Ⅳ 金木犀③
「大丈夫か、佑磨!」
聞き覚えのある低く透き通った声が、真っ白い部屋の中にこだました。負の感情で錯綜としていた俺は、この声によって一瞬にして現実に引き戻された。俺に迫らんとしていた佑人も、ハッとした顔をして声のした方を振り向く。俺もつられて、同じ方向を向いた。
「って、何だよあんたは!」
期待していた救世主と、今現在視線の先にある出入り口に立っているモノとは、大いに様相が異なっていた。
頭には水牛のような二本の角が生えており、裂けたような口からは大きな牙が覗いている。顔は血色がないかの如く真っ白で、切れ長の目には赤い瞳が収まっていた。頭から下は通常の人間の形をしていたが、これもまた、真っ黒な服装を身に纏っていて、白箱のような部屋と見事なコントラストを成していた。
「俺だよ、俺!」
先程より少し荒げた声で、それは叫んだ。その折、口の中から先が二本に切れた細い舌が見え隠れした。この悍ましい容貌を見た俺は、つい先ほどまで抱いていた筈の恐怖なるものを、すっかり忘れ去ってしまっていた。
「オレオレ詐欺か!」
そう叫び返すと、化け物染みたそれは、額に青筋を立てた。
「違うわ! ボティスだよ!」
「そんなこと分かってる!」
「――なら、最初からそう言えよ!」
奴……彼の口から、再び細い舌がしゅるると伸びては中に消える。今まで幾度か人外のモノを見てきたが、此処までシュールだと些か見るに堪えない。
俺はボティスから視線を外し、再度佑人を見た。彼は虚ろな目をして異形な悪魔を見詰め続けていた。その顔に表情はなく、ただただ、凝視しているだけのように思われた。
ふとした瞬間、佑人の口角が不気味に上げられた。視線はそのまま、彼はやおら、懐に右手を忍ばせた。程なくしてコートの内ポケットから出てきたのは、幾枚かの十センチ四方の紙切れだった。そこには正円と、その中に不可解な文様が描かれている。
彼がやろうとしている事に気が付いたのか、出入り口に突っ立ったままでいたボティスが慌てて動き出した。しかし悪魔であってさえも、空間を絶対的に縛る「時間」というものには抗えないらしい。
佑人は手にした紙切れを宙に撒き、何語とも言えない言葉で呪文らしきものを唱えた。するとただの紙切れであった筈のものから、忽ち黒い煙が立ち上り、瞬く間にそれらは人型に形を成した。
暫くして煙が消え去ると、そこには明らかに悪魔と呼ぶべきであろう黒い蝙蝠のような翼を持った、四体の魔物が現われた。そのどれも不敵な笑みを浮かべ、佑人の前に佇んでいる。
「はっ、お前が悪魔使いか。一気に四体とか、相当の手練れだな」
そう言葉を零すボティス。しかし彼も、余裕の笑みを崩さない。
「上級悪魔の君には言われたくないよ。質で劣るなら、量で対抗するのは当然の理だ」
佑人は挑発的に返すや否や、視線で悪魔らに合図を送った。それをすぐさま察知した四体の悪魔は、目にも留まらぬ速さで四方からボティスに襲い掛かった。
ボティスはどこからか鋭い剣を取り出し、空間を勢いよく切り裂いた。その強力な風圧で、四体の悪魔は四方八方に薙ぎ払われる。しかしそれらは大したダメージを喰らったわけではないらしく、すぐさま次の攻撃へと転じた。
巨大なハンマーを振り回すモノ。攻撃性の高い魔力を繰り出すモノ。拳にものを言わせて力ずくで襲い掛かるモノ。それから巧妙に鞭を振るうモノ。各々が絶え間なく、そして容赦なくボティスに攻撃の雨を降らせる。
その度ごとに白箱のような部屋は破壊されていった。申し訳程度に置かれていた家具は最早原形を留めておらず、壁にも同心円状の亀裂が無数に出来ている。上方からはコンクリートの破片が何度となく落ちてきて、天井は今にも崩れ落ちそうだった。
このような状況下に置かれた俺は、ただ、呆然と見つくことしか出来なかった。さすが上級悪魔と言えばいいのか、ボティスは俺を庇いながら防戦してくれている。そのためか、俺の身は今のところ安全である。お陰で、本当に何もすることは無いのだが、同時にそこから動くこともできなかった。
実際、俺が生きているという事が不思議なくらいの乱戦が目の前で繰り広げられているのだ。ならば、動けばどうなるかは、考えずとも分かるだろう。というか寧ろ、そういう状態でボティスはよく俺を庇えられるものだと、逆に感心せざるを得ない。
つまり、それ程彼は余裕を持っているということである。乱戦前に見せたあの笑みも、伊達ではなかったというわけだ。
しかし、彼が防戦を続けている限りでは、状況は並行するばかりで一向に進展しない。何故彼は攻撃を繰り出さないのかと考えたり、もしや攻撃性には富んでいないのかと邪推したりもしてみたが、所詮悪魔学の知識がない俺には、脳内に疑問を並べることまでしか出来なかった。
これでもってますますやる事のなくなった俺は、何を思ったのか、無意識に出入り口の方へ視線を向けていた。
相も変わらず、俺のもとから遠くにそれは位置している。しかし一つ違うと言えるのは、新たな出入り口ともいえる穴が、そこよりもかなり近くに開いている、ということだ。おそらく、何度も攻撃の贄になるうちに、耐えきれず壁が崩壊したのだろう。
俺くらいの大きさなら、裕に通れるほどの穴だ。加えて、十歩程度移動しさえすれば辿り着けるほどの位置にある。
俺は息を呑み、瞳にボティスを捕らえた。視覚から脳に入って来た彼の像は、ニタリと笑みを浮かべて俺を見返したものだった。
それからの俺の思考は、たったの0.2秒程度だった。
突っ立っていた場所から、即座に穴の方向へと走り出す。
そして、俺は。
落ちていた瓦礫に躓いて、こけた。
真正面から床に激突し、あまりの痛さに暫く悶絶する。
俺は、もう一つ考えなければならない重大な事を忘れてしまっていたのだ。重大なこと、と大袈裟に言ってはいるが、実際は至極当然、当たり前、ごもっともで普通なことだ。そんな事を忘れる俺も俺だが、この非日常な状況下で見落としてしまうことくらい、少しは見逃してくれてもいいのではないだろうか。
ここまで引き延ばして言うのは、バツの悪い失態を犯したから、ということなのだがそれはさておき。正直に言えば、今の今までただ茫然と突っ立っていて、馬鹿みたいに考え事をしていた俺が、急に動き出せる筈が無い、ということだ。況してや、体力のない、もっと率直に言えば運動音痴な俺が、たかだか十歩程度であるにしろ、障害物だらけの空間と化したこの部屋を無事に通過できる筈が無い、というわけである。
結果は言わずもがなだが、防戦を続けるボティスの視線が些か痛い。気を取り直して体を起こそうとしたが、腕に力が入らなかった。
何とも、情けない話だ。今にも彼が溜め息を吐きそうな光景が、目に見えてしまう。
仕方がないので、運動神経の硬直が緩和されるまで、暫く不動を決め込んだ。その間、聴覚から入ってくる忙しない音が、俺の罪悪感というものに訴えかけてくるようで、いたたまれなかった。
数分後、俺はもう一度穴の位置を確認し、再チャレンジを試みようと身構えた。今なら、心の準備もできているし、体の状態もちゃんと把握できている。故に今度こそは、失敗する確率は大いに下がっている筈だ。……敢えてゼロとは言わないが。
ゆっくりと息を吐き、隙を見てボティスに視線を遣った。この時の彼は、次失敗したらどうなるか知らないぞ、とでも言っているかのような目つきをしていた。
上等である。ならば、失敗をしなければいいだけの話だ。
俺は密かに口角を上げ、床に着いた手に力を込めた。
あと少し。
絶え間なく繰り出される攻撃を、ボティスが事細かに対処する。
あと、もう少し。
一斉に襲ってくる四体の悪魔に向けて、彼は自慢の鋭い剣を構えた。
今だ。
俺が走り出すと同時に、強烈な旋風が白い空間を支配した。彼に襲い掛かった悪魔だけでなく、床に転がっていた瓦礫までもが宙に舞い上げられる。俺は急激な重力がかかったような感覚を覚えたが、無理矢理歩を進めた。
穴まで、あと三歩。
「危ない!」
テノール調の叫び声が響いてくるや否や、俺の頭上でコンクリートがひび割れ、砂埃と共に天井が無残にも落下してきた。俺は反射的に目を瞑り、やはり確率はゼロではなかったか、とどうでもいい事を考えた。さすがに予想外の因子で失敗したのなら、ボティスも同情くらいはしてくれるだろう。
半ば諦めの方向に傾きかけていた俺は、突如誰かに突き飛ばされた。タックル並の強さに吐き気を覚え、次いで壁への衝突による作用反作用が眩暈の方に来た。それから少し遅れて鼓膜にやってきた、崩落の音。嫌な予感しかしなかったが、俺はゆっくりと目を開いた。
瓦礫の下敷きにされた、佑人の姿がそこにあった。苦しそうな笑みを浮かべて、俺を見詰めてくる。
成程、彼は俺を殺したかったわけでは確かに無いらしい。こうやって身を呈して守ってくれるというのは、まぁ、嬉しいと言えば嬉しい部類に入る。
だが、と此処で俺は思うのだ。
哀れだな、と。
俺は壁に手をついて体を起こし、立ち上がった。偶然か否かは知れないが、俺の背後には件の穴があった。彼に背を向け、穴に手をかける。体の節々が痛んだが、構わず足を上げ、穴から白箱部屋の外に転がり出た。
再び立ち上がり、体勢を整えてから穴の方をちらりと見遣った。
瓦礫に埋もれた佑人の後方では、すらりと背筋の伸びた出で立ちをしているボティスが、不敵に笑っていた。




