Ⅳ 金木犀②
かつて、愛情なるものをこうも直球に受けたことがあったろうか。直球は愚か、それを注がれることすらままならない人生を送って来たのではなかったか。
そのような俺にとって、まるで濃硫酸のような愛を唐突に投げかけられることは、俺に重度の火傷を負わせる凶器にしかならない。
だからと言って、彼に恐れ戦いているわけではない。確かに背筋がぞっとするような思いはしたが、恐怖というよりも、ここでは嫌悪感を抱いていると言った方が正しい。
要するに、キャパオーバーだったわけである。通常の人間でもここまでドロドロの愛情を向けられれば引き気味になるように、ましてや愛情への耐性がない俺の中には、抵抗感しか現れてこないというわけである。
しかし、抵抗をしようにも出来ない状況下に置かれている事については、些か頭が痛い。ちょっとした機転で話題を変えられたのは良かったものの、佑人を避けて部屋の真ん中まで来ている今、肝心の出入り口から遠ざかってしまっている。加えて、俺と佑人の立ち位置も悪い。このままでは、彼を通り越さねば出入り口に辿り着くことは不可能である。
そんな事をすれば、追ってこられた時点でゲームオーバーになる。俺の歩幅と彼のとでは、どちらが優勢か考えるまでもないだろう。
ならば、俺から注意を逸らせるような大事を思いつくほか、道はないのである。
俺が悶々と考えているさなか、佑人が呟きを放った。
「あぁ、違うな。鈍感なふりをしていたんだ」
彼の言葉で、俺の思考がぷつりと途切れた。顔を上げ、佑人の顔をまじまじと見る。彼は過去を想起しているのか、目を伏せ、考え込んだ素振りをしている。
「鈍感な、ふり、だと?」
俺は思わず呟いていた。佑人が嬉々とした反応を見せた時、俺はやらかしたと後悔したが、それでも気になるものは気になるのだ。
つい先ほどまで意識を飛ばしていたところで、俺の実母、草薙靜音から聞いた言葉を考えれば、俺の抱いた疑問は自ずと分かる事だろう。彼女の言葉と照らし合わせると、今の呟きはどうも食い違いがあるのである。
鈍感なふり。それは、気付いていながらも、気付いていないような振る舞いをすることだ。草薙曰く、俺の父親は終始気付かず研究に明け暮れていたという。もしも彼女の言ったことが正しいならば、父親は「ふり」など出来ない、不器用な人間という事になる。しかし佑人は、それは「ふり」だと言い直した。何故、いきなりそのような事を言い出したのだろうか。
「あ、今、何で僕がいきなりそんな事を言ったのか、不思議に思ったんでしょ」
佑人が俺の顔を覗き込んでくる。俺は反射的にのけ反り、後退してしまう。そしてすぐに、また出入り口から遠ざかったと、悔やむのである。
「そんなこと、思っていない」
「嘘は良くないよ、佑磨君。僕の八年間の片思いは伊達じゃないんだ。幾ら君の表情が乏しいと言っても、君の考えている事くらい、僕にはお見通しさ」
彼は自慢気に言う。
俺も、薫の考えている事が時々以心伝心することはあった。けれど、基本何を考えているのか、実際に聞く以外に知る術はない。というのも、以心伝心と言っても、実質俺が状況から推測し、そこから導き出される直感なるものに頼っているに過ぎない話だったからだ。
だが、今の俺と佑人との会話の中に、俺の思考を推測できるような要素は何もなかった。もし仮に、草薙から俺がそういった話を聞いている事を知っているのなら、話は別であるが。
とにもかくにも、気持ち悪いと言わざるを得ない。とは言え、別にショタコンや同性愛者に偏見を抱いているわけではない。俺がその方向の人間でない事も一つあるが、適度な態度でなければ、それは単なるストーカー行為となってしまいかねないという事が言いたいだけだ。
つまり、だ。状況が変わることなくこのまま時が進めば、俺は完全に、性犯罪に巻き込まれることになる。八歳児でそのような経験は、勿論したくない。想像すらもしたくない。そのような事は、現時点では知識だけで結構だ。
佑人は薄ら笑い、俺に近づいてくる。俺は猫に追い詰められる鼠の如く、部屋の奥までじりじり後退りする。
「君の父親が学生だった頃、美波って言う人が彼をストーカーしていたことは知ってる?」
互いの位置が一メートルを切った時、佑人がそう、口にした。俺は彼を睨みつけながらも、首を縦に振った。
「その美波が、つい最近死んだ俺の代理母だろ?」
「そうそう。何だ、知っているんだ。誰かから聞いたのかな?」
俺は何も言い返さなかった。自分の口から守護霊に会ったなどという話をしたくなかったからだ。佑人は俺の沈黙を気にせず続ける。
「僕はその時、まだ随分と幼かったけれど。……何歳だったかな。幼稚園か、小学校に通うくらいの歳だったことは覚えているけれど。まぁ、それはともかくも」
佑人は目を細めた。
「僕、聞いちゃったんだよね。彼の研究室の前を通った時、偶然ではあるんだけれど。『毎日毎日同じ人間を追いかけて、何が楽しいんだか』っていう彼の呟きをね。その時は美波さんの話を知らなかったから分からなかったけれど、後に靜音さんからその事を聞いて、ピンと来たんだ」
彼は屈み、視線を俺の目の高さに合わせた。
「あの人は、意識的に無視をしていたんだよ。自分に害が無いからって。それでいて、靜音さんが危機的状態になると、おめおめと彼女を利用するような、自分勝手な男だったんだよ」
俺はピクリと眉を動かした。確かに、美波を代理母にするなどとは、何か虫のいい話のように思っていたが、意図的にそれが為されていたのなら、俺の父親は大層非情な人間だったという事になる。
佑人は目を見開き、呆然とした表情をする。
「でもそれってつまり、裏を返せば、洞察力に長けていたって言う事なんだよね。だから、僕がやろうとしていた事にもすぐに気が付いたんだ」
彼は淡々と言い放つ。
「僕は君が生まれるより以前に、蘇芳家を見捨てて出て行った。向こうは僕の事を勘当扱いしていたみたいだけど。だからこそ、僕がすぐに戻ってきたことに、誰も気づかなかったんだ。あぁ、誰もじゃないね。あの人以外は、だ」
何を思っているのか、佑人の口から途切れることなく言葉が漏れ出てくる。
「当初の目的は、忘れ物を取りに帰っただけだったんだ」
「は? あんた阿呆なのか?」
無遠慮な俺の言葉に、佑人は苦笑する。
「仕方ないじゃないか。あの時は気が急いていたんだ。僕だって、一回出て行ったのに、また戻ってくるなんてバツが悪いって思ったよ。でも、物が物だったからさぁ」
「……何を忘れたんだ」
俺は半眼になって、佑人を見上げる。彼は真顔で唇を開いた。
「グリモワール」
「やっぱり馬鹿だろ、あんた」
佑人は再び苦笑し、「うん、自分でもそう思う」と素直に認めた。
「昔っから物忘れが激しいんだよね」
「若年性アルツハイマー症か?」
彼は笑うだけで、俺の問いには否定も肯定もしなかった。
「ははは、どうなんだろうね。でも、さすがにグリモワールを忘れるのはないなって思ったかな。あれが親族内不和の割と大きな元凶だったし」
どうやら自覚はしていたらしい。代々医者をやってきた家系の中でただ一人、オカルトの研究をやってみせたいとことは、どのような変人なのだろうとは思っていたが、いや、実際に変人なのだけれども、思ったよりは常識が身についているようだった。
ならば、と俺は思うのである。
ちらりと佑人の後方を見て、まだちゃんと出入り口が開いている事を確認する。すぐに視線を元に戻し、彼を見据えた。
「それで、そのグリモワールを取りに帰った時、俺を見た、と」
佑人は薄気味悪く唇を左右に引き延ばす。
「そう。産まれたての佑磨を、ね。ほんっとうに可愛かったよ。人間の形をしているのに、何もかもがミニマムサイズで。特に、手が印象的だったなぁ。開いても僕の手のひらに全部収まっちゃうくらいに小さかったし、爪も有るような無いような大きさだったし。そのくせ、ぎゅっと握られた時の力は強いんだからね」
楽しそうにぺらぺらと喋る佑人。俺は彼の詳しい描写を聞いて、嫌な予感を覚えた。
「おい、ちょっと待て。あんたと俺は、今日が初対面じゃなかったのか?」
「嫌だなぁ。誰がそんな事を言ったの? 僕は『実質、はじめまして』としか言ってないよ」
白々しく首を傾げる佑人を見て、俺は強く歯を食いしばった。
「何だそれは! あんたが俺をストーカーしていたから、そう言ったんじゃなかったのか!?」
動揺する俺の姿が面白いのか、佑人はころころと笑う。
「それもそうだけど、一回だけ、君とはご対面しているんだよ。でも、それ以降は君の父親に阻まれて叶わなかったけれどもね」
そう言って、彼は失笑する。今の発言でとある考えに至った俺は、まさかと思いつつ口を開いた。
「……あんた、もしかして、それで俺の父親にバレたのか?」
「……ん? うーん、まぁ、そうだね」
俺は呆れかえって、無意識に「馬鹿以上だろ、あんた」と呟いていた。それを聞いた佑人は、後頭部に片手を当てながらへらへらと笑う。
「あれは一生の不覚だったなぁ。思わず佑磨に見惚れちゃってたからねぇ。でも、佑磨が可愛すぎたのも悪いと思うよ?」
「俺のせいにするな! あんた、赤ん坊ならなんでも可愛いって思うんだろ!?」
叫ぶ俺に、佑人は心外そうな表情をした。
「そんなことない! あれが佑磨じゃなかったら、僕は何とも思ってなかったよ! 実際に、僕もそう思っていろんな赤ちゃんを見てきたけど、不思議と何も感じなかったんだ。心が大きく揺れ動いたのは、それが佑磨だったからなんだよ!」
それまで一メートルあった二人の間を、佑人が一気に詰め寄って来た。俺は反射的に後方へ下がったが、すぐに背中に固いものが当たった。
壁だ。
これぞ、袋の鼠。視線の先にはその袋の口がぽっかりと開いているのに、身動きの取れないこの状況は、じれったいことこの上ない。ここで窮鼠が猫を噛んだように、俺も一つアクションを起こしたかったが、生憎何をすればよいか思いつくことが出来なかった。
生温かい汗が、首筋に伝う。呼吸は出来ているのか否か、最早分からない。見上げれば恍惚とした瞳で俺を見詰めてくる男がいる。
俺の思考は混沌とするばかりだった。
程なくして、俺は彼の力強い腕に抱きしめられていた。薫にそうされた時とは、明らかに違う感触だった。抱擁の柔らかさはどこにもなく、硬い筋肉が俺の肌に重圧をかけてくる。そのあまりの強さに肺が圧迫され、本格的に呼吸困難に陥りそうになった。
俺が苦し紛れに息を吐いていると、不意に、体が解放された。密着していた時の肌の温度が空気に晒され、熱が奪われていく。
俺は目を見開き、顔を上げた。そこには、苦しそうに微笑む佑人の姿があった。彼は俺の肩を優しく掴む。
「ごめんね、佑磨。君を困らせたいわけじゃない。僕は、本当に、本当に、君を愛しているんだ。愛しているんだよ」
絞り出すような声で、彼はそう言う。俺は瞬間的に彼の手を振り払い、睨みつけた。
「さっきは、問答無用で迫ってきてただろ。誰がそんなこと信じるか」
「あれは君と対面できて嬉しくって、話せたことも嬉しすぎて……、感情がコントロールできなかっただけなんだ」
逃げようとする俺に、彼は尚も追ってくる。
「僕だって、佑磨を怖がらせたいなんて、少しも思ってない。ただ、単に、君が好きなだけなんだ」
攻め寄ってくるいとこを前にして、俺の鼓動は激しく脈打っていた。同時に、何か不可解なものが、心臓を止めんばかりに握り潰そうとしていた。何処からともなく湧いてくる汗が、額を、首を、背筋を、次々に伝っては下方へと落ちて行く。
激しい動悸のさなか、俺の脳内には一つの言葉だけが支配していた。
恐怖。
先程までは何も感じていなかったはずなのに。ただの嫌悪感に留まっていた筈なのに。
一体、
何が俺を恐怖させている?
視覚が正常に作動せず、脳に送られてくる映像はぼやけたものにしかならない。
足は竦み、腕は痙攣して上手く動くことが出来ない。
唇は震え、喋ることもままならない。
このような状態で、俺が唯一はっきりと認識できたのは。
恐怖の中に好奇心が融け込んでいっているという事だけだった。




