Ⅳ 金木犀⑥
警察署に赴くと、特設管理課の室内は何やら重苦しい雰囲気に包まれていた。沈黙を決め込む黙静課メンバーと、ヒステリックに叫ぶ一人の女性。それから、表情筋の動かない背広男が一人。
何が起こっているのかは、一瞬で把握することが出来た。
俺の父方の叔母、蘇芳和音が警察庁に乗り込んできていたのだ。彼女は我を忘れたかの如く叫び続け、同じような事ばかりを繰り返し訴えていた。
『佑磨を返して』
彼女のものになった覚えなど、俺には毛頭ない。勝手に出て行ったことに関しては、確かにこちらにも非がある。いや、あるかも知れないという程度であるだけであって、警察庁にまで押しかけて来られる謂われはない。
そもそも、俺に執着する意味が見い出せない。
跡取りとなり得る優秀な子供は、喉から手が出るほど欲しいに決まっている。そんなことを寧音とかいう俺のいとこが口走っていたけれど、最早機能するには不安定になりすぎた蘇芳家では、そのような理屈を並べたところで虚しいだけである。
つまり、俺には既に、蘇芳家における価値はなくなっているということなのだ。もっと言えば、蘇芳家そのものの価値が風化してしまっているのだ。そんなものに固執したところで、返ってくるものなど何もない。ならばそのような無意味なものを求めるよりも寧ろ、己の子に目を向けた方が、余程健全なのではなかろうか。
鼓膜を直接刺激する不快な高音は、衰えを見せなかった。一方で、彼女に対峙するがたいのいい背広男は、無表情で中身のない主張を受け止めていた。周りで息を潜むように沈黙している黙静課メンバーは、珍しいことに件の独特なマイペースっぷりを発揮することなく、ただ背広男の反応を伺っているだけだった。
ふと、叔母の叫び声が途切れたとき、機械のように動かなかった背広男に動きが見られた。彼は無表情を崩すことなく、ゆっくりと口を開く。
「先程説明した通り、こちらでは佑磨君を保護しているだけに過ぎません。決してこちらが仕向けたことではなく、飽くまでも、佑磨君の意思を尊重した上での決定に他なりません」
事務的な話をするような、無感情な声質だった。叔母の表情が、一瞬にして怒りの色に染まる。彼女は一向に思いが伝わらないことに苛立っているのか、それとも男の対応に腹が立っているのか、俺には見せたこともない形相で男を睨み上げた。
背広男は相手の感情など構いもせずに、淡々と続けた。
「確かに、無断で佑磨君を保護したことに関しては、こちらにも非があります。しかし、そうせざるを得ない状況だったというのも、事実です」
面白いくらいに、男の表情筋はぴくりとも動かない。そういうところが胡散臭さを醸し出していることに、彼は気づいているのだろうか。
「ですから、我々に対して憤慨なさるよりも、佑磨君と直接話し合った方がよろしいのではないでしょうか」
叔母の表情が固まった。
無機質な対応は無機質なりに、意外と効果があったらしい。改めて考えてみると、両者が感情的になってしまうと、内容が炎上して逆効果になることも多々ある。だからこそ公の場では冷静な対応が好まれるのである。そんなことは、当たり前だ。しかし、当たり前になってしまったからこそ、そうした対応は相手の中に疑惑の感情を生み出してしまう。
ならば、どのように対峙すればこの場が上手く収まるのか。
「丁度佑磨君も帰ってきたことですし、ここは一旦落ち着いて話し合いましょう」
背広男はドア近くにいる俺に視線を逸らした。それまで固まっていた叔母も、つられるようにして俺に目を向ける。
当の俺は急に話を振られ、冷や汗をかいていた。話の流れから俺に振られてくることは重々承知していたが、実際に振られてみると、どのように反応すればよいのか判断がつかなくなる。
取り敢えずのところ、ミラ・スワンに付き添ってもらい、話の渦中である二人の元まで移動した。叔母の目の前までいくと、彼女は途端に目の色を変えた。
「佑磨君、無理なんてしなくてもいいのよ。私たちがちゃんと、家族になってあげられるんだから。だから、ね? こんな危ないところにいないで、私たちと一緒に、お家に帰りましょう?」
俺に発言させる間も与えずに、叔母は差し迫るように捲し立てた。俺はしっかりと口を噤み、暫く叔母の様子を見る。
「小学校の申請も、この間終わったばかりじゃない。通うのは冬休み明けからになるけれど、それでも、ちゃんと学校には行っておきたいでしょう? 叔母さんね、佑磨君には不自由させたくないの。だから、佑磨君のやりたい研究にも、没頭できるように環境を整える所存よ」
彼女は好き勝手に言葉を並べていく。
言葉だけなら俺に有利な条件も多々含まれているものの、その根本を受け入れることはできない。そんなことは、彼女の家に行った瞬間から分かっていたことだ。
欲望だらけの者に対して、まともに付き合う義理は、俺にはない。縛られる必要もない。
何と言ったって。
蘇芳家は終わるのだから。
俺は顔を上げ、叔母を見据えた。彼女は期待を込めた視線を送ってくるが、その瞳は無意識に目を逸らしてしまいそうな程、ドロドロとしていた。俺は気持ち悪さに吐き気を催しそうになったが、ぐっと堪えて口を開いた。
「俺が、選んだんだ。蘇芳家から離れて、ここに残ることをな」
叔母は目を見開いていた。半開きの口から声を出すこともままならず、片眉を器用にひくひくと動かしながら、俺を凝視していた。
俺はさらに意志を込めた目で彼女を射抜く。
「小学校は行かない。家族もいらない。俺が欲しいのは、ただ、好奇心を追求できる場だけだ」
引き痙っていた叔母の顔が、引き笑いになった。硬く握られていた手のひらも、力を無くしたかのように、だらりと垂れ下がっている。
「……ゆ、ゆ、佑磨、君? 佑磨君よね、あなた」
叔母が妙なことを口走る。俺は訝しげに思いながら肯定すると、彼女は拒絶するかのように真顔になり、俺から一歩遠ざかった。
「そんな、嘘よ。佑磨君は、そんなぞんざいな子じゃない。お姉さんみたいに、柔和な子なのよ」
蚊の泣くような声で、彼女はそう呟いた。そして小刻みに首を横に振りながら、足を引き摺るようにして徐々に後ろに下がっていく。
「こんなんじゃあ、あの女と一緒じゃない。……強引な、あの女と」
叔母は頭を抱え、髪をぐしゃりと掴んだ。
「嘘よ、嘘よ嘘よ嘘よ! そんな筈ないわ! 佑磨君は……」
焦点の合わない目と、青ざめた顔。叔母は激しく髪を掻き、その場にへたり込んだ。そして暫くの間、訳の分からない言葉を呟き、首を横に振る行為を繰り返した。
唐突に、彼女の動きが停止した。ボサボサになった髪から手を離し、ぎこちない動きで首を上げる。色のない瞳が俺を捕らえたとき、叔母の頬はみるみる紅潮した。
筋力のない腕でふらりと立ち上がり、覚束無い足取りで俺に近付いてくる。丁度俺との距離が五十センチになったところでピタリと止まり、高い位置から俺のことを見下ろした。
「あなた、誰」
「蘇芳佑磨」
即座に答えると、叔母は顔を引き痙らせ、もの凄い力で俺の両肩を掴んだ。俺は突然の痛みに一瞬顔を顰める。しかし、叔母が俺の表情に気づくはずもなかった。
「違う! 佑磨君は、そんな反抗的な目をしない! もっと、優しい子なんだから!」
それはそうなのかも知れない。少なくとも、叔母の知る俺は、そうであったのだから。しかし、違うと言われても俺は俺でしかないし、その他の何ものでもない。勿論、なりすましでもない。これが俺であるという事実を突き付けたに過ぎず、拒絶しているのは叔母の方である。
俺は俺でその場限りの接し方をしてきたために、この様な誤解を生んでいることも、まぁ、確かに事実だ。しかし、その過去について、俺は後悔していない。あれは謂わば、社交辞令なのだ。元から深く関わる予定はなかったのだから、無駄に対立する必要性は皆無だろう。
だからこそ、俺は今、彼女にそぐわない俺を彼女に見せつけているのだ。説得するよりも寧ろ、興味を失わせた方が、効率がいい。
どうせ、縁を切ってしまうのだから。
これから先、会うことすらないかも知れない相手に、好意を抱いていて貰おうが貰うまいが、関係のない話である。ならば、効率のいい方法をとった方が、後腐れなくてお互いのためにもなる。例えば叔母なら、蘇芳家での需要の無くなった俺を無闇に養わずにすむし、俺は好きなことに没頭できる。
しかし、だ。気がかりなのは、叔母が警察庁にまで乗り込んでくるほど、俺に執着していることだ。蘇芳家が途絶えそうになっている事実に気付いていないことも考えられるけれど、それなら、叔母だけでなく、叔父もやってくるはずだ。現に、彼らの家に行った時にはまだ、叔父からも欲望らしきものを感じ取っていた。俺に利用価値があると踏んでいる目だ。そうであるにも関わらず、夫婦揃ってやってこないというのは、些か違和感を覚える。
仕事があるなり都合が合わないなりなど、様々な要因があって、叔母だけ来たという可能性も確かにある。けれども、叔母だけが突っ走っているような感覚も、どうも捨てきれないのだ。
俺が自分の世界に生み出された疑問の渦に揉まれていると、叔母が急に俺の体を前後に揺らし始めた。三半規管が混乱し、思考が途切れる。
「佑磨君は、お姉さんに似て、聡くて優しい子なの! ほら、この白い肌も、鼻の筋も、お姉さんにそっくり!」
俺は叔母に、乱暴に頬を掴まれる。
「でも……、目が全然違う。こんな得体の知れない目を、お姉さんはしていなかったわ。……きっと、あの女のものなんだわ。そうよ、そうに違いないわ!」
俺は頬に僅かな痛みを感じながら、眉根を寄せた。
お姉さんと、あの女。
叔母は先程から、二人の女性をそうやって、はっきりと区別している。
何のために、などと、無粋なことを考える必要はない。
俺はある考えに辿り着いていながら、それを検証すべく無機質に言葉を発した。
「お姉さんって、誰だ」
不意に、叔母の焦点が俺の目とかち合う。
「草薙靜音。私の実の姉よ」
彼女の言葉を耳にした瞬間、俺は確信を得た。
叔母は、俺から手を離し、少しばかり距離を取った。暑苦しく籠もっていた人の体温が、俺の周りから自然と消えていく。
合点がいった。つまりこれが、叔母が俺に執着していた理由なのだ。それも、叔父以上に、執拗に。
簡単に言えば、叔母と俺は間接的に血が繋がっている、ということだ。本来なら蘇芳家の嫁に入った叔母と、その甥である俺に血の繋がりはない。しかし、俺の母親が叔母の姉であるとなれば、話はまた変わってくる。
要するに、言葉の意味通り血縁者であるから、そうでない甥よりもより親近感を抱いていたわけだ。それに加えて蘇芳家の跡取り候補ともなると、手放すわけにはいかないと考えたに違いない。
これは単なる、俺の憶測であり、本当のことは叔母自身に訊かなければ分からない。しかし、俺はそれを訊こうとは微塵にも思っていない。
率直に言えば、興味事ではないからだ。俺の中で疑問が解消されさえすれば、それで良いのだ。ここで有り余る好奇心を振り翳し、面倒事に巻き込まれるよりかは、大人しく効率的に別れる方法を考えた方が、まだ健全だ。
ただし、一点だけ、ほんの一点だけ、疑問に思わざるを得ない点が残っている。それは、叔母が俺の出生の秘密を知っていたことだ。
俺の実母、草薙靜音によれば、この事実を知っているのは父親と母親と、草薙の三人だけだったはずである。それにもかかわらず、部外者である叔母がそれを知っていたとなると、どこかから情報が漏れ出たことになる。
草薙は俺が生まれる前に死んだから論外だ。父親も口が堅いから、彼がうっかり喋ったとは考え難い。はたまた母親も、夫と共有している秘密をまざまざ流すような人ではない。
ならば誰が流したのか、と考えると、この答えもすぐに出すことができる。
佑人だ。
彼なら、情報をあの夫婦に流すことが可能である。何と言っても、俺が新生児の時から俺をストーカーしていることから、俺以上に俺について詳しくなっている筈からだ。故に、俺が美波の方ではなく、靜音の方の息子であるという事実を知っていても、何ら不思議ではない。
それに、だ。薫曰く、俺は只今絶賛、薫と佑人との間で争奪され中であるらしい。このことも考慮に入れると、件の情報を利用し、あの家族を手中に収めていたと考えてもおかしくはない。
段取りとしては、こうだ。
あの家族を利用して俺を蘇芳家側に引き留め、薫側から無理矢理引き離す。それから暫くして蘇芳家に価値が無くなることで、俺の価値も大暴落する。そこで邪魔になった俺を、佑人が引き取るのだ。
こうすれば、時間はかかるものの、自然な流れで俺を手に入れることができる。蘇芳家に価値が無くなるとあの家族にも金銭面的なしわ寄せが来るだろうから、尚更だろう。
そういうわけで、晴れて、争奪戦は佑人の勝利になるというわけだ。
……一時思考停止。俺は心の中で首を傾げる。
何かがおかしい。いや、その何かが何であるかは分かっているのだが、兎にも角にもおかしいのだ。
今の段取りで行くと、彼らの娘、寧音の行動は矛盾要素でしかない。実際に、俺は彼女のせいで瀕死状態になり、ボティスに助けられた。そんなトラウマチックな場所に、再び戻ろうとはまず思わない。今は彼女から俺の記憶がなくなっているとボティスは言っていたが、それでも彼女に近付きたいとは思わない。
それはつまり、俺の考えた段取りが間違っている、ということになる。若しくは、彼女の取った行動が単なるバグであったか。そのどちらかは現段階では不明だが、俺を争奪するという点では、やはりおかしいとしか言いようがない。
何故、わざわざ寧音に過激な行動を取らせたのか。もっと言えば、何故、悪魔と契約させてまで、彼女と俺を接触させようとしたのか。
接触。それなのだ。恐らく、俺たちを接触させて、佑人は何かがしたかったのだ。
寧音はというと、何かきっかけでもなければ、俺の存在に対して無視を決め込んでいたはずだ。それ程、俺のことを嫌っていた。無理もない話だ。俺が蘇芳家で優遇されていると勘違いしていた挙げ句に、両親の関心までも俺に取られてしまったのだから。
とは言え、その関心の的にされた当の俺がそれを嬉しいと思ったかについては、最早言うまでもない。寧ろ、気持ちの悪い域に達した対応だった。あれは、両親を亡くした甥にするような態度ではない。
人に媚びる態度だ。
八歳児に媚びたりなんかして、矜恃が崩壊したりはしないのだろうか。それとも、媚びているという自覚がなかったのだろうか。
恐らく、後者の方だと俺は思う。いや、媚びるというよりも、もしかするとしがみついていたのかも知れない。
何に?
欲に。
ならば、寧音がしがみついていた欲は何か。
答えを見つけたとき、俺は息を呑んでいた。
佑人だ。彼女は、佑人にしがみついていたのだ。慕っていたとも言い換えられる。そうでなければ、悪魔と契約することまで、了承するはずがない。なぜならば、自分の身に多大なリスクを負う頼みだからだ。一歩間違えれば、命を落としかねない駆け引きだったに違いない。
しかし裏を返せば、それ程彼女は深く佑人に陶酔していたということになる。周りも見えなくなるくらいに、と付け加えても過言ではないだろう。
それを、佑人は利用したのではないだろうか。
何のために?
佑人の存在を、俺に知らしめるために。
思い返してみれば、俺が生きてきたこの八年間の中で、彼について特に意識したことはなかった。そもそも、親戚に否定的な印象を与えられていた上に、彼の興味事が俺の興味事とは真反対に位置していたからだ。さらに言えば、俺が生まれる前に蘇芳家を出て行った人物を追うほど、好奇心を掻き立てられるような出来事も今まで起こらなかった。
それを踏まえた上で、佑人はまず、俺に彼の存在を認識させようと考えたのかも知れない。
別に、いきなり現れて俺を引き取ると豪語しても良かっただろうに、何故このような面倒な手順を踏んだのだろうか。それも、俺の生死が危機に陥るような危ない橋を渡ったりしてまで……。
「ま……、すお、ま…………、蘇芳佑磨っ」
聴覚の向こう側から、低い男の声が聞こえてくる。俺は一瞬にして思考の海から引き上げられ、視覚が機能を再開させる。
俺の目に映り込んだのは、例の背広男だった。彼は高い背を屈めて、俺の顔を覗き込むように凝視していた。
「大丈夫か、蘇芳佑磨。思考がトリップしているのか?」
男の言葉を聞いて、俺はしばしば目を瞬く。無言で辺りを見渡すと、叔母の姿はどこにもなかった。男も釣られて周りを見、何かに納得したような顔をして口を開いた。
「君の叔母なら先刻帰って行った。ご家族が迎えに来られてな。……どうやら、彼女だけ突っ走っていたらしい」
俺の視線と、男の視線がかち合った。彼は感情が籠もっているのかいないのか、よく分からない目をしている。
「家族、というのは、俺の叔父といとこが、ということか?」
「そうだ。その二人がここまで来て、放心状態になった君の叔母を連れて帰った」
「……放心状態? 俺の覚えている限りでは、意気込んでいたように思えるんだが」
男は腰を上げ、姿勢を正す。高い位置から見下ろすように俺を見て、うーむと呻いた。
「実は、三十分ほど君がトリップ状態になってな。彼女も訳が分からずに混乱して、放心状態になったんだ。それから無意味な時間が続いたものだから、ご家族の方に連絡をさせて貰った。彼らも、まさかここまで乗り込んでいるとは、考えていなかったようだよ」
無口なのかと思えば、目の前の男はわりと喋る男だった。周りにいる黙静課メンバーは同調するだけで、口出ししようとはしなかった。
「君の叔父は、君の好きにすると良いと言っていた。のびのびと生きることが一番良いから、とな。娘さんの方は特に何も伝えることはなかったようだ。母親を慰めながら、すぐにここから出ていった」
まるで、事後報告をされているような気分になった。実際に事後報告をされているのだが、どうもむず痒く感じる。
確かに考え事はしていたが、周りが見えなくなるほど熟考していた、という感覚がまるでない。だがしかし、気付いたときには時間が飛んでいた、というのもまた事実なのである。
俺は改めて男を見て、ふと、当たり前な疑問が脳内に浮かんだ。
「……ところで、あんたは?」
一瞬だけ空気が固まる。しかしそれもすぐに解け、先程と全く変わらない表情で男は答えた。
「月谷理人だ。ここ、特設管理課の直属の上司だ」
彼は「よろしく」と付け加え、俺に右手を差し出してきた。俺は聞くがままに短く吐息を漏らし、呆けた顔で彼と握手をした。
妙な感覚だった。骨張った大きな手が、俺の小さな柔らかい手を包み込んでしまう。それでいて、違和感を覚えなかったのだ。同じ体温を、彼の手のひらから感じたからだろうか。どこか、安心させてくれる何かが、彼にはあった。
「ここの直属の上司と言うことで、呼び出されたんだ」
俺は半眼になった。
「それは、俺に言うものなのか?」
「私は事実を言ったまでだ」
そう言って、男、月谷理人はほんの僅かだけ表情を緩める。
「冗談だ。……君が薫の奇特なゲームに付き合ったとかいう蘇芳佑磨だな」
「奇特なって、まぁ、奇特なゲームではあったが」
「どうした。何か不満でもあるのか?」
月谷はロボットの如く首を傾げる。
「いや、上司にも是認されているのだな、と。単にそう思っただけだ」
彼は目を細め、再び俺を凝視した。
「奇特な上司だと言いたいのか?」
「いや……、そういうわけでは」
「別に奇特で構わない。それを言うなら君も奇特だし、ここにいる連中も皆それぞれのベクトルで奇特だ。なんら、憤るようなことはない」
不思議な人間だった。薫も不思議といえば不思議だが、彼女は何か含みのある不思議さだ。対して月谷は、純粋な不思議さであった。彼自身が純粋であるか否かは別として、人柄に率直さが見受けられるということだ。
だからなのか、単刀直入な言い様にも、不快感を覚えなかった。寧ろ、すとんと腑に落ちてくるような、素直な心持ちになれた。
「こちら側としても、奇特、というか、個性に富んだ人材が集まることが好ましい」
「確か、薫が人材集めをしているとか。薫に集めさせているのは、それが理由なのか?」
月谷は「あぁ」と頷き、横目でドアの方を見た。
「面白いだろう? 常識に囚われないというのは、人として最大の美点だと私は思っている。だから、薫に敬意を込めて、好きなように集めさせているんだ」
室内の空気が、何となく、柔らかくなった気がした。ちらりと周りを見てみると、黙静課メンバーが各々微笑を浮かべていた。
月谷は視線を俺の方に戻し、真っ直ぐに俺を見据える。
「まぁ、そういうわけで、薫の面倒見役、よろしく頼むよ」
「は? どういうわけだ」
月谷はわざとらしく目を細め、右の手のひらを俺に向けた。
「え、え、ちょっと……」
混乱故に俺はどのように月谷を引き留めればよいのか、考えることができなかった。そうこうするうちに、彼は颯爽と俺から離れてゆく。
月谷がドアの目の前まで来たとき、唐突にドアが開かれた。
「うおっと。理人、来てたんだ」
廊下に立っていたのは、ラフな格好をした薫だった。月谷は無言で肯定するだけで、すぐに部屋から出ていこうとする。
「あ、ちょっと待って。これだけ渡しときたい」
そう言って、薫は一枚の書類を月谷に手渡す。彼は「あぁ、これか」と言い、微笑しながら受け取った。
薫と擦れ違うようにして部屋を出て行った月谷の背を見ながら、俺は嫌な冷や汗をかいていた。




