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香記  作者: 鏡春哉
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Ⅲ 蘇芳家⑮

 薄暗い廊下の奥。ギシ、ギシ、と板の軋む音が響く。廊下の突き当たりにある階段には、ぼんやりと一つの影が落ちている。その影はゆらゆらと揺らめきながら、一段一段、階段を上ってゆく。

 淡い緑のエプロンを付けたまま、蘇芳和音は夕食の乗ったお盆を運んでいた。二階に辿り着くと、静まり返った廊下が視界に入ってくる。そこからまた少し歩き、あるドアの手前で立ち止まった。

 コンコン、と甲高いノック音が響く。

 静寂。ドアの向こう側から、一向に返事が来ることはなかった。

 和音は苦笑し、お盆をドアの前に置いた。

「佑磨君、お夕食持ってきたから、ちゃんと食べてね。食べ終わったら、ドアの前に置いておいてくれたらいいから。……それじゃあ」

 本人に届いているのか否か、和音はまるで独り言のように呟き、ドアを背にした。それからまた、ギシ、ギシと軋んだ音を立てながら、彼女は階下へと降りて行った。

 再び、二階に静寂が訪れる。それまで物置として使われていた筈の部屋の前では、ご飯とみそ汁、そして肉じゃがの乗った盆が、侘びしく湯気を立ち上らせている。

 薄暗い廊下の風景の中で、それは明らかに異色の要素を呈していた。

 幾許かして、年季の入ったドアの蝶番が擦れ合うような、低く長い音が鳴り響いた。夕食が手前に置かれたドアは、相変わらず沈黙を決め込んでいる。ゆっくりと開かれたのは、そのドアではなく向かい側の方のドアだった。

 開かれた隙間から、さらさらの黒いストレートヘアが零れ出る。次いで、ぱっちりとした目が覗いた。その目は廊下に誰もいないことを確認すると、一旦部屋の中に引き戻っていく。それから間もなく、制服姿の少女が姿を現した。

 少女は足早に部屋を飛び出し、床に置かれたお盆を掴んだかと思うと、ものの数秒で部屋の中に戻ってしまった。彼女の部屋のドアが、乱暴に閉められる。

 少女の部屋の中は、蛍光灯の光で煌々と照らされていた。少女はドアに背を預け、今し方運び込んだお盆に目を遣る。

 今日の夕ご飯と、同じメニューだった。

 それは当然の事である。この一食のためだけに、新たに調理をする理由などないのだから。しかし、つい先程これらを食べた少女にとっては、見るだけでも吐き気を催すものだった。

 ここ連日、少女の母親は、誰もいない筈の向かい側の部屋の前に、一食乗った盆を無意味に置いていく。それが何故なのか、今の少女には理解できないでいた。

 あの部屋は、少女の知る限りでは物置である。故に、そこから人が出てくるようなことはない。つまり、食器が空になることもあり得ないのだ。

 彼女の母親が食事を運び始めてから三日は、何もせずただ見ているだけに留まっていた。けれども、食器を取りに来た母親が減らない食事を見るたびに浮かべる表情が、少女の心臓を縛った。

 四日目の朝、少女は学校に行く前に、件の部屋のドアを開けた。すると、物置であった筈の部屋に、ベッドも机も、その他諸々の家具までもが設置され、あたかも人が住めるような部屋へと整備されていたのである。

 見間違いではないかと、少女は目を擦ってもう一度見てみたが、その部屋の風景が変わるようなことは起こらなかった。寧ろ、本当にこれまで、誰かが使っていたような気さえした。しかし、少女の記憶にはそれらしき断片は残されていなかった。

 そんな少女から導き出された結論は。

 母親の妄想。

 ここのところ、蘇芳家では殺人の騒ぎで殺伐としており、そのしわ寄せは少女の家族の方にまでやってきていた。彼女の家庭は比較的穏やかだったのだが、事が事だったために、被らざるを得なかったことは少女も理解している。恐らくそれが原因で、心身が疲労しているのではないか、と。少女はそう考えたのである。それ故に、母親はあらぬ妄想を始めたのではないか、と。

 此処まで考えが至った少女は、あることを密かに決意する。

 箸を手に取り、今晩と同じメニューの夕食を口の中に駆け込んでいく。先刻、控えめに食べた筈なのに、胃が拒絶するように満腹度を示す。それでも我慢して、少女は誰かの分の夕食を完食した。それから部屋を出て、空になった食器が乗った盆を、向かい側のドアの前に置く。そしてすぐに部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。

 過食までには至らないが、胃のはち切れそうな感覚で苦しみを覚える。一体誰のためにこんな事をやっているのだか、と一時は虚しくなるが、母親のためだと思うと、やめられないでいた。

 しかし、ずっと続けていくわけにもいかなかった。それは自分のためでもあったが、母親のためでもあった。もしかすると、既に鬱病になりかけているのかも知れない。そんな考えが、少女の脳裏を過ぎった。

 少女は顔を顰めながら体を起こし、部屋を出る。空になった食器を横目に見つつ、階下へと降りて行った。

 一階の廊下を踏んだ少女の足先は、彼女の父親の部屋へと向かっていた。


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