Ⅲ 蘇芳家⑪
「ま、食事のことは冗談として、佑磨も災難だったね」
災難と言うわりには、薫の表情はあまりにもお気楽すぎる。此処でも他人事思考が全開になっているのかと、恨みがましく思う。こういう事は当人にしか分からないという考えも一理あると言うものの、あからさまに距離を取られても、やるせない気分にさせられてしまう。
この反応に関しては、顔を顰めるに留めておいた。薫もそれといった反応を期待していたわけではなかったらしく、自然に話題が流れて行く。
「でも、フルボッコにされただけ、分かったこともあるんじゃない?」
「フルボッコにまでされなくても良かった気がするのは、俺だけか?」
「質問に質問で返すのは、あまり良くないと思うよ?」
「お前が言うな」
薫がクスクスと笑みを零す。
「正直、瀕死状態になるまで傘を使わないとは思わなかったんだよ」
「一応、使ったんだが」
顔を顰めたままそう返すと、薫は「違う違う、そうじゃなくって」と否定した。
「武器として、じゃなくて、召喚の媒体として、だよ」
薫が横目で黒い傘を見ながら言う。俺もつられて、机の縁に立て掛けられた傘を見た。
「やり方が分からないし、そもそもこの傘が媒体になっている事すらも知らなかった。それなのに、使えというのは横暴じゃないか?」
「いやだなぁ。そこはちゃんと考慮して、佑磨の血液に反応するよう、設定しておいたんだよ」
俺は無言で薫を見据えた。睨みつけても良かったが、エネルギーを使う気力が湧いてこなかった。
「……それは、俺が怪我をして血を出すことが前提になるのだが。あんたは俺がフルボッコにされるのを、見す見す放置していたわけか?」
「放置じゃないよ。研究に明け暮れる佑磨君の事だから、時にはそういう経験をしておいても損じゃないだろうって思っただけさ」
薫は大きく目を見開き、詫びられもなくそう言い放った。
彼女のトンデモ発言には、そろそろ慣れつつあった。というか、早くも疲れ始めていた。恐らく、今の時期が山場なのだろう。此処を乗り越えて極限にまで到達してしまえば、現在の黙静課メンバー並みに日常茶飯事として受け入れることが出来るようになる筈だ。
俺は無気力になりかけた感情を何とか最低限に維持し、薫の発言に対処する。
「それで何をさせたかったのかは全くもって意味不明だが。取り敢えず分かった事は、蘇芳家の跡継ぎ問題だな」
「あれ、怒らないんだ?」
「怒って欲しかったのか?」
同じ口調で淡々と返すと、薫は「別にぃ」とさも不満げに言葉を零した。彼女の子供のような態度に対して俺が気遣う必要もないので、その不満とやらには目を伏せさせて貰った。
「後、問題なのは、いとこだな」
俺の回答に機嫌をよくしたのか、薫の不満げな表情が一瞬にして消え去った。後に残ったのは、悪戯っ子のような嫌な笑みだけだ。
「そうだね、それは非常に問題アリだ。此処は僕も正念場でね。一つでも選択を誤れば、佑磨を取られかねないんだ」
「俺を取られかねない?」
「うん、そう。僕は君を黙静課として迎え入れたいのだけれど、向こうも必死になってそれを阻止しようとしているみたいでさ」
薫が何の話をしているのか、いまいちピンとこない。俺は混乱しているなりに、思っている事を口にする。
「向こう側が何をしようが、俺は黙静課に入ると決めたんだ。誰にも邪魔されるつもりはない」
それを聞いた彼女は、虫けらを見るような目をしながら、声を立てて笑った。
「あっはは、佑磨、僕が何の話をしてるか分かってる?」
俺は再び顔を顰め、「概ね」と答える。薫はさらに笑った。
「『概ね』じゃないよね。全然分かってない」
これにはさすがに苛ついたため、俺は思わずソファから立ち上がった。
「何が分かってないんだ。今は蘇芳家の話をしているんだろ!?」
「うん、やっぱり分かってないね」
薫は一貫して見下す態度を崩さない。言葉を失った俺は、やり場のない怒りをどうすればよいか分からなかった。数秒間程悶えた後、大人しくソファに座り、俯く。
「僕は君のいとこの話をしているんだ。あぁ、こっちはちゃんと分かってるよね」
俺は視線だけで薫を見て、「佑人の事だろ」と呟いた。薫は微笑み、首を縦に振る。
「そう、佑人って人の方。……そういえばこの人、僕より年上だよね。いい年して、ほんと何やってるんだろうね」
俺は非難の視線を送ったが、彼女に届くことはなかった。俺の視線を無視して、薫は話を続ける。
「まぁ、要するに、今僕は彼と佑磨の争奪戦をしているんだよ」
薫はにっこりと笑う。俺はどのような反応をするのが適切か考えあぐねたが、その解を捻り出すことは不可能だった。ただ困惑し、それまで固めてきた筈の土台を、粉砕する他出来る事がない。
俺が黙っていると、薫はさらに続けた。
「前にも言ったよね。人間の欲を甘く見ちゃいけないって。佑磨の事だからある程度理解は出来ているとは思うけれど、それでもまだ、ちゃんと把握しきれてはいない」
「何が言いたい」
俺が睨み上げると、薫は柔和な笑みを浮かべた。
「佑磨はこの前、僕の書斎に入ってたよね。なら、あの黒いファイルにも当然目を通している筈だ」
何が当然なのか甚だ疑問だったが、此処は素直に頷いておく。薫がますます口角を上げた。
「つまり、君の父親さんの本当の死因も、既に知っているわけだ」
「……悪魔による電撃で、ショック死したんだろ」
「That`s right! なら、もう分かるよね」
薫は含み笑いをし、俺をまじまじと見つめる。当の俺は、自分の瞳孔が開いていくような感覚を味わっていた。ソファから身を乗り出し、自然と開いた口から言葉を零す。
「俺の父親を殺した首謀者は、佑人だってことか――」
薫は肯定も否定もせず、無言で立ち上がった。テーブル越しに腕を伸ばしてきて、俺の右手を掴む。固く握りしめられていたそれを容易く解き、汗でしっとりとしたそこに、何かを置いた。指を折り曲げるように包み込んだ後、俺の方へと突き返してくる。
俺は何事かと、右の手のひらを開いた。そこに収まっていたのは、俺が何をしても中身が開かなかった灰色のUSBメモリだった。
瞬時に顔を上げると、薫が居間を出て行こうとしているところが目に入った。
「ちょっと待て! お前また、いじっただろ!」
薫はニカッと笑い、片手を振って出て行ってしまった。俺は彼女の後を追うも、時既に遅し。玄関の扉がカチャリと締まり、そこにはもう、誰もいなかった。悪足掻きとして外にも出てみたが、彼女の姿でありそうな人影は、どこにも存在しなかった。
これ以上は探しても無意味な事は分かっていたので、大人しく戻ることにした。玄関に足を踏み入れ、きちんと施錠をした後、居間に向かう。テーブル上に置かれた俺の荷物の中から、愛用のノートパソコンを取り出した。それを起動させ、パスワードを入力する。
画面が出て来るや否や、今し方手渡されたUSBを差し込んだ。数秒でファイルが開き、保存されたデータフォルダーをダブルクリックする。
程なくして現れた画面には、それまで『ロックがかかっています』の一点張りだったものから、一面に満開の金木犀のイラストに変わり、その中央では二頭身で描かれた薫がくねくねと動いていた。その動きには地味に腹立たしい思いをさせられたが、それはさておき。
二頭身の薫の頭の上では、ひっきりなしに吹き出しが浮かんでは消えてを繰り返していた。その中身は毎度変わり、繋げて読むと文章になった。
『お待たせしましたぁ』
『漸く中身をお見せすることが出来るようになりました!』
『それにしても』
『佑磨君、結構頑張ったみたいだね』
『わりと自信作だったんだけど』
『ちょっとばかりダメージを受けてたよ』
『僕ももっと頑張らないといけないな』
此処まで読んで、俺は殺意なるものを抱いた。殺意と言っても本当に彼女を殺したいわけではなく、絶大な怒りを覚えたというだけである。
吹き出しの言葉が、さらに続く。
『さてさて、本題に入りましょう』
『これほど頑張った形跡があるという事は、余程中身が見たかったとみられます』
『しかぁし!』
『中身を見ただけでは、佑磨にはなんのこっちゃ分からないと思ったので』
『優しい優しい薫お姉様が』
『佑磨のために』
『なんと、オプションを用意してみてあげたのです!』
いらない。即座に思い浮かんだ単語だった。しかも、「用意してみて」なんて、完全に気紛れ要素ではないか。俺が弟夫婦の家であくせくしていた時にこんなものを作っていたのだと思うと、溜息しか出てこない。
吹き出しはさらに続く。
『それでは佑磨君』
『最初に、注意事項をしておきます』
『まず、身に着けている金属類は外してください』
反抗しても仕方がないので、指示通りに、左手首に着けていた腕時計を外した。
『次に、頭をできる限り早く回転させてください』
その通りに頭を回すと、すぐに吐き気を催した。
『吐き気はした?』
俺は眉根を寄せ、二、三回、咳をする。
『吐き気がしたなら大丈夫。いつもの佑磨だ』
俺は首を捻り、この言葉の意味を考える。
『あ、今、何でこんなこと訊いたんだろうって考えたでしょ』
俺の目が半眼になる。
『心配しないで』
『今からちょっと負荷の掛かることをするから』
『体調のチェックをしたってだけだよ』
チェックの仕方に対して些か物申したいところだが、当の本人がいないのではどうしようもない。仕方なく、次の言葉を待つ。
『ではでは佑磨君』
『準備は良いかい?』
『Are you ready?』
『准备好了吗?』
『Tu es prêt ?』
『هل أنت مستعد؟』
『Вы готовы?』
『אתה מוכן?』
『Bist du so weit?』
『Είσαι έτοιμος?』
俺は静かに目を閉じた。文字列が変わっても、どうせ意味は変わらない。それより、何が楽しくてこんな事をしたかの方が、断然気になってしまう。
きっかり一分経ってから俺は目を開いた。そこにはもう、うざったく『準備は良いか』と連呼する吹き出しはなく、『下のボタンをクリックしてね』という文で止まっていた。その下にいるミニ薫は、いつの間にやらスケッチブックを手にしていた。そこに『CLICK!』の文字が書かれている。
先程一分間の黙想をしたお陰で、躊躇いの気持ちは湧いてこなかった。問答無用でマウスを動かし、ポインターをスケッチブックの位置に合わせる。
カチカチっと音が鳴るや否や、まるでノイズが発生したかのように画面がバラバラと崩れ落ちていった。同時に自分の体に強力なGがかかる。
頭を回した時に催した吐き気など、比ではなかった。臓器が、筋肉が、骨が、体中のあらゆるものが口の中から出て来そうな感覚に陥る。
立つことは愚か、座ることもままならないとはどういうことか。俺は机にへばり付き、遠くへ行ってしまいそうな意識を何とか保とうと奮起する。
視界が歪曲し、三半規管が機能を停止させる。吐き気を通り越して、脳は酸素を欲求した。
酷い頭痛が続く。最早空間が揺らいでいるのか、自分が揺れているのか、分かったものではない。蟻地獄の巣のように、もがけばもがくほど空間の深みに落ち込んでいく。
やおら、ねっとりとした何かが皮膚に纏わりついてくる。気持ちが悪いのに、俺はそれを振り払えない。
徐々に徐々に、それは俺を覆っていった。
助けを呼ぶことは出来ない。
それは、そこに誰もいないからではない。
それでは、意味が無くなるからだ。
俺がボタンを押すことを選択した、意味が。
何かによって完全に覆い隠された時、俺の意識はブラックアウトした。




