるデスクの椅子に座り込み、何やら書面と対峙し始めた。
彼の無言の行動を機に、黙静課メンバーも各々にデスクワークを始めた。俺はこの特設管理課の室内を訪れるのは二度目だが、ここまで仕事感に溢れる室内を見たのはこれが初めてだ。
大人の仕事現場に立ち入るのは、特に初めてというわけではない。父親の生前もよく研究の手伝いをしていたし、亡くなってからは尚更研究室に入り浸ることが多くなった。しかし、あまり協力をして研究をするというスタンスを取っていなかったから、こうして連携してこなす仕事を見るというのは、なかなか新鮮だった。
「佑磨は、ここで仕事をしたいって思う?」
この中で唯一、デスクに着いていながら何もしていない薫が、唐突に話しかけてきた。俺は質問の意図を掴みあぐね、顔を顰めた。薫は一瞬だけ視線を逸らし、短く息を吐く。
「家から遠い警察庁に、満員電車に乗って出勤してさ。それでもって、デスクワークしかここではしないって、ふざけてるよね。そんなの、自宅でできるじゃん。っていうか、自宅の方がここより機材も資料も豊富なんだけど」
彼女は「あー、やだやだ」とぼやきつつ、椅子の背をきーこきーこと鳴らした。
今の言い様から察するに、「ここで仕事をしたいと思うか」という問いで、「この様な場所に来てまでわざわざ仕事をするのは、効率が悪い」と薫は言いたかったのだろう。
「なら何故、そうしなかったんだ?」
俺が問うと、薫はゆっくりと首を傾げ、ニタリと笑った。
「そうする権限が、僕にはないからさ」
端的に言った後、彼女は元の姿勢に戻った。机に肘を突き、遠い目で室内を眺める。
「と言っても、僕の好き勝手やってるっていうのが現状だけどね」
自分でそれを言うのもどうかと思うが、自覚していないよりはマシなのかも知れない。俺は呆れ顔で薫を見返し、溜息を吐いた。
黙静課のあの上司、月谷理人は、面倒事が嫌いなタイプと見える。先程も、周りが見えなくなった俺の叔母の対処を実質俺に丸投げしてきたし、薫の面倒見役も何故か押しつけてきた。上司であるにもかかわらず、だ。
ここで不満を言いたいところだが、言っても仕方がないのだろう。恐らく彼と話しても、また彼の良いように場を持って行かれるだけであるのだから。全く、月谷も薫と似たり寄ったりな人柄をしているから、困った上司である。
「で、佑磨はどうなの?」
薫が瞳だけをこちらに向けて、質問を繰り返す。
無論、俺はできるなら、ここよりも芹沢宅で仕事をしたいと思っている。と言うのも、この部屋に来るためには、あの共有のエレベーターを使わなければならないからだ。
あのエレベーターには、少々苦い思い出がある。思い出と言うほど遠い過去の話ではないが、兎に角、エレベーターで鉢合わせしたあの男のことが思い出される故に、あまり使いたいとは思えない。
あの男というのは、金髪碧眼のハーフらしき厳つい男のことだ。八歳児に対して、頭ごなしに黙静課を非難してきた奴でもある。
ああいった、頭の固い人間は、俺の苦手な部類に入るらしい。エレベーターに乗れば再び鉢合わせるのではないかと憂鬱になるくらい、拒絶反応が出ているからだ。
それ故に、あまりエレベーターを使いたくないのである。しかしかといって、薫の我が儘を一旦聞き入れてしまうと、それが癖になり、それこそ警察庁が薫の独壇場になりかねない。
だがしかし、しかし、だ。二十階分も階段で上り下りするほどの体力を、俺が持ち合わせていないというのが難点なのである。
俺は暫く考えた結果、徐に口を開いた。
「自宅でも、ここでも、どちらでもいいんじゃないか。好きなようにすれば」
途端に、薫が嫌な笑みを浮かべる。
「でしょー、でしょー! そうでしょー! 職員の健康面に適した職場環境で仕事をするって言うのが、一番良いよね!」
俺は半眼になり、「それは、飽くまでも職場の話だろう」と呟いた。しかし、薫がその言葉に気を留めるはずもなく、さっさと荷物を持って立ち上がった。
「さて、僕は帰るよ。やることないしね。みんなも、好きなように仕事する場所を決めると良いよ。佑磨のお墨付きもあることだしね!」
彼女は皆に向かってそう言った後、俺の右手首を掴んだ。そのまま力強く引っ張り、ドアの方まで大股で歩いていく。
突然引っ張られた当の俺は、引き摺られるようにして部屋を移動させられていく。その間俺が見たのは、薫の言葉に耳を傾ける暇を惜しむほどの忙しさに見舞われた、黙静課メンバーたちの姿だった。
特設管理課の室内を出て薄暗い廊下を競歩で進んでから、俺と薫はエレベーターホールに向かっていた。俺がまた乗らなければならないのかと思っていると、薫はエレベーターの前を尽く素通りしていった。薫の不可解な行動に俺が顔を顰めていると、彼女は前方を向いたまま迷うことなく歩を進め、廊下の突き当たりにある一つのドアの前で立ち止まった。
薫はズボンのポケットから鍵を取り出すと、ドアの鍵穴に差し込んだ。それから右に一回転させ、鍵を引き抜いた。ドアノブを捻り、扉を前に押し出す。
開かれたドアの隙間から、突風が流れ込んでくる。俺は反射的に目を瞑り、逆撫でになった前髪を押さえた。
数秒後、風が収まってから俺は薄く目を開き、広がった光景を目にした。
「……冗談だろ、これ」
そこには、豆粒ほどの建物が密集した、都会の風景があった。それだけなら窓から見るものと大差ないのだが、問題なのは、そのドアの先に足場が何も無いことなのだ。
見下ろせば、黒光りするアスファルトが。時折小人のような人間が地をうろちょろと歩き回っている。
「おい、ここって、非常口なんじゃないのか? なのに階段が見当たらないのだが」
ここで漸く薫が俺の方を向いた。その顔には、悪戯っ子のような笑みが浮かべられている。
「は、何それ。見ての通り、ここには非常口のマークはどこにも無いけど?」
「じゃあ、なんのためのドアだ! ……まさか、ここから降りるわけじゃないだろうな」
薫はニタリと口角を上げ、「その、まさかなんだよねぇ」と呟く。
「エレベーターってさ、安全面を考えて造られてるから、降下が遅いじゃん? なら、自由落下した方が手っ取り早く下に着くから、時間短縮できるよね」
詫びられる様子もなく、楽しげに話す。俺はさすがに付き合いきれないと思い、薫に掴まれた手を離そうとした。しかし、彼女の握力は相当なもので、がっしりと俺の手首を掴んだまま、離そうとはしなかった。
俺が抗議の視線を彼女に送ると、薫はまるで、捕らえた獲物は逃がさない、とでもいうような顔をして、さらに手のひらに力を込めた。
「まぁ、そういうわけで、若槻と片桐にこのドアを造ってもらったんだ。あ、勿論、上司の許可は取っているよ」
上司の許可と言っても、あの上司では信用に値することができないのではなかろうか。彼の上に立つ人間に、少し同情心が湧く。
不意に、後方から俺の肩が叩かれた。俺と薫以外に、どんな酔狂な奴がこのドアを使用するのかと振り返ると、そこには若槻が突っ立っていた。このドアを造った張本人の一人だ。
彼は手のひらサイズのタブレットと小さなピンバッジを俺に手渡してきた。ピンバッジには怪しげな黒い直方体の物体が付いており、彼はそれを薫の衣服に付けるよう、人差し指だけで指示をした。俺は指示されるままにそれを薫の衣服に付ける。当の薫はその行為に対して不快感を露わにすることもなく、ピンバッジが付けられた瞬間、俺の手首を強く引っ張り上げた。
あまりの強さにバランスを崩した俺は、気付いたときには既に、宙に放り出されていた。命綱は、薫に掴まれた右手首だけである。
声を出そうにも、上手く出てこない。これが所謂「絶句」という状況なのだ。そんなどうでもいいことが脳内を通過し、俺たちは重力になされるがまま、落下を始めた。その折、件のドアの奥に立っている若槻が、右手の親指をグッと突き出しているのが目に見えた。
『健闘を祈る』
彼がそう言っているように、俺には聞こえた。




