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香記  作者: 鏡春哉
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Ⅲ 蘇芳家⑨

 目を開いた時、そこには見慣れた天井があった。詳しく言えば、ここ最近毎朝のように、眠りから覚めては、一番に視界に入ってきていた天井だ。

 ゆっくりと首を回し、窓の外を見た。カーテンが開いたままになっていたために、外が明るくなっている事が容易に見て取れた。太陽の位置からして、今の時間は秋の早朝と言ったところだろうか。

 再度首を回し、天井を見遣った。暫く無機質なそれを眺めた後、徐に体を起こす。

 俺は目を瞬き、首を捻る。体のあちこちを触ってみるも、何処にも痛みなるものが存在しない。袖をまくったり裾をめくったりして直接肌を確かめてみたが、やはり痣のようなものは見受けられなかった。

 俺はもう一度首を捻り、今度は室内を見渡した。俺が投げ飛ばされた副作用として、机やら椅子やら、取り敢えず家具という家具が倒壊し、室内は殺伐としていた筈なのに、綺麗すっかり元通りになってしまっている。

 そこで思うのは、俺の記憶が間違っているのではないか、という事である。若しくは、俺が今見ているものの方が、虚構であるか、だ。

 もしや俺は、夢を見ていたのではないか、と疑わずにはいられなかった。それ程、何事もなかったかのようにあくる日の朝が到来しているのである。一つ気になるのは、俺がいつの間にベッドで寝ていたのかという事である。寝ぼけていたのではと考えたくもなったが、そもそも寝ぼけるまで夜更かしする質ではない。したとしても、研究に明け暮れて睡眠という行為自体を忘れているか、そのどちらかだ。

 俺は狐に包まれたような思いをしながら、ベッドから這い出た。そこで、漸く異変に気付くのである。

 ベッドの背後にある机の隣に、見知らぬ男が立っていたのである。彼は壁に背を預け、腕を組んで目を閉じていた。真っ黒なワイシャツとスーツのズボンからなる彼の姿は、明るい時間帯だと嫌に目立つ格好である。肌はまるで血が通っていないかのように真っ白で、見ているこちらが緊張してしまいそうになるくらいに、整った顔立ちをしていた。また、硬そうな質の黒髪から、二つの尖った耳が見え隠れしていた。俺は半眼になって、彼の姿を直視する。

 不意に、男の目が開いた。細く切れ長の眼には、赤い瞳が収まっている。俺は息を呑み、瞳孔を広げた。ぎろり、と、赤い瞳が揺れ動く。

「何だ、もう目が覚めたのか」

 今まで聞いてきた声の中では、李深蓝とよく似た声をしていた。彼より声は低かったが、透き通った声が驚くほど酷似している。

 俺が黙っていたままだったからか、彼は不機嫌そうに溜息を吐いた。

「お前、何も訊いてこないんだな」

 つまり聞いてほしいのか、とどうでもいい事を考えつつ、俺は再度男を直視した。

「あんた誰だ」

「……うん、まぁ、そうなるか。だがその質問は今のところナシだ。他にもっとあるだろ」

 注文が多いなと、とある名作の事を思い出しながら考える。彼の言わんとすることが何であるのか、分からないわけではなかった。ただ、あからさまな誘導の仕方に、下手だという感想を抱かざるを得なかったというだけである。

「此処で何かがあった、というのは、事実だよな?」

 仕方がないので、素直に尋ねる。しかし、男はそれでも不満そうに顔を歪めた。

「確認から始めなくても、質問すれば俺はちゃんと答えるぞ?」

「なら訊かせて貰うが、俺の体乃至部屋が元通りになっているのは何故だ?」

「お前、そこから訊くのか。まぁいい。答えると言った手前、ちゃんと答えることにしよう」

 男は一つ咳払いをした後、赤い瞳で俺を見据えた。少し面倒くさそうに、口を開く。

「いろいろ終わった後、薫が来て、お前を治療した後、部屋なりなんなりを片付けたんだ。俺も手伝わされた。比重としては一対九だな。……あいつは鬼だ、くそ」

 その時の事を思い出したのか、男は忌々しそうに悪態をつく。俺は彼の不満を完全に無視して質問を続けた。

「つまりその前の『いろいろ』に、薫は関わっていない、と?」

「だからなんで、そうやって一歩一歩確認しながら進むんだ。そうだよ。お前のピンチを助けに来たのは、この俺だ」

 なんだかんだ言いながらも、男は律儀に答えてくる。何となく面白かったので、暫く同じ調子で続けた。

「下の二人には気付かれてないのか?」

 男は顔を顰めたが、観念したように短く息を吐いた。

「……結界が張ってあったから、気付いてないだろうな」

「結界?」

「あぁ、魔力による結界だったから、おおよそ人間の仕業じゃないな。まぁ、実際に人間じゃあなかったが」

「笑っていいか?」

「俺はお前の命の恩人だぞ?」

 沈黙。どうやら、目の前の男には冗談というものが通じないらしい。今のところ俺に危害を加える気はないようだが、得体が知れない事には変わりない。俺は少々内省した後、やりすぎには気を付けておこうと心に決めた。

「なら、俺を襲ってきたのは、いとこの姿をした別物だった、と?」

 話題を切り替えたからか、男の表情が少しだけ元に戻った。

「いや、あの寧音とかいうお前のいとこだった事には違いない。ただ、悪魔と契約してたってだけだ。……っつーかお前、名前くらい覚えてやれよ」

「興味なかったからな……」

「ひでー奴だな。それだから恨まれんじゃねーの?」

「恨まれる……?」

 瞼を何度か上下しながら、俺は真っ直ぐに男を見た。俺の様子を見た男は、心外そうに目を見開く。

「え、お前何で襲われたのか分かってなかったのか?」

「名前を覚えないくらいで、恨まれるのか?」

「あほか、んなわけねーだろ」

 出来の悪い教え子を持つかのような状況に耐えられなかったのか、男は自分の髪を豪快に掻き回した。

「恨まれたから襲われたんだろ」

「それは説明になっていないと思うのだが?」

 間髪入れずに指摘され、男はさらに頭を掻き回す。

「知るか! 何で恨まれたかなんて、自分で考えろよ! 心当たりくらいあるだろ!」

 言われて、俺は斜め上を向いて考え込んだ。カッチコッチ、カッチコッチと、時計の秒針音が部屋中に鳴り響く。押し黙ったまま何も喋らない俺を見兼ねたのか、男は「もういい!」と自棄になって叫んだ。

「此処まであほだと、いっそ、向こうに同情心が湧いてくるわ! 全く、浮かばれないにも程があるだろ」

 馬鹿馬鹿しそうに溜息を吐く男の前で、俺は怪訝に顔を歪める。

「でも、それは仕方のない事だ。心当たりなんてものは、本当にありはしないからな。忘れているとか、気に留めていなかったとか、そういうものでは一切ない」

「言い訳は無用! どんな些細な事でも、恨み妬みの種になるんだよ!」

「なら、それこそ俺の知った事じゃあないな。勝手に恨み妬まれたのに、俺のどこに非があるって言うんだ」

「お前、本当に何なの!? 今までよく生き長らえてこれたな! お前に対して、殺意しか湧かねーわ!」

 男は感情を隠そうともせず、ストレートにぶつけてくる。俺は思わす、破顔してしまった。

「誰も彼も一緒くたに同じ対応をしてきたわけじゃないからな」

「なんだ、猫っ被りだったのか」

「機転が利くんだよ」

「うっわ、ウザいわー。お前の正体って、ガキの皮被ったひねくれ男なんじゃねーの?」

「前にも誰かに同じような事を言われた気がする」

 笑う俺に対して、男は呆れてものも言えないようだった。それが俺のツボにはまったのか、笑いに拍車がかかる。

 数分ほどして俺の笑いが収まると、男が待ちくたびれたように口を開いた。

「よくそんなに息が続くな。いつか過呼吸で死ぬんじゃないのか」

「そういう死に方も面白そうだな」

「えっ!? 死に方に面白さ求めてんの!? つくづく変わったやつだなー」

「薫が目を付けたくらいなんだ。それくらいには俺も変人なんだろう」

「……お、おう、何か割り切って悟りを開いたっぽいな」

 男が一々面白い反応をするので、俺は小さく笑みを零した。それからすぐに表情を引き締めて、素っ気なく話を元に戻す。

「それで、俺は悪魔と契約したらしいそのいとこに襲われて、一応瀕死の状態になった、と」

 話が元に戻ったことに気が付いたのか、男は眉根を寄せながらも言葉を返す。

「自分で『一応』って言って、虚しくならないのか? いやまぁ、『一応』瀕死ではあったんだがな。……お前の様態、ひっどかったぞ。全身打撲だらけだし、内出血も甚だしいし、肋骨は五本も折れててな。その他いろんなところにひびが入ってたり、臓器もいくつか破壊されたりしていたぞ。よく生き返ったなって、正直驚いてる」

 俺はぽかんと口を開けたまま、男の説明を聞いていた。長らく時間が経ち、口腔が乾燥してきた頃、俺は我を取り戻す。

「待て、生き返ったなって、俺は死んだのか?」

「……あぁ、言い方が悪かったな。死んではいない。お前が言った通り、瀕死だったって言うのが正しい。それにしても、そこまで綺麗に治るもんなんだな」

「いやいやいや」

 俺はさも当然のように語る男に、ストップをかける。

「普通此処まで綺麗に治らないだろ。生きているのも奇跡なくらいなのに。それに、たとえ治ったとしても、骨折を含めれば少なくとも全治三か月以上にはなる大怪我だろうが」

 そこまで言って、俺ははたと気付く。

「……まさか、俺の意識が飛んでから、それくらいの月日が経ったって言うのか?」

 俺は瞬時に窓の方へ視線を送り、外の様子を確かめる。三か月も経っていたとすれば、もう季節は春の初めごろになっている筈である。しかし、近くに季節が分かる植物でも植えられていない限り、春と秋の区別はつけがたい。残念ながらこの窓から見える木々は、常緑樹ばかりであった。

 外から判断するのを早々に諦め、俺は男の方を見遣った。彼は気まずそうに後頭部を掻いている。

「一人で突っ走ってるところ悪いけど、一晩しか明けてないぞ? って言うか、薫がそんな非効率な事をするわけがないだろ」

「は? じゃあ、どうやって治したって言うんだ。魔法でも使ったのか?」

 俺の疑問は、尤もなものだったと思う。一晩で瀕死状態から通常の状態にまで完治できるほど、人間の体は良く出来ていない。男は苦虫を噛み潰したような顔をして、あーでもないこうでもないと、ぶつぶつと呟いた。

「そうだなぁ。とにかく、薫がちゃっちゃと治した、としか言いようがないなぁ。取り敢えず、魔法ではないな。あいつにそれが使えるかどうかは知らんが、回復魔法を使っているようには見えなかったからな」

「でも見てたんだろ」

 俺が食い下がって言うと、男はさらに困った表情を見せた。

「見てたって言っても、俺、部屋の片づけさせられてたし。治療の様子は薫の体で死角になってたし。単に、魔法は使ってないなって、感覚で分かっただけだからさぁ」

「……使えないな」

「そういうのは相手を選んでから言えよ?」

「勿論、そうしている」

 飄々と返すと、男は疲れたように溜息を吐いた。

 会話が途切れたので、俺は窓を開けることにした。清々しい朝の空気で、室内の空気を一新させてみるのも良いかと、ちらりと思ってみたからだ。本音としては、やることが無くなって暇になったから、何かをしようと思い立っただけであるのだが。

 施錠を外し、窓ガラスの縁に手をかけて勢いよく開く。

「うえぇ」

 思わずそう呟いてしまうくらいには、視界に映ったものが予想を遥か斜め上を貫いていた。

 通常、透明な窓ガラスの向こう側に景色があれば、窓を開けても変わらぬ景色があるものである。しかし、現状はどうであるか。

 開いた窓の先には、何と暗闇が広がっているではありませんか。

「うえぇ、とは何だ、うえぇとは。言っただろうが。結界が張ってあるって」

「あんた、『張ってあった』って言っただろ。まさかそれが現在進行形だなんて、誰が思うか」

 最早突っ込む気力も失せてくる。その大部分の原因は、実際に結界なるものを見てしまった事であろう。百聞は一見に如かずという言葉は、此処まで来るといっそ呪って消してしまいたいくらいの効力を持っている。

 俺は大人しく窓を閉め、施錠した。先程の底知れぬ闇から、至って普通の景色が戻ってくる。

「そもそも、結界が張ってある状態で、薫はどうやって入って、出て行ったんだ?」

「俺については言及しないのか?」

 俺はベッドに座り込み、半眼になって男を見た。

「あんたは傘のプレートから出てきただろ」

「違うわ。そのプレートを縫い付けるための黒い糸にたっぷりと染み込ませた、薫の血液から出てきたんだよ」

「それ、自分で言ってて気持ち悪いとは思わないのか?」

「仕方ないだろ。薫とは血の契約を交わしてるんだ。だから媒体が薫の血液になるのは、必須事項なんだよ」

 真面目に返されて、俺は妙な気持にさせられた。あの時薫がプレートを裏返して再び縫い付けたのは、これが理由だったのかと思い知らされる。同時に、彼女の血がたっぷりと染み込まされたものを持ち歩かされていたと思うと、些かやるせない気分になった。

「いとこが言った通り、護身用だったってわけか。……そう言えばあの傘はどこに行ったんだ?」

 素直に疑問を呟くと、男も素直に返答した。

「薫が持って行ったぞ。血まみれになったから洗うって」

「部屋も血まみれだった筈だが?」

「それは俺の魔法でちゃちゃっと綺麗にした」

 俺は眉根を寄せる。

「なら、血まみれになった傘も、魔法で即座に綺麗にすれば済んだんじゃないのか?」

「そうなんだよな。俺もそう思った。でも薫が触るなって豪語するもんだから、俺にはどうしようもなかったんだよ」

「悪魔の方が弱い立場って、あんた薫と一体どんな契約を交わしたんだ」

 俺の訝し気な問いに、はははと声を立てて彼は笑う。

「順応性が高いな、お前。隠そうとしていたわけじゃないが、さらりと言われるのも何だか気落ちするな。お堅そうに見えたから、俺が悪魔だって言ったとしても信じないと思ってたのに」

「だから名乗らなかったのか?」

「うん、まぁ、それも一つの理由だな。他にもいろいろあるから、名乗りはしないが」

 悪魔であるらしい男は、ニタリと笑みを浮かべた。

「どんな契約でも、立場が弱いのは懇願した方だってのは、相場が決まってるだろ」

「つまり、あんたの方から薫との契約を望んだ、と」

「ま、簡単に言えばそういう事だ。だが、詳しく言うつもりはないぞ? これは飽くまでも、俺と薫の話だからな」

 例外なく聞き出そうとしていた俺は、顔を顰めた。人の嫌がることを進んで行うような性格ではないから、不服ながらもそれ以上の詮索はしなかった。落ち込んだ気分を回復させるためにも、俺は再び話題を転換した。

「それで、肝心のいとこはどこに消えたんだ?」

 俺は室内を見渡し、彼女の姿が無い事を確認してから問うた。悪魔は何でもない事のように返答する。

「学校に行った」

「は?」

「だから、学校に行った」

「は?」

「何回も聞くな、あほ。お前のいとこは学校に行ったんだよ」

 これを訊き返さずに、どうしろというのか。漸く状況を整理出来たというのに。整頓された脳内が無残にも掻き乱され、混乱の極みに陥る。

「昨日の今日で、呑気に学校に行ったというのか?」

「昨日の今日で、呑気に学校に行ったんだよ。一つ違うのは、記憶が無いってところだな」

 俺は一瞬だけ視線を泳がし、すぐに男の方へ引き戻す。

「あんたがやったのか?」

「……瀕死状態のお前から引き剥がして、静かにさせるところまでは。後は、全部薫」

「あいつ、何者なんだ?」

「さぁ、俺も詳しくは知らない。主食が悪魔って事だけしか。俺の命にもかかわるしな」

 男の口から出てくる言葉は、今までの薫像を悉く粉砕していくものだった。元から得体の知れない人物ではあったが、此処まで意味不明だとは、誰が思うだろうか。

「だが安心しろ。人間には至って優しい奴だから。今回も、体を乗っ取ろうとしていた悪魔を引っぺがして食って、人間の方に残ったダメージを回復させてたもんな」

「だから、いとこは何もかも忘れて、いつも通り学校に行った、という事なのか?」

「全くもってその通り。何処まで忘却したかは分からんが、多分、お前の存在も忘れてるだろ」

 あまりにも呆気ない結末に、三流の推理小説でも読んでいるような気分にさせられた。煮え切らない思いがもやもやと残ってしまったが、いとこに俺の事を思い出してもらう必要性は皆無だ。これは逆に、幸運だったと思う方が、妥当なのかもしれない。

 しかし、それと引き換えのようにして薫への不安が残ってしまうのである。

「なぁ、俺の選択は間違ってないよな?」

「知るか。俺に聞くな」

 俺の目の前にいる悪魔とやらは、意見がはっきりとしているために、話していて清々しい気持ちになれる。俺は小さく噴き出し、「それもそうだな」と呟いた。

「決めるのは、全部自分なんだ」

「そんなの当たり前だろ。……それより早く出ないか? いつまでもこの閉鎖空間に居たって、仕方ないだろ」

 悪魔が急にそわそわとし始める。俺に言ったところでどうにかできるものではない事を、彼は分かっているのだろうか。俺は考えるのが馬鹿らしくなって、もう一度噴出した。俺が笑った事で機嫌を損ねたらしい悪魔が、顔を顰める。

「そんな態度を続けるんなら、置いて行くぞ」

「そんな事をすれば、あんたは薫に絞め殺されるだろうな」

 言い返す言葉が見つからないのか、悪魔は「うるさい」とだけ吐き捨てるように言い、俺の腕を掴んだ。彼は人に対する加減というものを知っているようで、強引ではあれど、痛みまで感じることはなかった。

 悪魔が容易く結界を破った後、俺たちはこの家を後にした。


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