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香記  作者: 鏡春哉
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Ⅳ 金木犀⑤

 下に降りてからすぐに、俺たち二人は片桐とかち合った。どうやら、悪魔と対峙しているうちに、自ずと外に出て来てしまったらしい。

 相変わらず寡黙な男だが、近況報告は真面目にするようであった。お陰で十一階から下は低級悪魔の巣窟になっている事が分かった。しかし、ミラ・スワン曰く、来たときは何も居なかったのだという。恐らく、佑人はボティスが来てから、他の階に悪魔を召喚したのだろう。

「それにしても、よく一人で切り抜けられたわね。片桐にも、稀みたいな力があるの?」

 ミラ・スワンの問いに、片桐はゆっくりと首を横に振った。徐に右手を後ろにやり、ズボンの尻ポケットから何やら取り出す。

「何、それ?」

 彼の手には、試験管型の霧吹きが収まっていた。その中には、毒々しい色の入り混じった、如何にも危険物そうな液体が入っていた。

「……若槻さん特製、悪魔ホイホイだ」

 俺とミラ・スワンは、半眼になって片桐を見る。

「それは、どうやって使うんだ?」

 俺が問うと、片桐の視線がころりとこちらに向いた。

「悪魔に、霧吹きを掛ける、だけ」

「……それはホイホイの役目を果たしているのか? 普通に、悪魔撃退薬で良かったんじゃないのか?」

「若槻さんは、悪魔がホイホイ撃退できるから、悪魔ホイホイと名付けたと言っていた」

 若槻に説明された通り、素直に答えたのだろう。彼のその真面目さが、かえって不憫に思えてくる。

「つまり、駄洒落ということね!」

 ミラ・スワンが自信ありげに叫んだ。

「いや、別に駄洒落でも何でもないだろ」

 すかさずツッコんだが、彼女の耳には届いていないようだった。

「それで片桐。その悪魔ホイホイはいつ貰ったの?」

 性格がさっぱりしていると、話題の転換も早い。片桐は彼女を凝視した後、霧吹きに視線を移した。

「ここに来る前。ギリギリで出来たと言って、若槻さんが渡してきた」

「何ですって!? じゃあ、どうして私に分けてくれなかったのよ! お陰で、危険な目に遭いかけたじゃない!」

「……先に行ってしまって、渡すタイミングを逃した」

 沈黙。ミラ・スワンはブロンドの髪をかき上げ、明後日の方向を向いた。

「ま、まぁ、そういうこともあるわね。じゃあ、帰りましょうか。長居するのは良くないわ」

 分かりやすい誤魔化し方でそう言うと、ミラ・スワンは前方へ歩き出した。

 その時だった。


「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああ! 無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃいいいいい! 嫌ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああ! 虫、虫がぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああ! キモイィィィィィィィィィィィィィィィイイイイイイイイイイイイイ!」


 あぁ、この声、誰のだっけ。

 会話がなくとも、三人の間にテレパシー的な空気が流れる。

 悲惨な叫び声から延べ五秒。ビルの玄関と思われる場所から、息切れ切れに、顔をぐしゃぐしゃにした土方が飛び出してくるとともに、黒い物体の波が勢いよく押し出てきた。

 先程の土方の叫び声から察するに、この波の正体は、「虫」ということになるのだろう。加えて見た目の大きさと色と、それから飛ぶところを考慮すると、あの虫とやらは「ゴ」から始まって「リ」で終わる、台所の敵ではないかと推測される。

「おかしいわね。さっきは悪魔だったのに、分裂して虫にでもなったのかしら?」

 ミラ・スワンはこの悍ましい情景を見ても、至って冷静に分析をしていた。しかし俺は、彼女の考えを即座に否定する。

「いや、違うだろ。あの悪魔はビルの入り口に突っ立っている。恐らく、あれの大群を悪魔が操っているんだろう」

「あら、本当だわ。……嫌ね、あいつ、気味悪く笑っているわ」

 ミラ・スワンは、再び嫌悪感を露わにする。それから切れのいい動きで片桐を振り返り、彼の手にある霧吹きを奪い取った。奪い取られた当の本人はただぽかんと突っ立っているだけで、状況把握が出来てるのか居ないのか、甚だ怪しかった。

 ミラ・スワンは虫の大群の根源にいる悪魔に近づいていくと、容赦なく件の液体をそれに吹きかけた。不意の出来事に逃げ損ねたらしい悪魔が、つんざくような声を上げてもがき苦しみ始めた。それでも満足しなかったのか、彼女は執拗に液体を振りかけていく。悲痛な叫び声と何かが融けていくような音が二割増しになる。

 俺は八歳児が見るべきものではないと自重することにし、視覚と聴覚をシャットアウトした。それでも防ぎきれない分は、仕方がないので無視を決め込んだ。

 一体、若槻はどのような劇薬を作ったのだろうか。そもそも、どうやってその効果を試したのだろうか。

 まさか、薫付きのあの悪魔にでも手伝って貰ったのだろうか……?

 俺は脳内で笑った。声を立てて笑う所を想像して、笑った。けれども、それもしばらくすると虚しく消えていった。

 多分、黙静課メンバーを勝手に被検体にするくらいの人だから、やりかねないのだろう。そう、思わざるを得ない。

 俺は心の中でボティスに向けて合掌し、閉じていた感覚器官を開いた。

 改めて脳内に入ってきた情報は、これまた悲惨なものだった。

 黒い絨毯のようにくたばった虫たちと、最早原形が何であったか分からないくらいに融けてしまった悪魔。それから、向かい側のビルに張り付いている土方の姿と、清々しい表情をして仁王立ちをしているミラ・スワンがいた。

 一体、誰が片付けるのだろうか。

 一番初めに浮かんだ言葉はこれだった。幾らこの周辺が廃墟ビルの林立している地域だったとしても、大量のGの死骸で埋め尽くされており、その上訳の分からない液体がぶちまけられているとなると、騒ぎにならないわけがない。

 だからと言って、俺が片付けたいとも思わない。こういうことは、好奇心の範疇外だ。

 ちらりと横目で片桐を見遣ると、彼はどこからか箒とちり取りを取り出し、あの近きがたい空間にあるものをさっさと掃いては拾っていった。そしてまたどこからか取り出したゴミ袋に入れては、掃除を続けていった。

 善良人。それが、彼に最もふさわしい言葉だと俺は思う。見た目と中身のギャップを悉く見せつけてくれるのも、感慨深く思わせる一因となっているだろう。

 ものの十五分。見るに堪えなかった光景も、あっと言う間に元の通りへと戻っていた。その間、俺が手伝ったか否かに関しては、此処では伏せておこう。

 全部で十袋くらいはあるだろうゴミ袋を持ち上げ、片桐は廃墟の向こう側へと姿を消していった。

「相変わらず、仕事が早いわね。さすが、元掃除屋ね」

 気分を良くして戻って来たミラ・ラスワンが、そう呟いた。

「掃除屋?」

「えぇ、掃除屋。依頼をしてお金を払えば、何でもすっかり元通りに綺麗にしてくれる掃除屋の、エースだったのよ、彼は」

「へぇ、何でも、か」

「そうよ、何でもよ」

 それ以上は聞かずとも、自ずと想像がついた。見ため的に元ヤのつく職業だとばかり思っていたが、意外にも性格重視な職業選択をしていたようである。それでも、通常の人間には出来ないような仕事ではあるだろうけれども。

「じゃ、今度こそ帰りましょう。片桐はあれを処分してから勝手に帰ってくるだろうから、私たちは腰の抜けた稀を何とかしましょう」

 言われて、未だに向かい側のビルに張り付いている土方の姿が目に入った。幾ら陰陽師の術が使えたとしても、苦手なものは苦手というしかないのだろう。何故彼女の術であの虫たちを焼き払わなかったのかと訊きたいところだが、そこらへんは陰陽師にも事情というものがあったりするのだろう。

「そうだな」

 短く答え、俺とミラ・スワンは土方のもとへと近づいていく。彼女は大粒の涙を流しながら、大人としてみっともない程の醜態をさらしていた。ミラ・スワンはそのような土方を容赦なくビルから引き剥がし、「帰るわよ」と言って彼女を引きずりながら大股で歩き出した。

「……G、滅びろ」

 鼻声でそれだけ呟いた後、土方は意識を失った。

 このような風景を見ると、彼女たちが警察の人間であることを、時々忘れそうになる。無理もない話だ。通常の警察が追う犯罪は、こんなにはっちゃかめっちゃかしていないのだから。


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