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香記  作者: 鏡春哉
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Ⅲ 蘇芳家⑫

 思考の遥か遠くで、ぼんやりと、浮遊感を味わっていた。水中で感じるような強い浮遊感ではない。例えるなら、高層ビルの最上階から一階まで、一気に下降するエレベーターに乗った時のような、弱い浮遊感だ。

 意識朧げに、俺は目を開いた。眼球が思うように機能していないのか、視界のピントが合わない。ただ明るいという、明暗の感知をしているだけ。

 此処はどこだろうか、と脳裏にぽつりと言葉が浮かぶ。薫の家の、あの殺風景な居間ではない事は確かだ。俺の視覚は今のところあてにはならないが、他の感覚なるものがそれを指し示していた。

 まずは、しがみ付いていた筈のテーブルがない。パソコンもない。家具もない。と言うか、そもそも床がない。俺は文字通り浮かんでいるわけで、どんなに動いても、足を動かしても、着くべき地面というものを探し当てる事は出来なかった。

 次に、音だ。此処まで静寂しきった空間を、俺は今まで体験した事がない。家の中で静かにしていたとしても、何かしらの音は聞こえていた。外から来る、人の話し声、自動車の通り過ぎる音、鳥なんかの動物の鳴き声。中からは、電化製品のノイズ音であったり、時計の秒針音であったりするものが、必ず空気を振動させて俺の耳まで届いてきていた。

 しかし、此処はどうであるか。無音であるからとはいえ、空気が張り詰めたような緊張感で支配されているわけではない。寧ろ俺が浮遊しているのと同様に、空気もやんわりと浮遊しているのである。

 段々と、視界がはっきりとしてきた。この時、物音すらしなかった理由が、瞬時に理解できた。

 何もないのだ。

 三百六十度見渡しても、どんなに目を凝らして遠くを見ても、物という物がない。影すらない。ただ、一様に明るく照らし出されているだけ。

 何によって?

 俺は首を動かし、上を向いた。するとその反動で、体の向きが九十度変わる。

 再び目の前に広がる、一様な景色。

 今の流れから分かることは、取り敢えず一つだけある。このよく分からない空間には、上も下も、右も左も、前も後ろも存在しないという事だ。感覚としては球体の中に居るようなことを思い浮かべればいいのだが、その球体の際の果て、つまり大きさなるものはとんと見当もつかない。

 閉じ込められているようで、そうではない。俺はただ単に、この空間に存在しているだけなのだ。空間しか無い筈の、明るい空間に。

 俺は浮遊しながら、ゆっくりと首を横に捻った。俺が此処にいるというのは、十中八九薫の仕業である。多少は俺の決断もそこには混じっているが、まず間違いはないだろう。しかし、薫の思惑通りの場所に居るかについては、肯定しかねるのである。

 だいたい、俺が今ここに居るということも、事実であるかどうかさえ怪しいのだ。悪魔化したいとこに半殺しにされた翌日、傷一つない体で起き上がった時に感じたような、虚偽の記憶ではないかという疑いが払拭できない。

 俺は意味もなくくるくると回りながら、思考の海に沈んでいった。

 もし仮に、薫の言うオプションがこの状況であるのだとしたら、何のためにこんな所へ飛ばしたのかが全くもって分からない。事情があるからと薫が勝手に暗号化した、あの灰色のUSBメモリの中身に、一応は関係しているのだろう。しかし、こうも何もない状態では、その中身について知るどころか、帰ることすらままならないではないか。

 俺は一旦溜息を吐き、横になった。と言っても、何処が上で何処が下か分からないような空間で、横になるということは不可能なのだが、気分的にそうしておくことにした。実際、太平洋のど真ん中の海面に浮いているような感覚がしたので、強ち間違ってはいないと思う。

 俺は続いているのか続いていないのか分からない、遠い先の方を眺める。

「何をやっているんだか」

 また溜息を吐き、目を瞑る。瞼で視界を遮れば暗闇がやってくるので、やはりこの空間には光が存在することが分かった。けれども、その光源がどこにあるのか、今の俺には把握できそうもない。

 気分的に横になるのはやめ、気分的に立ち上がることにした。それからもう一度空間内を隈なく見渡してみるも、やはり俺以外のものは一つも存在していない。

 俺は顔を顰め、この空間について考えることを止めた。放棄したと言ってもいい。とにもかくにも、考えても分からないような事は、考えても仕方がないのである。代わりに、いとこの事について考えてみた。冗談を言えないくらいの威力で俺を嬲り続けた少女の方ではなく、一度も会った事のない、佑人の方である。

 俺が「こちら」に来る前の、薫との会話を思い出す。

 佑人という俺のいとこが、俺の父親を殺した。直接的に、ではなく、間接的に、だ。

 オカルトの研究をしていたのだから、悪魔を召喚するなり、魔法を使うなり、そういう類のものはお手の物だったのだろう。それをどのようにして行使したか、魔力は必要だったのか、などなど気になることは数多あるが、この際、方法については目を瞑ることにしよう。

 科学的なもので非科学的なものを知ろうなど、水と油を必死こいて混ぜ合わせるのと同じような事である。そんなことにいつ切れるか分からないエネルギーを消費してしまうよりは、もう少し現実的な事を考えた方が余程いい。

 最初に思い浮かんだのは、佑人が何故、俺の父親を殺したのか、という事だ。人の命を奪うくらいだから、その動機が存在するはずである。もしその動機がなかったならば、俺の父親は理由もなく殺され、無念にもその生涯を閉じたという事になる。

 そういう可能性も無きにしも非ずだが、その可能性を前面に引っ張ってこられるほどの理由がまた、俺の中には無い。もう一度言わせてもらうが、俺は佑人本人を知らないのである。食事を作るのに材料や調理器具が必要なように、考察するにも何かしらの情報は必要になってくるのだ。

 俺の思考は早々に行き詰まってしまった。一度顔を顰めるも、潔く脳内を白紙に戻す。

 今居るこの空間について考えることと同じく、考えても仕方がないという考えに行き着いたからだ。まだ考える時ではない、とも言える。気になるところではあるが、後から薫に訊いてみればいいだけの事でもあるのだ。

 俺は意味もなく空間内を浮遊し、新たに考えることを探した。さほど時間をかけることもなく、次のトピックが脳内に浮かんでくる。

 俺の母親についてだ。

 そもそも、あの灰色のUSBメモリを管理していたのは、母親なのだ。ご丁寧にも金庫らしき箱の中にまで入れて、大切に保管していたもの。理由は父親の私物だから、という事で取り敢えず片付けられそうだが、そうやって問屋を下ろしたくないのが今の状況である。

 中身を馬鹿みたいな難易度で暗号化したのは、薫である。人に断ることもなく、勝手気ままにぶっ飛んだことをする、あの薫である。つまり、俺はその中身を見ることが出来なかったが、母親は見ることが可能だったというわけである。何と言っても、薫があのUSBに手を出したのは、俺の母親が死んだ後になるのだから。

 そこまで考えて、はたと思考を止める。

 薫は何故、暗号化したのか。彼女がどんなに有能なプログラマーであったのだとしても、あんなに難解な暗号化を施すのには時間がかかる筈である。その時間を惜しむこともなく、ただ俺に見せないためだけにそんな労力を使うのか。

 何を考えているか分からない薫の事だから、そうした労力を労力とも思わない節がない事もない。しかし、俺から情報を遮断するためだけなら、そのUSBを取り上げるだけで事足りたのだ。少なくとも、薫にはそれが可能だった。だが彼女は中身を見るだけ見て、暗号化までして、けれども取り上げるようなことはしなかった。

 俺の中に、不穏な考えが浮かび始めていた。背中の方で、冷や汗が伝っていくのを感じる。

 もしや、薫は俺と出会う以前、内輪に見ても、母親が亡くなる前に、既に暗号化を図っていたのではないだろうか。もっと言えば、俺の父親が死んだその直後、或いはその直前に。

 思考も行動も、その存在自体も人間離れした薫なら、出来ない事はないだろう。何のために薫がやったのかという疑問は残るが、それ以外はどこか腑に落ちるところがある。

 母親は、あの灰色のUSBの中身を見ていない。否、見ることが叶わなかった。そうでなければ、彼女が大切に保管などしていた筈が無いものであるから。

 あの中身には、母親のもう一つの地雷原が隠されていた。そう考えるのが自然である。

 そしてその原因が何であるのか。

 それは、今から分かる事なのではないかと、意識の向こうで俺は了解していた。


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