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香記  作者: 鏡春哉
44/62

Ⅲ 蘇芳家⑬

「どうしたの? そんなに面白い顔をして」

 ここに来て初めて、俺の聴覚は空気の振動をとらえた。アルトとソプラノの中間点くらいの高さで、無駄にはきはきとした声だった。俺は勢いよく後ろを振り返り、その音源を確かめる。

 俺の視界に入ってきたのは、白いワンピースを着た女の姿だった。色素の薄いセミロングの髪。その毛先はゆるくカールされている。目尻の下がった眼をさらにトロンとさせ、唇は柔らかく結ばれている。彼女は僅かに小首を傾げ、俺を優しく見つめていた。

 薫でも土方でも、その他諸々俺の知っている女性では、勿論ない。寧ろ、誰だと問いかけたい程度に、全く知らない人物である。

 俺は警戒心を強め、後方に下がった。女はふふふと笑う。

「人って、本能の壊れた動物だって言うけれど。そうでもないって私は思うのよね」

 尋ねてもいないのに、彼女は勝手に喋り始める。俺がさらに警戒心を強めても、特に気にするまでもなく話を続ける。

「一番分かりやすいのは、呼吸ね。意識してもできなくはないけど、始終意識してるわけにはいかないから。だから、延髄の中の呼吸中枢が自律して制御してる」

 気持ちよさそうに話す女の声は、その見た目とあまり一致していない。声を聞いただけでは気の強そうな攻撃的な見た目を連想するが、実際はその逆なのである。柔らかい印象を受ける彼女から発せられる声は、どこか異次元のものを組み合わせたかのようだった。率直に言えば違和感が満載だという事なのだが、不思議と不快ではなかった。

 女は気ままに話し続ける。

「警戒心だってそう。どうしてそれを警戒しなければならないのか、なんてものは分からないのに、それが自分にとって危険なものだと判断できる。それ故に警戒する。今の君のように」

 女は心底楽しそうに笑う。薫とはまた違う、純粋な大人の笑みだ。俺が硬直して動けないのをいいことに、彼女は音もなく近付いてくる。

 女は俺の両頬を手のひらで包み、俺の瞳の中を覗き込んだ。

「会いたかった、私の佑磨」

 俺は即座に女の手を薙ぎ払った。十分と思われる距離を取り、彼女を睨む。当の女は怯えることも残念がることもなく、ただ笑みを浮かべて佇んでいた。

「うん、まぁ、いきなりこんな事を言えば何処かの痴女と疑われても、文句は言えないんだけれどもね。でも、私だって、事実しか口にしてないんだもの。仕方がないじゃない」

 俺が何かを言う前に、女が弁解をし始める。俺は暫く彼女を睨んだが、一向に表情を変えない姿を見て、息を吐いた。顔を歪めたまま、女の方を向く。

「あんたは家族抗争の中で突然現れた第三者で、実は俺の実母でしたとぶっちゃけるようなシチュエーションを、俺は考慮すればいいのか?」

「わりと具体的な例を挙げてきたね。それなら私は、その家族抗争をさらに悪化させる要因になるわけか。やっぱり佑輝君とヨリを戻したいの、とか言って、再婚した奥さんと泥沼化。そのうち蘇芳家の相続の話も上がってきて、関係のねじれは親子夫婦から親族にまで広がっていく。うーん、物語にしたらちょっとベタな展開かもしれないね。私が亡霊だって設定を加えたら少しはマシになるかしら」

 女は一人勝手に妄想を繰り広げてゆく。楽しそうに、本当に楽しそうに、だ。

 俺はべらべらと喋り通す彼女の話を聞いていて、ふと、素通りしかけた言葉を拾い上げた。

「ちょっと待て」

 女の一人歩きの妄想が止まる。きょとんとした瞳で、俺の方を見遣る。

「何故父親の名前を知っているんだ」

「それはもう、あなたが言い当てているじゃない」

 俺は息を呑み、彼女をまじまじと見た。向こうも黒い瞳で俺をまじまじと見返す。

 どのくらいの時間そうしていたかは分からない。この空間に、時間などというものが存在しているのかという事はさておいて。彼女は嘘をついているようではないらしい。いや、そもそも、彼女に嘘を吐くという概念があるのかどうかさえ怪しいところにある。

 俺は半目になって彼女を見る。

「つまり、あんたが俺の実母である、と?」

「そうそう。佑磨は正真正銘、私と佑輝君の子よ。疑わしいならDNA鑑定でもしてみればいいわ。結果なんてものは見え透いているけれどもね」

 女はあっけらかんと言い放つ。彼女とでは、俺の知っている母親と泥沼化などすることはないだろうなと頭の片隅で思いつつ、口を開く。

「なら、あんたが誰なのかを知っておく必要がある」

「美波ちゃんと血が繋がっていない、という事実は、証拠にはならないの?」

「あんたと血が繋がっている、という証拠にはならないだろうな」

 女は口を尖らせ、「それもそうだねぇ」と呟く。それからすぐに唇を左右に広げ、俺を優しく見据えた。

「私の名前は、草薙靜音(くさなぎしずね)。生前は佑輝君の婚約者だったの」

 ふふふ、と女はまた笑う。俺は眉根を寄せ、「草薙……?」とぽつりと呟いた。

「そう、草薙。親戚に興味のない佑磨でも、さすがにこの苗字には聞き覚えがあったかな?」

 俺の心を見透かすように、彼女は話し掛けてくる。俺はどこを見ることもなく、肯定した。

「あぁ、叔父の妻の旧姓が、確か草薙だった」

 そう言って女、もとい草薙靜音の方を見ると、彼女は満足そうに口角を上げていた。

「うん、実は、佑次君は私の妹と結婚しているの。旧姓、草薙和音。佑磨も最近会ったよね」

 言われて、やけに俺を手厚くもてなしてくる、いとこの両親の事が思い出された。俺は図らずも顔を顰める。

「そんな顔しないでよ。あれでも、私の妹なんだから」

「『あれでも』というのも、大した扱いだと思うが?」

「ふふっ、そうね。でも、決断力があって積極的な子なのよ。だから、私よりも早く旦那を捕まえちゃったの」

 そういう彼女は、苦しそうに笑った。明後日の方向を向き、懐かしみの視線を送る。

「私だって、早く佑輝君と結婚したかったんだけど。和音とはちょっと事情が違ってね」

 草薙は弱々しい表情をして、小さく言葉を零す。

「結婚する前に、死んじゃった」

 俺はただ黙っているだけで、彼女をじっと見つめる。俺の視線に気が付いたのか、草薙は目を細めて見せた。

「それなら死ぬ前に結婚しとけよって話になるけど、事故とかそういう突然死じゃなかったからねぇ。なかなか結婚に踏み切れなかったのよ」

「つまり、あんたは俺を、婚前に産んだというわけか?」

 俺の問いに、草薙は眉を上げた。「違う違う」と首を横に振り、愛おしそうに俺を見る。

「私、佑磨が生まれてくる前に死んじゃってるの」

「は? どういうことだ? 母体の命が持たなかったのか?」

 草薙はふふふと笑みを漏らす。

「そうでもなくって。私は佑磨を生むことなく死んだの。そうね、もう十年も前の事だから、佑磨が生まれてくる二年前に死んだって事ね。これじゃあ、佑磨を生むことなんて、出来ないでしょ」

 出来ないのに、彼女が俺の母親だと主張する理由は何なのか。

 分からないわけではない。ただ少し、実感が湧かないというだけである。それもそのはずである事は、俺が生まれてくる前の出来事なのだから当然ではあるのだが。

 暫く宙を彷徨っていた己の視線を、草薙に向ける。彼女の眼を射抜かんばかりに、凝視する。

「あんたもしかして、子宮癌だったのか?」

 それまで柔らかく俺を見詰めていた草薙の瞳が大きく丸められ、幾度か瞬きをする。

「正解。どうして分かったの? やっぱり、医学方面の知識には詳しいから?」

「数ある可能性のうちの、一つを言ったに過ぎない。当たっているとは思わなかった」

 草薙は破顔し、「佑磨は勘もいいのね」と小さく笑った。

「それにしても、もう少し驚いてくれても良かったんじゃない? 『俺が生まれる前に死ぬなんて、不可能だろ!』ってね」

「俺を、ちょっと頭が良いからといって頑固でひねた性格をした八歳児だと思うなよ?」

 俺は半眼になって、彼女の愚痴に抗議する。彼女の笑い声は止まらない。

「実際にひねているくせに。でも、それだけ知識があるって事ね。お母さん、嬉しい」

 素直に褒められ、どのように反応すればいいのか分からなくなる。

 もし仮に草薙がまだ生きていて、母親として俺を育てていてくれたら。もしかすると俺はこんなにひねた性格にはならなかったのかも知れない。そう思うくらいには、あのモノトーンな過去を明るいものに変換できる何かが彼女にはあった。

 今となってはどうしようもない事を考えた俺は、短く笑みを零した。これではまるで、俺が家族に囲まれた生活に憧れているように見えるではないか。だが彼女を見てみると、それも悪くない気がしてくるのである。俺の父親が選んだ女性なだけあって、なかなか興味深い性格をしている。

 草薙の瞳が、再び優しく細められた。

「私も医者だったのよ。佑輝君は外科医だけど、私の方は小児科医。お互い毎日が忙しくって忙しくって。でも、好きって気持ちは変えられなかった。だって蘇芳家とは家が近くて、佑輝君とは小さい頃から仲が良かったのよ?」

「所謂、幼馴染というやつか」

「そうそう。それで、思春期に突入した私たちは、高校生になって付き合い始めたわけ。そこから私が死ぬまで、その関係は続いてたの。この間に何度も入籍しようとしたのに、その時に限ってどちらか、若しくは二人とも仕事に追われる羽目に遭って。二十代は結婚どころじゃなかったわ。その間に、妹がちゃっかり佑次君と結婚したわけね」

 草薙がころころと笑う。

「正直、此処までお預けをくらうと、関係が希薄になってすれ違っていくんじゃないかって心配してたの。でも、さすが佑輝君。学者肌は伊達じゃなかったわ。執拗にって言ったら失礼かもしれないけれど、辛抱強く入籍できる日を待ってくれていたのよ。私には、やっぱりこの人しかいないんだって、再認識させられた」

「だが、そこであんたの子宮癌が発覚したわけか」

 草薙は笑みを浮かべたが、その目は笑っていなかった。黒い瞳が、ゆらりと煌めく。

「直球に言ってくれたわね。でも、事実だからそう言う他にはない事くらい、自分でも分かってる。でも、結婚くらいさせてくれても良かったのにね。神様も酷な事をする」

「……神がそんな事をしたのか?」

 草薙が目をぱちくりと開いた。次第に顔が歪められ、俯き、お腹を抱えた。何事かと思ったが、彼女の肩が小刻みに上下していたので、何も言わずに留めていた。

「ふふっ、ははははっ、ゆ、佑磨って、神の存在を信じているの?」

 俺は顔を顰め、平坦な口調で「信じる信じないの問題じゃない」と返す。草薙は笑いを止められないようで、暫く痙攣を繰り返した。

 笑いが収まるや否や、草薙は目尻に溜まった涙を拭いて俺の方を向く。

「あーぁあ! お腹が痛い」

「肉体がないのに、痛覚はあるんだな」

「ふふ、これはただの記憶だよ。肉体がなくても、記憶さえあればそうなるの。それよりも、私たちが結婚できなかったのは、神様のせいじゃないわよ」

 草薙は呼吸を整えてから、仕切り直してそう言う。

「神様って、暇そうに見えて暇じゃあないのね。いつだって、世界を動かすのに勤しんでる。そんな方たちが、些細な悪戯に時間なんて割かないわ」

「なら、悪霊にでもやられたというのか」

 彼女はゆっくりと首を横に振った。

「ううん。単に、私たちの間が悪かったってだけ。必然的だったんじゃなくて、偶然的でしかなかったって事よ。だから、『それなら仕方がないね』って、割り切りやすかったわ。まぁ、それは死後の話なんだけれどもね」

 草薙は「これはさておき」と言い、話を元に戻した。

「仕事が忙しかったせいもあって、癌の発見が遅れちゃったわけね。だから、否応なく子宮を摘出せざるを得なかった。そうでもしなければ、私の死は一年くらい早まってた」

「……結局死んでるんじゃないか」

 俺の非難がましい言葉に、草薙は「キッツいわねー、佑磨は」と苦笑いした。

「手術をしたからと言って、必ずしも助かるわけじゃない。摘出はしたけど、その後の体の様態はあんまり芳しくなかったのよ。でね、このまま死んでたまるかーって思って、最後の悪足掻きをすることにしたの」

 今度は、俺は何も口を挟まなかった。草薙は優しく唇を左右に広げる。

「私が佑輝君を愛した証。それを残してやろうって思ったの。でも、自分ではどうしようもない。だって、肝心の子宮がないんだから」

 優しい筈の彼女の瞳が、黒光りしたように感じた。

「なら、代理母に出産をしてもらうほか、方法はないでしょう?」

 たった今、俺の出生の謎に関するピースは全て出そろった。予想こそしてはいたものの、本当にそんな事が起きていたとは。知らぬが仏、なんて諺があるけれど、それでも俺は、俺の好奇心を満たすために、真実を欲していくのだろう。

 俺はニタリと笑みを浮かべていた。

「それが理由で、母親――美波は生みたくもないのに、俺を生んだんだな?」

 草薙は呆れた表情で息を吐いた。

「皮肉な事ね。こんなことになるなら、私も頼んではいなかったわ。あー、でも、死期が迫っていたあの頃の私には、そんな余裕なんてなかったわね。多分、どう転んでも利害の一致する美波ちゃんに頼んでいたでしょうね」

 草薙は遠くを見遣る。この空間に遠くが存在するのかは分からないが、それとは違う、生前の記憶でも思い起こしているのだろう。

「美波ちゃんも、佑輝君の事が好きだったから」

「ストーカー並みにな」

「それは言っちゃあいけない約束だよ」

「誰とも約束はしていない」

「暗黙の了解ってやつよ。うん、でも確かにちょっと怖かったわね。協力してくれた美波ちゃんには悪いけど」

 草薙の唇がへの字に曲がる。

「あぁ、これを言っちゃうと、佑輝君にも迷惑かけたなって言わなきゃならなくなるなぁ。佑磨が私の子だってことは、佑輝君と美波ちゃんと私の、三人だけの秘密だったから。だから、一生口外しないって代わりに、結婚を美波ちゃんに譲ったのよねぇ。だってその方が効率的でしょ? 私はどうせ後先短くて佑磨の面倒は見られないし、美波ちゃんは佑輝君の事が好きだったんだし、一石二鳥だったんだもの」

 彼女は一人でぶつぶつと愚痴をこぼす。

「それに、代理母出産となると、倫理的にも世間体にもあんまりよろしくないわけで。特に佑輝のご両親。あの人たちは厳格な方々だったから、ばれたら即刻勘当されてたよね、佑輝君」

「だから、あんたのやった事は、間違っていない、と?」

 草薙も、ニタリと笑った。

「このくらいの我儘なら、許されるって思ったの。実際、これで良かったって思ってるのよ。その歪みが十年越しに蘇芳家を絶やす原因になったのだとしても」

「罪悪感はないのか?」

「ちょっとだけ、ね。でも、結果オーライじゃない?」

 俺は眉根を寄せ、首を捻った。何か、聞き間違いでもしたのだろうか。

「今、結果オーライと聞こえたんだが」

「うん、結果オーライって言ったわよ」

 草薙は詫びられる様子もなく、そう返す。

「次々と親族内殺人が起こっている中で、何が結果オーライなんだ?」

「佑磨も当事者のくせに、よくそんなに他人事みたいに言えるわね」

「あんまり、人を殺したという実感がないんだ」

「全く、佑磨ったら。私はそんな子に育てた覚えはありませんよ?」

「育てられた覚えもないのだが」

 草薙は額に手をあて、「ああ言えばこう言う。本当、困ったちゃんに育ったわね」と溜息を吐いた。

「あなた、芹沢薫って人に出会ったでしょ」

 唐突に、彼女は話題を転換してきた。俺は訝しがりながらも、「会ったも何も、現在進行形で世話になっている」と返答する。

「あの人、私のところにも来ているのよ」

 真面目くさった顔で言う。話の意図が汲めない俺は、怪訝な顔をしたまま当たり障りのない相槌を打った。

「一年くらい前の事なのだけれど。私その時、天界で書記係をやっていたのね。そこに突然、芹沢さんが来て、『あんたの最愛の夫がもうすぐ殺されそうなんだけど、どうする?』って言ってきたのよ」

 さらりと草薙の死後の生活が暴露されたが、俺は何とか好奇心を抑えて、続きを促した。

「普通、いきなり何って思うじゃない? まぁ、思ったんだけど。それに、生身の人間が天界に来れる筈が無いのに、何か居たのよ」

「何か居たのか」

「そう。何か居たのよ。周りの神様たちも何も言わないし、寧ろ私の方に視線が刺さってきた気がしたのだけれど、あれは気のせいだったのかしら」

 そこについては俺も詳しくは知らないが、どうやら薫は天界でも有名人らしい。

「しょうがないから『そんなわけないでしょ』って反論したら、あの人、下を指さして何て言ったと思う?」

「『見れば分かる』、か?」

「違うわ。『あ、ごめん。今死んじゃった』って言ったのよ! 私、飛びつくようにして下を見たわ! でも、本当に佑輝君が死んだところだったのよ」

 あの薫ならあり得そうな言い方だったからか、俺は同情すればいいのか呆れたらいいのか分からずに、口を閉ざしていた。草薙は悔しそうに服の袖を噛む。

「『もうちょっと早く言いに来ればよかったね』って笑顔で言うものだから、かなり殺意が湧いたわ」

「俺もたまに、薫には殺意が湧く」

 草薙は俺の右手をがっしりと掴んで、「同志ね」と乱暴に上下に振った。浮遊している状態下にあるせいで、俺の体も一緒に上下する。通常ならここらで吐き気を催す筈であったが、何故か具合が悪くなるようなことは起こらなかった。不思議に思いながらも、草薙の大袈裟な握手から逃れ、彼女から少し距離を置く。

「死んじゃったものはもうどうしようもないから、すぐに諦めたの。通常、死後の魂がどこに飛ばされるか分からないから、縁者がその後どうなったかを知るのは難しいの。だからほんの一瞬だったけれど、それも道路に横たわる姿だったけれど、佑輝君が見られたのは幸運な事だったのよ。ほんと、あの人何しに来たの、とは思ったけれど。思ったけれどもね!」

 草薙は顔を紅潮させて叫んだ。

「これでそのまま放置して帰るんならぶん殴ってやろうって思ってたけど、一応芹沢さんにも常識はあったみたいなのよ」

 妹がアクティブなら、姉はアグレッシブなのかと心の中でツッコミつつ、話の続きを聞く。

「『言いに来るのが遅れたお詫びに、一つだけ願いを叶えてあげる』って言われたの」

 まるで神話に出てきそうな発言である。しかし、少し違うとすれば、薫の方に真っ黒な裏があるという事だろうか。俺は黙ってはいたものの、草薙が少し不憫に思われた。

「それで私は、『なら、佑磨の守護霊にさせて』って言ったのよ。半分本気だったけど、半分は芹沢さんへの嫌がらせだったの」

「難しいのか?」

 草薙はすねた表情をした。

「難しいも何も、仕事を割り振っているのは神様たちよ。だから、人間なんかが勝手に変えられるようなものじゃないの。況してや、守護霊なんて尚更。天界にいても、なれる人なんて一握りしかいないのに」

 草薙はなかなか肝の座った女性だと、俺は思う。半ば自棄になっていた可能性もあるが、それでも薫に無理難題を押し付けて試そうとする者は、数少ないのではないだろうか。

「なのに! あの人、やってくれちゃったのよ! 何をどうしたのかは分からないけど、とにかく私を守護霊に格上げしたの」

「薫って、本当に何者なんだろうな」

「胡散臭いわよね。しかも、生者よ」

「悪魔ではないのか?」

「いいえ。ちゃんと人間だわ。私、これでも三年は審判の雑用をしていたから、種族の区別は何となくつけられるのよ」

 そろそろ、草薙が死後にどのような経験をしてきたのか気になり始めていたが、優先事項を優先させるべきなので、ぐっと堪える。

「お陰で、佑磨を守ってやることが出来たわ。それには感謝しなきゃいけないんだけど……、裏があったのよねぇ」

「やっぱり裏があったのか」

 草薙は溜息を吐くだけだった。俺はそれを、肯定の返事と受け取る。

「私に直接関係のある話ではないけれど。あの人、蘇芳家を絶やそうとしているのよ」

 俺は静かに目を伏せた。驚きこそしないものの、念頭には無い話であった。薫に何の利があってそんな事をしているかについて、半ば想像はついたが、大本の理由が分からない。

「だから、結果オーライなのか」

「そうね、だから結果オーライなのよ。代理母出産を決意した当時には、思ってもみなかったことだけれども。ほんのちょっと抱いた罪悪感というのは、芹沢さんの企みを黙認したことにあるわ。身の丈に合わない願いを叶えて貰った手前、妨害するわけにはいかないもの」

 つまり彼女は、まんまと薫に嵌められたというわけなのだ。薫の用意周到さは、恐るべきものである。

「何故、蘇芳家を絶やそうと思ったんだろうな」

 ポツリと疑問を呟くと、草薙は心底嫌そうに顔を顰めた。

「私の知った事じゃないわ。勝手にやらせときなさい」

「じゃあなんで、俺の事は殺そうとしないんだろうな」

 草薙の黒い瞳が、無機質に俺を捉える。

「芹沢さんは、佑磨の事を全力で守れって言っていた。言われなくてもそうするつもりだったけれどもね。……多分、血を絶やすって意味ではないんだと思うわ。付け加えるなら、代々蘇芳家に続いてきた伝統みたいなものを、絶やすって事なんじゃないかしら」

「伝統みたいなもの?」

「えぇ。蘇芳家の当主って、医学界でも絶大な勢力を誇っているでしょ?」

 俺は間髪入れずに首を縦に振る。

「だから、その当主の意向によって排斥されて来たものも多いの。それには医者もいるし、患者もいるし、医療技術とかその方法とかもある」

 俺は此処まで言われて、察しない人間ではなかった。

「……つまり、医学界の革命を起こしている、というわけか?」

 草薙は苦笑するだけで、「さぁ、どうなんでしょうね」と答えをはぐらかした。

「はっきりと言えるのは、芹沢さんのやること為すことは常軌を逸しているけれど、人のことはちゃんと考えているって事くらいね」

「父親は見殺しにされているのだが」

 彼女はふふふっと小さく噴き出した。

「いずれ分かるわ、それも含めて」


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