Ⅲ 蘇芳家⑩
芹沢家に戻ってくると、そこは無人の家と化していた。おおよそ、薫は仕事にでも出かけているのだろう。悪魔はと言えば、此処には特に用はないらしく、俺を連れて来るや否や、「じゃあ」と言って、さっさと帰ろうとした。俺はその足を引き留め、家の中に引きずり込む。
「お前は道連れパターンの幽霊か」
「幽霊もこの世に存在するのか?」
率直な俺の疑問を聞き、悪魔はやり場のなくなった手で後頭部を掻いた。さっさと帰ることは諦めたらしい。彼も家に上がり、居間に入る。俺はソファに座ったが、彼は突っ立ったまま口を開いた。
「単刀直入に言うと、居ないけど、在る」
堂々とそう言い放つ悪魔。俺は半眼になって、「どういう意味だよ」と切り返す。
「幽霊はいないが、魂は在る。こういえば分かるか?」
「そう言えば、悪魔の主食は人間の魂だったな」
悪魔は、はははと小さく笑う。
「まぁな。だから魂は存在しててもらわないと困る。でも、幽霊はいない。これは断言できる」
「見た事が無いからか?」
そう問うと、彼はやおら首を横に振った。
「いや、不可能だからだ。幽霊ってのは、死者の魂って事だろ。だがこの現実世界の中で、超常現象枠に入るような魂なんてものが、目で見えるわけが無いんだよ。だから、居ないんだ」
俺は彼の言葉を脳内で咀嚼し、自分なりに解釈を加えてみた。
「……つまり、二次元の世界に三次元のものが存在し得ないのと同値だという事か?」
「……悪い、もう少し噛み砕いて言ってくれないか」
「だから、平面の中に立体が存在することが出来ないように、魂――此処では四次元のものと仮定しておくと、それが三次元で成り立つこの世界の中に存在することは不可能だ、そう言いたいのか、という事だ」
彼は暫く混乱していたようだが、やがて「あぁ、そういう事だ」と肯定した。
「そんなに難しくして理解しなくてもいい気がするんだが……まぁ、分かったならいい。にしても、魂が四次元的なものだって言うのは、強ち間違ってないかもな」
「俺は仮定して言っただけだ」
「んな事は知ってる。そうじゃなくて……。四次元ってのは確か、空間に時間を加えた次元だったよな」
俺は無言で首を縦に振る。その仕草を見た悪魔は、さらに言葉を続けた。
「魂っていうのは、空間だけじゃなくて、時間の中さえも自在に往来できる。そういう意味では、四次元的な存在なのかもしれないって言いたかったんだ」
「なら、四次元的存在を食らうあんたらも、四次元的存在なのか?」
次から次へと、まるで源泉のように湧き出てくる俺の疑問にうんざりとしたのか、それとも単に分からないだけなのか、悪魔は目を伏せ、顔を顰めた。
「詳しくは知らん。そうなのかも知れないし、そうじゃないのかも知れない。知り合いに過去未来に行けるような奴がいるから、もしかすれば四次元的存在なのかもな。ん? でもそうすると、何で俺が此処に存在できるのかって話になるな」
どつぼに嵌ってしまったのか、悪魔は一人でぶつぶつと呟いている。俺は暫くその様子を眺めた後、彼に救いの手を差し伸べてみる。
「ある次元を、一つ下の次元に落として考えることは可能だ」
悪魔は呟きを止め、俺の方を直視する。赤い瞳が、艶めかしく揺れ動く。
「どういう事だ?」
「例えば、ある立方体を紙の上に書いて、それを表現することが可能なように、三次元のものを二次元に落とすことが出来る。それと同じように、四次元のものも三次元に落とすことが出来るんじゃないのか、と言ってるんだ」
俺の説明に、彼は「あぁ」と息を漏らした。小刻みに頷き、「なるほど、なるほど」と呟く。
「つまり、通常四次元的存在である俺たちは、何らかのものを媒体にすることによって、三次元に出現することが出来るってわけか」
「そういう可能性もゼロではない、という程度のものだ。まぁ、現にあんたが此処に存在しているわけだから、この線は濃厚なんだろうが。でもそうなると、魂も幽霊として存在出来るってことになるな」
疑問が巡り巡ってその輪を閉じ、元の起点に戻ってくる。悪魔も小首を傾げ、不思議そうな表情をした。
「それな。じゃあ、何で居ないんだろうな」
「やっぱり見た事が無いだけなんじゃないのか?」
「うーん、此処まで来ると、ちと自信が無くなってくるなぁ」
悪魔はまた、頭を掻いた。
「もしかすると、そうかもしれんなぁ。五百年以上も生きてきて、それで見た事がないって言うのも何だか腑に落ちない気もするが」
「やっぱり、経験論的に言ってたんじゃないか」
「それもあるが、人に見えてないのは事実だぞ? 幽霊ってのは、人に見えてなんぼのものなんだろう?」
彼が尤もな事を言うので、俺も少しばかり考えてみることにした。確かに、俺は今まで幽霊なるものを見た事がない。否、興味すら抱いた事がなかった。ここ最近、啓蒙思想を覆す事象が度重なったせいで、何となく気になったという程度に過ぎない。
取り敢えず考えるとすれば、やはり事実を検証することだろう。もし仮に目の前にいる男が一つ上の次元の存在であるのだとすれば、次元を落とすという説明は理に適っている。だとすると、普遍的に考えれば、彼と同じものにも同様な事が起こり得ることは言うまでもない。しかし、実際には幽霊なるものを見た事がないという。恐らく彼の言う『幽霊』なるものは、三次元側から見る『魂』の事に他ならない。ならば、残る可能性は一つだけ。
「媒体が無いからなんじゃないのか」
思考の渦から戻ってきた俺が、唐突に呟いた言葉だった。目の前で聞いていた悪魔は、瞼を幾度か上下させた。
「いや、無いというのは誤謬だな。あるかもしれないが、少なくともあんたが今まで巡り合えなかったくらいには、その媒体は希少なもの、若しくは特殊なものである可能性がある」
「具体的には?」
彼が俺の考えに食いついて来る。
「そうだな、陰陽師の類とかなら、何かあるんじゃないか。あんたも、誰かと契約をすることで現世に留まる術を得ている。なら、魂も何らかの形で――口寄せの術とかあるよな、そんなのを媒体にすれば、こちらで形を得ることが出来るんじゃないかと俺は考えたわけだ」
「ふむ、一理あるな。確かに、誰かと契約をせねば、俺もこちら側には存在できない。……いや、ちょっと違うな。安定しては、という所だな。別に契約してなくてもこっちに来れるし」
悪魔が一人でぶつぶつと呟く。俺は数秒ほど彼を凝視した後、ふと目を逸らした。再び時計の秒針音が室内にこだまし始める。
此処まで静かになると、互いの呼吸音さえも聞こえてきそうなものである。しかし、俺の耳に届くのは、己の呼吸音のみだった。短く息を吐き、俺は口の端を仄かに上げる。
「そうか、そういうことか」
無意識に俺の口から零れた言葉に、悪魔が反応した。彼は「自分だけ納得すんなよ」と不満の声を漏らす。俺はそんな彼の目を、真っ直ぐに見据えた。
「あんたさっき、『幽霊は見た事がない、でも魂は在る』と言ったな」
悪魔は怪訝そうな顔をするも、素直に首を縦に振る。俺は目を細め、ニタリと笑ってやった。
「つまり、だ。あんたは三次元内で『安定した魂』を見た事がない、これはそう換言出来るという事だ」
彼は端正な顔を歪め、しわの寄った眉間に人差し指を当てる。
「えーっと? お前は『幽霊』なるものを、『媒体によって安定した三次元内の魂』と考えたわけか?」
「あぁ、そうだ。だって、『魂は在る』んだろう?」
自信をもって答えると、彼は目を開き、呆けた顔で俺を見詰めた。それも数秒の事で、彼は表情筋の緊張を解き、声を立てて笑いだす。
「あはははははははは! 確かにそうだ! 『魂は在る』。向こうにも、こちらにも。だが、それは生前の意志を持って形を成す幽霊にまで、魂一つではなり得ないって話だな!」
分かってしまえば何と簡単な事だったのかとでも言うように、彼は笑い続ける。俺は気分よく納得している彼に向って、もう一言だけ付け加える。
「それもあるが、見る側にも原因があると俺は思う」
唐突に笑い声が止み、「と言うと?」と相槌が返ってくる。
「あんたも最初に言ったけど、それこそ三次元のものである人間の視覚が、不安定なものを捉えられる筈が無いんだ。物体も色素も、光粒子がしっかりとそれらにぶつかって反射するなり吸収されるなりして、人の目までやって来たものだけが認知されるからな」
「ふーん、だから見えない、と。……じゃあ、世に言う霊感を持ったやつらの事はどう説明する?」
悪魔は楽しげに、挑発するような口調で問うた。
「それについては、見るための媒体を持っているから、と言えば説明できる」
俺も同じ口調でそう返す。悪魔は薄い唇を左右に広げ、赤い瞳で俺を見据えた。
「……面白い。つまりお前の結論としては、『幽霊は存在する』と言いたいんだな?」
「そういう事になるな。ただ最後に一つ……、魂の状態では意思疎通が出来ないのか、という事が気になったんだが」
目の前のテーブルを見詰めながらぽつりと呟くと、悪魔があっけらかんとその問いに答えた。
「無理だ。魂は脳みそじゃないんだから、媒体無しでそんなことできるわけがないだろ。……そうだな、魂は謂わば、生命の記録みたいなものだ。経験だけじゃなく、思い、感情、その他諸々の、その生命のすべてを記したものなんだ」
「そんなものを食べるなんて、悪魔も大した偏食家だな」
「バッサリ言うな。それなら薫だって、俺ら以上に偏食家だろ」
「誰が偏食家だって?」
一瞬にして、居間の空気が凍り付く。聞き覚えのあるその声は、何か危険な感情を孕んでいるようにも感じられる。俺はゆっくりと顔を上げると、目の前で突っ立っていた悪魔が硬直しているのが見て取れた。その後ろには――。
「かかかかか、薫、帰ってたのか」
彼は極力明るく対応しようと試みたのだろう。しかし、笑みは引きつり、声もワントーン上がってしまっている。額に浮かぶ大量の汗は、彼の内情をはっきりと表している。
声を掛けられた当の薫は、ニコニコと微笑みの表情を浮かべているも、その目は笑っていない。「うん、さっきね」と何気なく返す言葉にも、何処か棘があるようにさえ感じる。
「僕、好き嫌いはしない方なんだけどな。雑食とまで言われるとちょっと嫌だけどね。それにさ、好き好んで食べてるわけじゃないんだよ。必要だからってだけで。誰でも彼でも、生きてるものは皆そうでしょ? そこから、グルメが派生していくんじゃないか」
彼女は無邪気に笑う。
「と言っても、嫌いだ、無理して食べてる、とかそんなわけでもないのがちょっと皮肉なところだな。やっぱり、生命維持において必要なエネルギーってのは、美味しく感じちゃうもんね」
薫はわざとらしく溜息を吐き、「あぁ、やだやだ」と愚痴をこぼす。
「それにしても昨日の奴、大したことなかったね。位が低い奴なの?」
「ま、まぁ、俺に比べれば大分な」
率直な薫の問いに、悪魔は幾分か落ち着いたらしい。少しばかり機嫌を窺いつつ答える。そして、はたと息を呑んだ。瞳孔が瞬時に縮まり、赤い瞳に閃光が走る。
「……まさか、足りなかったって言うんじゃないだろうな」
悪魔は勢いよく薫の方を向いた。彼女は肩を竦め、「まぁね」と本音を隠そうともしない。それに対して、戦慄く悪魔。
どう考えても、俺だけが会話から取り残されているのは明白だ。だから、俺よりも遥かに背が高く、よく分からない力もあり、少なくとも人間を弄ぶことが出来る程度に凌駕している悪魔が、俺の陰に身を隠すという図は些かおかしい気もするのだ。ストレートに言えば、全くもって話に関係がない上に、非力な俺を盾にするというのはお門違いだという話だ。
しかし、それを口に出して言おうと思わなかった。俺の両肩に置かれた彼の手のひらから、震えなるものが伝わってきている事にも気付いていたからだ。気付いてはいたけれど、やはり違和感を拭い去ることは出来ない。
と、いう事は。疑うべくは、薫だという事になる。此処では俺と悪魔の勢力関係ではなく、薫と彼のそれを見なければならない。そうでなければ、悪魔が俺のような小さな人間をあてにするようなことは、決して起きないだろう。いや、少し違う。俺を当てにした、というよりは、何でもいいからとにかく身を隠したかった、と言う方が、この状況を説明するには適切かもしれない。
恒温動物でないだけあって、彼から体温を感じ取ることはなかった。しかし、俺ははっきりと背後に気配を感じつつ、薫にジト目を送った。
「あんたは契約している悪魔にも手を出すのか」
呆れ口調で言うと、薫は心外だとでも言いたそうに目を見開いた。
「まさか。僕は見境なく食い散らかすような不届きものじゃあないよ?」
「嘘つけ! お前あの時、見境なく食ってたろうが!」
俺の後方から抗議の叫び声が響く。しかし、そこから動く気配は微塵も感じられなかった。
彼の言う過去に、どのような事があったかについては、俺の想像を絶してしまう。ただでさえ、俺は薫の正体を知らないのだ。主食がこの世のものでないとなると、彼女が人間であるかどうかさえも、既に怪しいところにある。
それでも、不思議と怖いとは思わなかった。元からその感情が希薄だというのもあるが、それでも、だ。逆に、得体の知れない薫よりも、あのいとこの方に恐怖を感じたことへ疑問を抱かずにはいられない。
一体、何が恐ろしかったのか。一体、何が俺の鈍感な感情の引き金を引いたのか。
「あれは、僕であって、僕じゃなかったんだ。仕方ないよ」
俺の意識の向こうでは、薫と悪魔の口論が未だに続いていた。
「言い逃れすんな! あの地獄絵図みたいな光景、今でも目に焼き付いて離れないんだからな!」
「んー、ごめんごめん。そんなに怖がらせるとはゆめゆめ思ってもみなかったんだ」
「あー、だから、何でお前は暖簾に腕押しみたいな奴なんだ! 他人事にしか聞こえないぞ」
「実際そうだもん。今の僕と、箍の外れた僕は、同一人物じゃない。一緒にしないで」
「同一人物だろうが!」
叫びすぎて声がガラガラになった悪魔は、俺の後ろで荒い息を立てる。薫は目を細め、クスクスと笑いながら彼の姿を眺めていた。
「理性と本能は、分けて考えるべきだ。僕は今、こうして空腹なわけだけど……、昨日食したお陰で、それに拍車がかかってしまっているわけだけど。それでも僕は、こうして我慢が出来るんだ。僕には(・・・)、ね?」
悪魔は俺の後ろにいるから、彼の表情を見ることは出来ない。しかし、会話が途切れ、重たい空気が到来している事から、彼は薫を睨みつけているのではないかと考えられた。
無駄に臓器に負荷がかかる沈黙が続く。それを破ったのは、地の奥底から這い出てくるかのような、低くくぐもった悪魔の声だった。
「お前の中には、お前しか存在せんだろ」
「そうだね。確かに僕は多重人格者ではない。でもね、人格は一つでも、性格が一つとは限らないんだよ。凶暴な子に優しい一面があるように。反対に、柔和な子に凶悪な一面があるように」
教え、諭す口調で、薫はそう語る。柔らかな色を持った漆黒の瞳が、ころりと俺の方へと方向を変えた。彼女の唇がニタリと広げられる。
「ま、人間の内面が複雑すぎるってだけさ。どんなことでどのような化学反応が起こるのか、分かったものじゃないしね」
俺は顔を顰めた。今朝がたにも、似たような言葉を聞いた気がしたからだ。
薫は笑みを浮かべたまま、居間を出て行った。ドアの閉まる音がするや否や、悪魔が俺の背後から離れる。新しい空気が俺の背中を撫で、じんわりと浮かんでいた汗を乾かした。
悪魔の方を見てみると、彼はバツが悪そうに後頭部を掻いていた。よっぽど薫が怖いのだろうなと頭の片隅で思った後、何気なく問いかけてみる。
「何でそんなに、薫が怖いんだ?」
唐突な問いに、悪魔は一瞬だけ体を硬直させる。すぐに俺を睨みつけ、歯を食いしばった。
「実直に訊くな」
「いや、俺は別に怖くないから、どうしてか分からなくて」
相変わらず顔を顰めているが、俺を睨みつけることはやめたらしい。短く息を吐き、赤い瞳でどこか遠くの方を眺める。
「そりゃ、お前が見た事がないからだろ」
「薫が悪魔を食い荒らす姿を?」
彼は口をへの字に曲げ、悶々とした顔をする。
「……それが正しい表現なのかは分からん。だが、少なくとも俺には、そう見えた」
「じゃあなんで、薫と契約なんかしたんだ? 食われないためか?」
痛いところを突かれたようで、彼はさらに眉根を寄せた。
「それは言わない約束だろ」
「そう言えばそうだったな」
俺はソファに深く腰掛けた。詮索を止めたにもかかわらず、悪魔は不機嫌そうに何やら呟いている。そんな彼を見ていても仕方がないので、俺はぼんやりと天井を見上げた。俺の歓迎会の折に、色とりどりの風船が埋め尽くされていた事を思い出す。同時に、若槻という人物に睡眠薬を盛られた記憶も蘇ってくる。
気分的に吐き気を催したので、天井を見るのをやめ、ドアの方に視線を遣った。薫は何も言わずに出て行ったが、何をしに行ったのだろうかという疑問がぽつりと浮かび上がってくる。
その時、静かに空間を隔てていたドアが開かれた。その向こう側から、俺のリュックと件の黒い傘を持った薫が現れる。俺は咄嗟にソファの背もたれから離れ、前のめりになって彼女が来るのを待った。目の前のテーブルに荷物が置かれ、傘はその縁に立て掛けられる。
俺は暫く自分の荷物を眺めた後、薫の方を向いた。彼女は特に何も考えていないのか、無表情のまま向かい側のソファに座る。
「なんだ、薫が持って帰ってきてたのか」
俺は呆けた顔で、そう呟く。薫の視線が俺をとらえ、彼女の眉が上がる。
「ん? そうだよ。なに、荷物の心配をして、ボティスを引き留めてたの?」
「は? そんな理由で俺は引き止められてたのか?」
調子を取り戻したらしい悪魔が、会話に割って入ってくる。
「いや、まぁ、そうなんだが。……あの部屋から傘も荷物もなくなってたものだから、それは気になるだろう。特に、パソコンは必需品だし」
俺の返答に、悪魔は深い溜息を吐いた。額に手を当て、「なら最初からそれを言えよ」とぼやいた後、さらに溜息を吐く。エンドレスで続きそうだったので、俺は仕方なく口をはさんだ。
「それより、薫があんたの名前をぶっちゃけた事は良いのか?」
悪魔の動きが停止する。ゆっくりと顔を上げ、彼は俺の方を見遣る。その目は大きく見開かれ、何とも情けない表情になっていた。
「え、っと、薫がいいなら、別にいいかな、って……」
混乱でもしているのか、完全にキャラ崩壊してしまっている。俺は見兼ねて、薫の方に視線を変えた。彼女は彼女で、特に問題視しているようでもなかった。
「一々僕に確認を取らなくってもいいんだよ? 名前くらい、普通に教えてあげればよかったんじゃないの? どうせ、佑磨は悪魔についてそう詳しくないだろうし」
「詳しくなくて悪かったな」
半眼でそう言うと、薫はきょとんとした顔をした。
「別に、皮肉ってるわけじゃないよ。それが普通なんだから。でも、佑磨が悪魔学に博識だったら、それはそれで笑えるよね」
薫はわざとらしく、はっはっはと声を立てて笑う。俺は眉根を寄せる他に、反応する術がなかった。
「あ、そうだ、ボティス。さっき稀が悪魔どもにリンチされてたから、ちょっと助けてやってくれない?」
思い出したように、薫がさらりと大変な事態を明かす。ボティスとかいう悪魔も、彼女の発言によく振り回されているのか、一つ溜息を吐いただけで家を出て行った。満足そうに彼の後ろ姿を見送った薫が、暫くして俺の方に意識を向けてくる。
「さて、親戚の家での生活はどうだったかね、佑磨君」
ニヤニヤと、意味深に訊いてくる。俺はどうせ分かっているだろうにと思いながらも、律儀に答えてやった。
「最悪だった」
「でっしょー? 食事が出来たもんじゃなかったでしょ」
俺は思わず素っ頓狂な顔をしてしまった。返ってきた言葉が、俺の予想の遥か斜め上に向かっていたからだ。
「それはっ、そうだったけど」
「ほらほらぁ。僕の料理で舌が肥えちゃったんでしょ。隠さなくってもいいんだよ。他のものが食べられないのは、当たり前なんだから」
楽しげにぶちまける様子を見て、俺は嫌な予感しかしなかった。その予感なるものの正体をはっきりと認識していたけれど、俺はそれを無理矢理水面下に押し沈めた。
肯定してしまうと、顔が青ざめてしまいそうだったからだ。
全く、薫といると碌な事がない。




