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香記  作者: 鏡春哉
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Ⅳ 金木犀④

 趣味の悪い真っ白な部屋から脱出した後、俺は同じフロアを暫くうろついていた。

 全く、薫と契約した悪魔だから悪魔としては腑抜けた奴なのだと思っていたのに、上級悪魔だけに、ボティスとやらはトンデモ悪魔ではないか。

 何が俺にそう思わせているのかといえば、もちろん先程の出来事である。天井が落ちてきたのは偶然かも知れないが、その状況を作り出したのは何を言おう、あの悪魔なのだ。

 それこそ偶然の産物なのではないかと思うかもしれないが、二度目に試みた時、俺は彼にタイミングを合わせていた。それ即ち、彼がタイミングを操作することが可能であったわけである。つまり、だ。あの悪魔は、俺が走り出すタイミングと、天井が落ちるタイミングとを見計らったというわけなのだ。

 考えすぎだと言われても、この考えを譲るつもりは毛頭ない。あいつは端から俺だけの力で成功するとは思っていなかったのだ。だから、強行突破に走った。具体的に言えば、人の良心を利用したわけである。

 ボティスは佑人が俺を大切にしているということを知っていた。ならば、俺の命が危機に晒されれば、どう転んでも助けに行く、とでも考えたのだろう。寧ろそれ以外に彼が笑っていた理由が見い出せない。故に、彼は異質ながらもやはり悪魔であったというわけなのだ。

 人の心をも利用する、悪質な生き物。

 俺は溜息を吐き、立ち止まった。上方には白と緑の非常口のマークが。そして目の前にある金属製のドアのノブ辺りは、重々しい鎖でがっしりと固定され、さらに古めかしい南京錠がかけられている。

 俺は目を細めた。

 いつの時代のビルなのだろうか。それとも、佑人がこのような事をしたのだろうか。どちらにせよ、外への出口が此処しかないというのは、如何なものだろうか。

 考え事をしながらも、一応はこのフロアの把握くらいはしていたのだ。それでも、階段なりエレベーターなり、それこそ出入り口になるような玄関や、窓さえも見つからなかった。まるで、何かを監禁するための密室ではあるまいか。

 監禁するものは何か。俺か?

 背中に悪寒が走る。これは八歳児が考えては駄目な奴である。取り敢えず、何かとてつもない能力を持った悪魔を召喚するためのフロアなのだと、そう考えておくことにした。中二病を発動した考え方であることは、此処では無視をしておいてもらいたい。

 しかし、こうも外界から隔離されてしまうと、俺が何処に居るのか、はたまたビルの何階に位置しているのか、全くもって分からない。こういう時に何か道具があってくれれば少しはマシだったのかもしれないが、不幸な事に、今のところ俺の身に便利そうな機械は備えられていない。因みに、体力もそろそろ限界である。

 外耳の遠く向こう側では、未だにドンピシャドンピシャ乱戦が繰り広げられているが、それはボティスに任せておけば、いつかは終わるだろう。俺を庇うなどという煩わしい工程もなくなったことだから、それこそ時間はかからない筈だ。

 俺は非常口の扉にもたれかかり、そのままずるずると座り込んだ。片足を伸ばし、顔を伏せる。疲労が床との接地面から抜けていくような感覚がして、少しばかり気分が良くなった。

 その時、天井の方からコンクリートの擦れ合うような音がした。俺は一瞬にして身を固め、上を向いた。

 そこには、正方形に穴の開いた天井と、そこから顔を出すミラ・スワンの姿があった。彼女はブロンドの髪を垂らしながら、俺を無意味に凝視する。

「あんたも、来てたのか」

 知り合いの姿を見て安堵したのか、俺はそう、言葉を漏らしていた。俺が立ち上がると、彼女は僅かに口の端を上げ、静かに天井裏から降りてきた。

 猫のような着地をするミラ・スワン。体にぴったりと張り付く形のダークスーツを着込んでいる事も相まって、彼女の姿はまるで、映画に出てくるスパイさながらだ。

「どうやら、無事だったみたいね。その調子だと、あの悪魔はまだ戦闘中、といったところかしら?」

 俺は無言で頷いた。彼女は俺の反応を見た後、感慨深げな表情でフロアを見渡した。

「趣味の悪いフロアね。窓一つないじゃない」

 不機嫌そうに呟いた後、再び俺の方を見る。

「薫付きのあの悪魔、突然『あっちだ!』とか言って急に消えちゃうものだから、探すのに一苦労したわよ」

「一人で一階一階探して回ったのか?」

「そんなわけないでしょ。このビル、十二階建てだから、三人で手分けして探したのよ。お陰で、二人とはてんでバラバラになっちゃったわ」

 俺は一瞬だけ目を逸らし、黙静課メンバーを振り返った。その中で戦力になりそうな人間となれば、自ずと誰が来ているかは見えてくる。

「土方と片桐か?」

「えぇ、そうよ。それでもだだっ広かったから大変だったのだけれど」

 そうして彼女は短く息を吐く。

「それにしても、どうして此処だけ密室状態なのかしら」

 不意に、ミラ・スワンが尤もな疑問を呟いた。

「俺も同感だ。それにあんたが天井裏から来たというのも気になるな、ミラ・スワン」

「ミラでいいわ」

「ミラ・ス……、ミラ」

「嫌ならフルネームでも構わないわよ」

「ミラ・スワン」

「……嫌なのね」

 呆れた口調ではあるが、彼女は大して気にしているようではないらしかった。土方よりも、いや彼女と比べることがおこがましいくらいに、ミラ・スワンという人物は竹を割ったような性格をしている。

「どうせ佑磨の事だから、このフロア一帯の事は調べているんでしょ?」

「あぁ、外に出られるようなところは、今のところこの非常口しか見当たらない」

「つまり、そういうことよ。外から見たら窓は十二階分あるのに、エレベーターの階数は十一階と屋上のみ。所謂、隠しフロアというやつね」

 ドラマでもないのに、そのようなフロアを作る奇特な人物がいるのだな、と頭の片隅で考える。その奇特な奴が自分のいとこだと思うと、些かやるせない気分になる。

「しかし、よくこの階だと分かったな。外から見ただけだと分からなかっただろ。虱潰しに探したのか?」

「そんな馬鹿なことはしないわよ。エレベーターの各階に止まる時間で分かったのよ。ほら、一回分飛ばす分だけ時間がかかるでしょ? 因みにここは十一階よ」

 確かにその通りだし、理にかなった見極め方ではある。しかし、このような方法を平気な顔でこなすというのも、常人のする事ではないように思われる。否、黙静課メンバーである時点で、常人である可能性は期待しない方がいいのかもしれない。唯一普通そうだったあの土方でさえ、妙な能力を持ち合わせていたのだから。

「そう言えば、外には窓があると言ったな」

 俺は気を取り直して、ミラ・スワンに話しかけた。彼女も気になっていたらしく、素直に話題に食いついてきた。

「確かに、言われてみればそうね。あれはお飾窓っていうことなのかしら」

「一階分窓が無いのもおかしな話だからな。フェイクで入れておいたんだろう。全く、隙の無い奴だな」

 彼女は短く噴き出し、「ごめんなさい」と小声で謝罪の言葉を入れた。なにがそう面白かったのかは知れないが、この人も笑うのだなと、これまたどうでもいい事を考えてしまった。けれど、そう思うのも致し方ないのではないだろうか。

 彼女は、愛想の良い人間とは、決して言えない。現に、しかめっ面か無表情しか見た事がない。かく言う俺も似たようなものだから人のことを言えたものではないが、それでも彼女の笑みというものはレアであると俺は思う。

 詰まるところ俺が気になっているのは、そのレアな瞬間を垣間見る事の出来るほどのアクションが、今此処で起こったのだろうか、ということである。

 ミラ・スワンは未だに柔和な表情をして見せ、唇を開いた。

「何だ、いとこ君とは、仲がいいのね。犬猿の仲だって聞いてたから、結構心配していたのだけれど。心配して損しちゃったわね」

 先程の会話からどのようにしてその結論を抽出したのかは分からないが、取り敢えず、この人はまた、薫にあらぬ知識を吹き込まれていたようだ。騙されやすいのか、はたまた薫の事を信じ切っているのか。一つだけ言えるのは、彼女は薫に遊ばれている、ということだ。

「……他の二人とは落ち合うのか?」

 触れられたくない話題には、蓋をしてしまうのが賢明である。些か強引だっただろうかとも思ったが、後腐れのない性格万歳、ミラ・スワンは自然に返事を返してきた。

「あぁ、まぁ、会えれば一緒に戻るけれど。でも、それは難しそうね」

 彼女は明後日の方向を見ながら、そう言った。それも、何故か小声で。俺は突然小声になったことを訝しげに思ったが、その理由はすぐに分かった。

 薄暗いフロアに、俺とミラ・スワン、そして後もう一人、別のモノの気配がした。その足取りは重くゆるく、そして確実にこちらへ近づいてきていた。通路の中盤に垂直に交差した、もう一本の通路の方からだ。非常口のあるこの場所は通路の最果てにあるから、こちら側に曲がられでもすれば、袋の鼠も同然である。

 故に、声を殺すことは愚か、息を呑む事さえも躊躇われた。どうか、こちらに曲がりませんように、と祈るばかりである。

 薄暗くて視界が見えにくい事だけが幸運だとでも言えようか。こちらに気付かれなければ、確実に襲われる心配というものは、無い筈である。いや、無いものであってほしい。

 ヒタ、ヒタ、と無駄に心臓に負担のかかる音が徐々に大きくなっていく。

 ミラ・スワンも、かなり緊張しているのが見て取れた。

 曲がり角の陰から、鋭い鉤爪のような足がちらりと見えた。

「佑磨は、どこかなぁ」

 聞き覚えのある、低音の、甘い囁き声。これは恐らく、俺がケチャップを買いに行った時分に襲ってきた、あの「何か」である違いない。その何かは結局悪魔であったわけなのだが、今はそのような事はどうでもいい。

 ミラ・スワンが此処まで気を張り詰めているということは、悪魔退治は専門外だということだ。それは即ち、わりと、いや、かなり危険な状況下にいるということを示している。

 ここで土方が来てくれればいいのだが、彼女は察して来てくれるような、そんな容量の良い人ではない。あるとすれば、偶然そこにいた、ということくらいなのではなかろうか。

 まぁ、つまり、だ。彼女に助けを求めるのは、あまり良い策ではないということだ。しかし残念ながら、他の方法を考えるための時間というのも、もう無いのである。


 ぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅうううううううううううううううううううううううううううっ


 俺が此処までか、と思った矢先の出来事だった。俺の腹の虫が鳴ったわけではない。かと言って、隣にいるミラ・スワンのものでもない。

 そして空腹というワードで考えられるのは。

「お、あっちか。アホだな、盛大に腹の虫を鳴かせるなんて」

 悪魔は嬉々とした表情を浮かべながら、通路を真っ直ぐに通り過ぎて行った。その先に誰が居るのか。最早考えるまでもない。

「ラッキーだわ。此処に来る途中、力を使っていたみたいね」

 小声でそう言い、ミラ・スワンはしめたという表情で笑った。俺は半眼になって、ガッツポーズをする彼女を見る。

「いいのか? 仲間内なんだろ?」

 すると彼女は、心外そうな顔で俺の方を見遣った。

「いいも何もないわよ。黙静課メンバーの中で悪魔とやり合えるのは稀と薫くらいだもの。寧ろあっちに行ってもらわないと、どうなっていたか分からないわよ」

 彼女はどこからかヘアピンを取り出し、南京錠に手をかけた。

「それに、こっちには佑磨もいるんだから、大いに助かっているでしょ。一石二鳥だわ」

 カチャカチャと鍵穴をいじった後、南京錠は難なく開かれた。彼女は黙静課に入る前には、一体どのような職種についていたのだろうと思ってみたりもしたが、考えるのはやめにしておいた。恐らく、見たまんまなのだと俺は思う。

「さ、早く行くわよ。この件、BLOODも一枚噛んでいるから、ちょっとややこしいのよ」

 ドアが開き、清々しい風が建物の中に入り込んでくる。真っ青な空の様子を見ると、今は昼下がり頃だろうか。

「さらりと言われても困る。BLOODってなんだ」

 ミラ・スワンが差し伸べた手を取り、非常階段を降り始める。彼女は俺の手を強く引っ張りながら、振り返らずに答えた。

「黙静課の因縁の相手よ」

 重々しい口調。彼女はそれ以上、説明を付け加えようとしない。

「……厄介な犯罪者、ということか?」

「それなら、因縁にも何にもならないわ。何と言ったって、黙静課が相手にしているのは、その『厄介な犯罪者』たちなんだから」

 ならば、どういう相手なら因縁になるというのか。黙静課の、と言うのならば、あの得体の知れない薫さえも手こずらせる相手ということになるのだろうか。

 ミラ・スワンは、静かに口を開いた。

「『厄介な悪魔』なのよ、そいつは」

「悪魔……? 悪魔自体も、逮捕の対象になるのか?」

 俺の手を引く力が、少しばかり強くなる。

「ならないから厄介なのよ。でも、他の悪魔とは明らかに手口が違うの」

 外付けの階段は所々錆びていて、ぎしぎしと嫌な音を立てる。

「人間に契約されていない、フリーな悪魔なのか?」

「違うわ。人間に契約させている、雇用主な悪魔なのよ」

「何だ、それは」

 ミラ・スワンは容赦のない速さで階段を下りていく。

「簡単に言えば、BLOODは契約する人間を選ぶことが出来るの。そして、願いを叶えておきながら、実際には自分の良いように手駒として動かしている」

「あぁ、それで雇用主、か。普通は選べないのか?」

「だって、悪魔は召喚されてなんぼのモノでしょう? でも、BLOODは召喚されず、神出鬼没と言われているわ。そもそも、本当に悪魔なのかさえ疑わしいところよ」

「会ったことないのか?」

 無言。階段を下りる速度がさらに早まり、俺はこけそうになった。さすがに身の危険を感じた俺は、何とか話題を切り替える。

「つまり、BLOODは契約という名目で人を操って、自らが犯罪を行っている悪魔だから、厄介だというわけか」

 少し間が空いた後、前の方から「そうよ」という返事が返ってくる。

「どういう理由があってそんな事をしているのかは、分からない。けれど、使役されずに、自発的に罪を犯している事だけは確かよ」

「それはまた、妙だな。こちらの世界で犯罪をしたところで、何の意味がある? 食事目的だけなら、契約した人間の魂をさっさと食って帰ればいいのに」

「私に聞かないで頂戴。虫唾が走るわ」

 高速で降りて行ったからか、十一階分の階段を下り終えるのもあっという間だった。ミラ・スワンの手が離れた後想像以上の疲労が押し寄せてきたが、これは帰るまで我慢する他ないだろう。

 取り敢えずのところは、新たに追加された謎について考えることで、凌ぐことにしよう。


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