Ⅳ 金木犀
開いた視界が捉えたのは、真っ白な天井だった。
ここ最近、失神しては目覚めるを繰り返しているような気がする。時に実験台に、時に瀕死状態に、なかなか貴重な体験をしてきたのではなかろうか。貴重とは言え、そのような体験を自ら望んでしたいとは死んでも言うつもりはないが。
気怠い体を起こすと、その反動か何かか、激しい頭痛に見舞われた。この原因なるものは、どう考えてもあのせいでしかありえない。
俺は額を抑えながら、暫くフリーズした。実のところ、床にでも頭をぶつけて痛みを紛らわせたい思いでいっぱいになっていたが、そんな事をすれば余計な傷を負いかねないので、数分間は破裂するような痛みに耐え続けた。
苦しい事が継続すると時間の感覚が長くなるように感じるというが、痛みが緩和するまで、実際どのくらいの時間が過ぎていたのか、俺には皆目見当がつかなかった。と言うのも、今現在俺が居る部屋の中に、時を刻むものが一つも置かれていなかったからだ。
残念なことに、「あの場所」に行く前、俺は腕時計を外してしまっている。故に当然のことながら、俺の腕にも時計はない。だから、俺がいつまで気を失っていたのか、はたまた今はいつなのかすら、知る術はないのである。
しかし、そんなことはどうでもいいのである。俺が今、一番に考えなければならない事が目の前に直面してきているのだから。
どこだ、ここは。
再度部屋の中を見渡すも、真っ白い壁ばかりが目に飛び込んでくる。もしや件のUSBメモリからの脱出に失敗したのだろうかという考えもちらりと浮かんだが、あの量も質も分からない空間に比べれば、此処は断然形を有していた。ただ、真っ白な立方体の箱の中に閉じ込められたような気分になる、という感覚が拭いきれないだけである。テーブルや椅子、ベッドなどの最低限の家具は置かれているけれど、少なくとも、人が住むような空間でない事だけは言える。そもそも、出入り口はどこなのか。まだ頭がぼんやりとして視界がはっきりとしているわけではないが、ドアらしき形はどこにも見当たらない。
普通、というか常識的に、自然的な流れで考えると、俺の目が覚めるべき場所は芹沢家の、あの殺風景な居間の筈である。俺はそこでUSBに保存されたファイルを開いたのだし、気持ち悪い思いをしながらも失神したのだから。
誰かが俺、乃至俺のパソコンを移動させた可能性もあるが、それが薫なら芹沢家に数多ある個室のうちの何処かに放り込むに留まることだろう。わざわざこんな趣味の悪い部屋に俺を隔離する意味が見いだせない。
俺は目を擦り、ベッドから這い出た。足元が覚束なかったが、何とか歩を進める。取り敢えず壁まで辿り着くと、壁に触れながら部屋を巡察した。途中で、僅かながら溝のようなものを見つける。俺はそこで立ち止まり、壁から三歩離れた。
遠くからでは完全に風景に溶け込んでしまっていたが、近くで見ると、縦長の長方形に切り取られたような溝がついている。恐らくここが、出入り口なのだろう。しかし、取っ手もノブも付いておらず、ドアの開閉の仕方がさっぱり分からない。
見ているだけでは仕方がないので、その辺りを触ったり、軽く押したりしてみる。
刹那。
唐突にドアが右方向にスライドし、寄りかかっていた俺は前のめりになった。こけそうになる俺を、誰かが受け止める。
「おっと、起きていたんだね。わりと体に負荷がかかっていたから、もう少し眠ったままでいると思っていたんだけど」
テノール調の、爽やかな声。当然、薫のものではない。かと言って、黙静課メンバーのものでもない。
俺の知らない声。
誰かの手を借りながら、俺は体勢を元に戻した。それから顔を上げ、俺を受け止めた人物を確認する。
一番に目に入ってきたのは、その男の服装だった。真っ黒なワイシャツに真っ黒なスーツパンツ、真っ黒な靴、真っ黒な手袋、そして、真っ黒なコートを着込んでいる。
この純白な部屋の中に、まるで墨でも垂らしたような黒は、異質以外の何物でもなかった。
「誰だ、あんた」
服装への驚きが落ち着いた後、俺は低い声でそう問うた。男は目を細め、薄い唇を広げる。
「あぁ、そっかぁ。実質、はじめましてなんだ。でも、君なら少し状況を考えれば、僕の正体が分かるんじゃないのかなぁ」
男は呑気な口調で喋り、ころころと笑った。俺は知らないから「誰だ」と聞いたわけで、質問に質問で返されるいわれはないのである。
そこでふと、男のある言葉が脳内に留まった。
『実質、はじめまして』
それはつまり、会ったことはないが、互いに互いを知っている関係であることを意味している。そして現時点でその条件に見合う人物と言えば、一人しか存在しない。
「……蘇芳佑人?」
男はクスリと笑みを零し、俺の頭を撫でた。
「よくできました。正解です」
俺は顔を顰め、蘇芳佑人の手を振り払った。
彼は、俺の父親の姉――俺の母親、美波に殺された伯母の息子。そして、俺の父親を殺した張本人でもある。
つまり、俺はたった今、親殺しの犯人の目の前にいるという事になるのだ。
手を振り払われた当の佑人は、余裕を含んだ笑みを浮かべて俺を眺めている。
「警戒は、しないんだね」
底知れない瞳を細めて、佑人は言う。俺は無表情になって返す。
「したところで意味はないだろ。親戚同士なんだから」
「親戚同士だからって、気を許す理由にはならないと思うけれど?」
「気は許していない。ただ、警戒する必要がない、というだけだ」
俺の返答を聞いた佑人は、瞼を二、三度上下させた。
「僕に殺されるかもしれない、なんてことは思わないの?」
「それはあんたが俺の父親を殺したことを踏まえて言っているのか?」
佑人は幾分か押し黙った。何かを思いついたのか、唐突に口を開く。
「もしかして、芹沢薫が何か言った?」
そこでなぜ薫が出てくると一瞬言い出しそうになったが、すぐに押し留めた。これ程馬鹿な発言はない。何せ、その通り、俺は薫から妙な話を聞いていたからだ。
「……二人して、俺を争奪している話か?」
佑人の眉が下がる。俺に知られたくなかったのだろうかと推測してみるも、決してそういうわけではないらしかった。
「なんだぁ、知っているんだね。なら話は早い」
満開に咲く花のような笑顔を見せ、佑人は俺に近づいてくる。
「僕はね」
彼は両腕を伸ばし、俺の頬を包み込んでくる。
「この八年間ずっと、佑磨が欲しくて欲しくて堪らなかったんだ」
瞬間、心臓が跳ね上がり、背筋の毛が弥立つような思いがした。咄嗟に佑人の手を押しのけ、彼から距離を取る。そして彼を睨みつけたが、彼の余裕の笑みは崩れなかった。
「あれぇ? 警戒する必要はなかったんじゃないの?」
「そんなもの、時と場合に因るだろうが」
佑人は薄ら笑う。
「ってことは、時と場合が変わっちゃったって事か。でも、それ程警戒されるようなこと、俺は言ったかなぁ」
自覚のない佑人を、俺はさらに睨みつけた。
八年間ずっと、欲しくて欲しくて堪らなかったと言われて、引かない人間などいるのだろうか。ましてや、八年前の俺は立つことも喋ることもできない、赤ん坊だったのだ。そんな未熟すぎる俺を欲しいと思うこの男は、完全に俺の能力なるものを目当てにしているわけではない事になる。ならば、一体何が引き金となってそう思ってしまったのだろうか。
「……何が、目的だ?」
低く呟くと、佑人は怪訝そうに首を捻った。
「何が目的か、と言われても。君が目的だとしか言いようがないんだけど」
鶏と卵の問題のような答えが返ってきて、俺は頭を抱えた。
「だから、俺を手に入れて何がしたいのか、と訊いているんだ」
佑人は納得したように、「あぁ」と声を漏らす。
「あれやこれやしたい。性的に」
俺はほぼ本能的に足を動かしていた。未だに開いている出入り口の方へ、だ。しかし、この真っ白い箱のような部屋からの脱出は叶わなかった。細身にもかかわらずしっかりとした佑人の腕に、呆気なく捕まってしまったからだ。それでも往生際悪くもがいていたが、小学生と大人とでは、あまりにも力の差がありすぎた。
俺は逃げたい気持ちも山々あったが、まだ本調子に戻っていない事もあり、素直に抵抗をやめた。そもそも、この部屋から出たところで此処が何処なのか分からない以上、逃げ切れない事は目に見えている。
俺が溜め息を吐くと、佑人が不思議そうに俺を見遣った。
「どうして逃げようなんて思ったの? 佑磨らしくないね」
「俺らしくないも何も、だ。率直に欲望を聞かされた俺が、自分の身を守ろうとするのは普通のことだろ」
「それは、貞操の危機の事を言ってる?」
「だから、どうしてそうも率直に表現するんだ」
「正直な事は良い事なんじゃないの?」
何が悪いのか分からないと言った風貌で、佑人は答える。
親戚から彼が変わり者であるという悪評は聞いてはいたが、これは変わり者どころの話ではない。わりと本気で、正太郎コンプレックスを患っているらしい。若しくは、同性愛者なのか。どちらにせよ、全くもってその気の無い俺をその道に引きずり込もうとしている事だけは理解できる。
自分で言うのもなんだが、一応俺も、幼気な八歳男児なのだ。母親を殺している時点で普通ではなくなってしまってはいるが、それでも、徹底的に特異な存在になる気はつゆほどにもない。というより、前提としてそもそも、俺にはまだ恋愛感情なるものが理解できていない。
周りは俺の事をませていると評価しているが、実質俺は、並以下の感情しか持ち合わせていないのだ。最近では小学生でも恋愛をするというが、俺は愛情も憎しみも無い故に、そこまで発展してはいかない。寧ろ好奇心が勝りすぎて、子供の枠から抜け出せていないと言っても過言ではないのだ。
ならば、この状況をどうするかと問われれば、警戒する以外にすることはないと答える他ないだろう。
ショタをターゲットにした時点で、それは既に犯罪めいた感情を持っているという事になる。だから、大抵の少年はその誘いに対して警戒するだろう。その点では、俺も正常であると言える。しかし、ここで気を許すか許さないかで、道は大きく別れていく事になる。
此処で勘違いをしてほしくないのは、俺の示す好奇心への重点が何処に置かれているかについてだ。幾ら俺が好奇心旺盛な少年であるからと言って、その感情に赴くまま引きずり込まれていくようなマネはしない。飽くまでも、俺の好奇心が向いている方向は、知への探究である。そこに本能的な欲求が入り込む余地は一切ないのだ。
自分の中ではっきりと結論を出した俺は、なるべく平静を保って、口を開いた。
「正直にも、度合いがあるだろうが。だがまぁ、お陰で、はっきりと断れるが」
しかし、佑人からは一向に反応が返ってこなかった。俺は訝しげに思いつつ、彼を見遣る。彼は何を考えているか分からない目つきで、俺を凝視していた。
「何だ。何か言いたい事でもあるのか」
顔を顰めながら尋ねると、佑人はうーんと唸ってみせた。
「そうだね。一つ言いたい事があると言えば、断りは無用だって事かな」
「……………………は?」
「こっちは八年も思い続けているんだ。今更振られたところで、諦めるような僕じゃないよ」
俺の脳内に、数多のクエスチョンマークが立ち並ぶ。
「ちょ、ちょっと待て。それはつまり、俺の意思は無関係だという事か?」
佑人は優しく笑う。
「大丈夫。僕の事、ちゃんと好きにさせるから」
質問に噛み合わない回答をしながら、佑人は再び俺の方に近づいてくる。
「待て待て待て待て! そういう問題じゃない!」
「じゃあどういう問題なの?」
彼は本気で分からないと言った表情をして問う。
「俺にとって恋愛感情は皆無なんだ。それよりも、薫と仕事をすると端から決めている。だから、あんたと危ない綱渡りをするつもりはないという事だ!」
俺の主張を聞いた佑人は、瞬時に表情を消した。俺は息を呑み、彼の言葉を待つ。
「……ここで、君が他人の名前を出すとは少しも思わなかったなぁ。でも、それだけ君の中には芹沢薫が存在しているってことだね。全く、忌々しいったらありはしないよ」
彼はぶつぶつと呟く。
「でも駄目だよ、佑磨。もう君は僕のものなんだから。他人の名前を口に出すことは禁止」
佑人は胸のあたりで両腕を交差させる。
俺はこの時、話し合いでは埒が明かない事に気が付いた。彼は俺の意思などまるで気にも留めていない。ただ、彼の心の内を支配しているのは、俺を所有したいという欲望だけ。そこには、否定的な感情など少しも存在していないのだろう。俺を手に入れられればそれでよいのだから。
この時になって漸く、俺は本気で脱出の方法を考え始めた。この部屋にはやはり最低限にしか物はなく、物理的なものに頼ることは出来なさそうだった。ならば、何とか彼の注意を惹いて、そのすきに逃げる事くらいしか方法はないようであった。
俺は何か話題でもないだろうかと考えあぐね、ふと、一年前に起きた事件を思い出す。
「……なぁ、あんたは何で、俺の父親を殺したんだ?」
唐突な話題転換に、佑人は鋭く目を細めた。少しあからさまだっただろうかと肝を冷やしたが、それが杞憂であったことはすぐに判明した。
「他人の話をしないでって言ったばかりなのに。……でも、まぁ、いっか。君の肉親の話だしね。僕の動機が気になるというのなら、それはそれで僕の事を知ってもらえるから嬉しいし。うん、いいよ、教えてあげる」
佑人は唇を左右に広げ、優しく俺を見詰めた。
「単に、邪魔だったんだよ。あの人、鈍感なくせして一人だけ気付いていたんだ」
うっとりとした顔をして、彼は囁く。
「僕が佑磨に恋心を抱いているって」




