Ⅲ 蘇芳家⑦
並べられた食事は四人分。埋まった椅子は、俺の分を合わせて三人分。向かい側の席は叔父と叔母が占領していたから、残る空席は俺の隣のみ。
俺が来てから一度も姿を見せていない折、いとこは外出中なのだと思っていた。今日は平日でもあるから、学校なり部活なりで、帰りが遅くなっている可能性もある。
ならば何故、四人分の皿が並べられているのか。彼女より先に食事を始めるのもどうかとは思うけれど、居ない人物の分まで食卓に並べておくのは尚更おかしい。まるで、彼女が家の中に居るとでも言っているようなものではないか。
俺ははたと、目の前に座る二人の事を見た。彼らは相変わらず柔和な表情をしていたが、一向に食事に手を付けようとしない。ただじっと、同じ顔をして座っているにとどまっている。
かく言う俺も、まだ箸を取っていない。と言うのも、無言で座る二人が、誰かを待っているように思えたからである。その誰かというのは言うまでもないだろう。
俺が椅子に座ってから、きっかり十分が経過した。静かに扉の開く音がしたかと思うと、真っ黒で艶のある、ストレートヘアの少女が、不機嫌な表情をして姿を現した。紺のブレザーにカッターシャツ、それから柄のついたひだスカートと、胸元にはリボンといった、所謂制服と言うやつを身に着けている。この姿を見た限りでは、俺が考えた通りに、彼女は学校から帰ってきたところなのだろう。
彼女は不機嫌な表情をしたまま、俺の隣の席に座った。久しぶりの対面にもかかわらず俺に挨拶もなく、あろうことか視線すら交わそうとせずに、ただ煩わしそうにして座っている。四人が揃った後でも、ダイニングの空気はまるで凍り付いたかのように微動だにしなかった。
俺はそこで、彼女が俺の事をよく思っていないのだろうな、と悟った。差し詰め、俺を引き取るという話が上がった時、彼女は反発したに違いない。だがその反発心も敵わず、俺がやってくるに至った。それは確かに、面白くない話である。
何故彼女が反発したかについては、俺の事を嫌っているからに他ならない。それが何故か、と問われると本人に聞かなければ分からないし、もしかすると本人でさえもはっきりとは分かっていないかもしれないが、とにかく俺がとやかく言えるような事ではない。意味も分からず嫌われている俺からしてみれば、取り敢えず毛嫌いしているのだな、くらいにしか把握できないのである。
およその想像を付けることは出来るが、それは想像の範囲内から出てくることはないのだから、此処でそれを連ねることはしない。叔父も叔母もそれには触れたくないようで、先程の柔和な表情の中に少しばかり困惑を見せたところで、叔母が夕食を始めるよう、促した。
みんなして素っ気なく合掌をした後、いとこは黙々とハンバーグを食べ始める。俺にはこの重たい空気をどうにかする術はなかったし、どうにかしようとも思っていなかった。それ故に、冷めないうちに食べてしまおうと思い立ち、箸に手を伸ばしたのである。
叔母の作ったハンバーグはパサパサとしていて、口の中の水分を奪うばかりか、飲み込みづらかった。別にまずいとケチをつけるわけではないが、薫の作った料理を食べてしまった後では、どうも比較せずにはいられないのである。
俺はひとかけらを口に含んでは、もっさもっさと咀嚼し、それからまた、一欠けらを口に含む。時々白米をつまんだり、温野菜に手を伸ばしたりもする。
このような機械的な食事は、ものの十五分で終了した。俺よりも先に食べ終えたいとこは、食器をシンクに運んだあと、颯爽と居間を去ってしまった。俺もそれに倣って、空になった食器を運び、シンクの中に置く。それから部屋に戻ろうとすると、叔父が俺を呼び止めた。この時、叔父も叔母も、申し訳なさそうに顔を歪めていた。
「すまないね、寧音があんな態度をとってしまって。一応言い聞かせはしたんだが、どうも突っ撥ねてしまっていてね」
先程の彼女の態度と行動の事を言っているのだろう。俺は別段気にしているわけでもなかったから、素直に「別に大丈夫」と返しておいた。
「娘が粗相を起こしたら、黙っていないで僕たちに言うんだよ。出来るだけ、佑磨君には快適な生活を送ってほしいから」
俺はにっこりと笑い、「どうも」と短く言ってから、俺も居間を出た。
足早に階段を上り、部屋の扉を開ける。ベッドに直行して、俺はそこに深く腰掛けた。手をついて、再度天井を見上げる。
俺は顰めそうになって強張っていた表情を、ゆっくりと解いた。それと同時に、深く溜息が出てくる。
「気持ちが悪い」
無意識に、そんな言葉を呟いていた。あの乾いたハンバーグが食道で詰まって気持ちが悪いとか、そういう事では決してなくて。
「二人の前でも、素直にそう言えばいいのに」
唐突に、強気な口調の声が聞こえてきた。その声がした方――開かれたままになっていたドアの向こうを見てみると、そこには、部屋に戻った筈の、いとこの姿があった。
彼女は相変わらず不機嫌そうにして、腕を組み、ドア枠に寄りかかっている。俺は予想外の出来事に暫し目を瞠ったが、すぐに落ち着きを取り戻した。
「素直にそう言っていれば、何かが変わったりでもしていたのか」
少女は顔を顰め、すがっていたドア枠から離れる。
「なんだ、そうやって自分の意見が言えるんだ。私てっきり、あんたはお人形さんなんだと思ってた」
「ああいう人とまともに話していると、日が暮れるだろ」
「うわ、人の親にケチつけるんだ」
「自分の親を無視する思春期真っ盛りな奴は、一体何処の誰なんだろうな」
苛立ちを覚えたのか、少女が一瞬だけ睨みを利かせる。
「可愛くないって、よく言われない?」
「生憎、一度も言われたことはない。それに類する言葉なら、耳にたこができるくらいに聞いてきたけれど」
俺の言葉を聞いた少女は、訝しげに目を細める。
「嘘を吐くのは良くないんじゃない? 周りの大人からちやほやされているくせに」
これにはさすがに、俺も眉根を寄せた。
「向こうの欲望だけからくる行動なんて、嬉しくもなんともない。それが俺に何か有意義なものでももたらしてくれるのなら、考えない事はないが」
すると少女は、汚物でも見るかのような、軽蔑の目で俺を見てきた。
「どんだけ現金なわけ? こんな素性を隠して、猫を被ってうちの両親と対面していたと思うと、反吐が出るんだけど」
「勝手に出していればいい。繰り返し言わせてもらうが、欲望だらけの者に対して、まともに付き合う義理は、俺にはない」
俺はベッドから立ち上がり、リュックサックの置いてある場所へと移動した。少女は俺の行動を目で追うだけで、不機嫌な表情は崩さない。
「……うちの両親が、欲望に目がくらんでいるって言いたいの?」
「言いたいも何も、率直にそう言ったんだが」
俺は中からノートパソコンを取り出しつつ、そう答える。少女は鼻で笑う。
「それって、自意識過剰って言うんじゃない? やっぱり、ちやほやされ過ぎて感覚が麻痺しちゃってるんだ」
暗い瞳で、俺を見下ろしてくる。俺は構わずパソコンを机上に置き、起動させた。パスワード入力をしてデスクトップ画面が出てきたところで、再度口を開く。
「さぁな。そう思うのなら、そう思っていればいいんじゃないのか」
「嫌味な奴。自分は何でも知ってるってすかしてるみたいでさ」
「何でも知ってるわけがないだろ。現に、あんたが今考えている事は、俺には分からない」
「そういうの、屁理屈って言うんだよ」
「知ってる」
会話が一時、途切れる。俺はズボンのポケットから灰色のUSBメモリを取り出し、パソコンに差し込んだ。デスクトップに画面表示されたのを確認し、それをクリックする。
「ねぇ、何で気持ちが悪いって言ったの?」
少女が静寂の空間を割って、そう問うた。俺は作業の手を止め、彼女の方に顔を向ける。
「勿論、食事がまずかったからというわけじゃない」
「そんなこと分かってる。回りくどい言い方をしないで」
俺は半眼になり、少女の姿を見据えた。
あんなに俺を毛嫌いしていたのに、何故、俺に話しかけようと思ったのだろうか。と、そんな疑問が脳裏に浮かんで来る。此処まで会話をしておいて何を今更、とも思ったが、俺の好奇心は逐一反応するから世話が無い。
「俺への配慮の度合いだ。まるで我が子の如く……いや、我が子以上かも知れない。いずれにせよ、あまりにも配慮が手厚いから、俺は胸やけがしそうなほど気持ちが悪いと思ったに過ぎない」
少女も半眼になった。
「そこは普通、有難いって思うところなんじゃないの?」
「慣れていないんだ。こんな可視的に至れり尽くせりな配慮をされるのは」
少女は部屋の中に入ってきた。椅子に座ってパソコンに対面する、俺の背後に彼女は立つ。
「意外。だって佑磨って、あんなに仲の良かった伯父さんと伯母さんの子じゃん」
「あんたの目は節穴か? 一体何を見て生きてきたんだ?」
「小三の子に、此処まで貶されるとは思ってもみなかったんだけど」
「それは良かったな」
「良くないに決まってるでしょ」
彼女は溜息を吐く。
「じゃあ、あんたはあの家庭に不満を抱いていたってわけ?」
いとこは譲歩したつもりなのか、そんな質問を投げかけてくる。俺は当然、「そんなわけないだろ」と言って、それを否定した。少女は再び顔を顰める。
「何それ、意味分かんないんだけど。不満じゃなかったんなら、一体何だって言うの?」
「何もなかっただけだ。不満も、満足するようなことも、何も」
「子供が言うような発言じゃないよね、それ」
「だから何だ。言っちゃ悪いのか?」
「……………………いや、別に」
沈黙。俺はパソコン画面に視線を戻し、出てきたファイルを操作する。数日前に見た、暗号化された難解のファイルが姿を現す。
幾ら音を上げそうになるほど手の付けられないロックが掛かっていたとしても、この中身だけ見ることが出来ないというのは、胸糞が悪い。何としてでも抉じ開けなければ、気が済まないのである。例え往生際が悪いと言われても、俺はきっとそれを止めないだろう。切りをつけて休憩程度の事はするだろうが、諦めはしない筈だ。
長らく、俺のタイピング音だけが部屋中にこだました。以前のように様々な手法を用いてみるけれど、やはり糸口が見つからない。此処まで来ると、既存の方法では解けないのだろうかと言う思いが込み上げてくる。だがしかし、新たな方法と言うものを、どの方向から探していけばいいのか、さっぱり分からない。
やはり門外漢だからか、知識に限りが出て来てしまう。つまり、応用しようにも応用するにまで使いこなせないわけである。
俺が内心で溜息を吐いていると、また、少女がポツリと呟いた。
「あのさ、配慮が気持ち悪いって言ったけど。たとえ手厚かったとしても、それを気持ち悪いとまでは思わないんじゃないの?」
俺は、今度は手を止めずに返答する。
「個人差と言う言葉を知らないのか」
「知ってるし! ……でも、それにしたって、言い過ぎだと思うんだよね」
俺はカタカタと高速で指動かし、次々と記号を入力していく。
「……何故そう思う?」
俺が画面に顔を向けたまま短く問うと、少女が徐に俺の顔を覗き込んできた。彼女の真っ直ぐな髪の毛が、さらりと零れてくる。
「あんたが嫌な奴じゃないって、分かったから」
「……それは理由なのか?」
思わず手を止めた俺は、少女の方に首を動かした。思ったよりも彼女の顔が近くにあり、少しばかり身を固める。少女は据わった眼をしたまま、勢いよく俺から遠ざかった。後ろで手を組み、薄く笑う。
「立派な理由だよ。正直、初日からあんたとこんなに打ち解けるつもりはなかったんだからね」
「だろうな」
即座に相槌を打つと、少女は気まずそうに目を逸らした。
「でも、見ちゃったものは、仕方がないんだ」
悲しそうに、昂るように、情けなさそうに、心苦しそうに、悔しそうに、彼女の顔が歪められている。
「何を見たんだ」
ぼそりと呟くと、少女はその瞳をこちらに向け、一直線に俺を射抜いた。
「何かにとり憑かれたみたいな表情をした、あんた」
俺は小首を傾げた。少女は同じトーンで続ける。
「その時何を見ていたのかは知らないけど、天井を向いて、笑ってた」
此処まで言われると、俺が夕食前に考え事をしていた時の事を指しているのだろうか、と脳裏の片隅で考える。しかし、いつの間に見られていたのだろうか。俺の記憶が正しければ、叔母がやってくるまで、そこのドアは固く閉じられていた筈なのである。それとも、本当は少しばかり開いていたのだろうか。若しくは彼女が間違えてドアを開けたのに、俺が気付かなかっただけなのか。
少女はそのことについては何も言わなかった。ただ淡々と、単語を並べていく。
「それ見て、私思ったんだよね」
俺を真正面から見据えた少女は、何かを諦めたかのような、苦しい笑みを浮かべていた。
「あんたには敵わないなぁ、って」
俺は思い切り顔を顰めてやった。それを見た少女が我を取り戻したのか、頬を赤らめ、眉根を寄せる。
「べっ別に、あんたをライバル視してたわけじゃないんだからね!」
「俺は特に何も言ってないんだが?」
余計な事を自分で暴露してしまったことに気が付いたのか、少女はさらに顔を紅潮させた。
「とにかく! あんたが純粋すぎる顔をしてたのが悪いの!」
「何で俺のせいになるんだ。それに、話が大分反れている」
俺の言葉で何の話をしていたのか思い出したのか、少女が「反らしたのはあんたでしょうがぁ」と恨みがましい目で見てくる。俺はその視線を軽くかわす。
「……少し前の話に戻るが。簡単に言ってしまえば、俺は嫌悪感を抱いたというわけだ。さっきから何度も言っているが、欲望をさらけ出されるのは、いい気がしないからな」
平坦な口調で、俺は説明を加えた。少女はまたしても不可解そうな顔をする。
「だから、何でそんな事が分かるの?」
「慣れだよ」
少女は一度、口を噤んだ。何かを言いたそうにしつつも、その言葉は飲み込むことにしたようだった。
「……でも、今ならそれは分かる気がする。だって、悔しいけど、私でさえも魅入っちゃったんだもん」
「どこに魅入る要素があったかは知らないが。おおよそあの二人は、俺に利用価値があると踏んだんだろう。だから、俺を引き取った」
少女が切れ長の目をして、俺をじっと見つめてきた。
「利用価値なんて、そんな薄っぺらなものじゃない。蘇芳家に身を置く佑磨なら、すぐに分かる事だとは思うけど」
一呼吸おいて、彼女は続けた。
「跡取りとなり得る優秀な子供は、喉から手が出るほど欲しいに決まってる」
まるで、屈辱に耐えるかのような、重々しい口調だった。俺は目を逸らせずに、彼女の眼力を直視してしまう。
「たとえその子供が、己の子ではなかったのだとしても」
変わらない強い声。しかし、彼女の目尻からは、涙が溢れ出していた。それを堰くことはままならず、とめどなく透明な液体が頬を伝い雫となって地に落ちていく。
俺はその様子を、ただただ呆然と見ていることしか出来なかった。
否。
興味の範疇ではなかった。
人に泣き姿を晒したことに気が付いたのか、少女は我に返って、袖でごしごしと強く涙を拭い取った。目の周りは赤く腫れ上がっていたが、俺がそれを指摘するようなことは、勿論しなかった。相手を気遣ったというよりも寧ろ、言った後に展開されるだろう口論の事を思うと、些か面倒くさかったというだけである。
少女は俺を一睨みした後、部屋から去っていった。ドアを開け放ったまま行ってしまったので、俺は仕方なく立ち上がり、その戸を閉めた。
再び静寂の空間が訪れる。
俺は椅子に座り、暗号解除を再開した。そしてすぐに、その手を止める。背もたれに深くもたれかかり、天井を見上げる。
正直に言ってしまえば、全く集中出来ないのだ。本当なら周囲に目もくれず没頭したかったのだが、脳内を占める他の事象がそれを許さなかった。その他の事象と言うのは、あの少女の事である。
つい先ほどの彼女との会話が、やけに脳裏に焼き付いて離れない。思考から排除しようとすればする程、交わした言葉とその情景が反芻されてしまう。思考回路内での排除が不可能ならば、と思い立ち、頭を叩くという物理的な方法を取ってみた。しかしそれはただ単に痛いだけで、何も意味をなさなかった。
俺は今一度椅子の背もたれに深くもたれかかり、天井を見上げた。
チリチリと頭が痛むのを思考の遥か遠くで感じ取りながら、ただ茫然と、単調な景色を眺める。その景色が俺の意識の中に入り込む余地はなく、そこには、未だに会話を繰り返し続ける少女の姿があった。
俺は深く息を吐き、天井から視線を外す。
思い浮かぶのは、それは何故、こんなにもしつこく脳内を占領したがっているのか、という事である。自慢ではないが、俺は切り替えが早いほうなのだ。だからいつまでも悩むようなことはないし、それこそ意味もなく過去を反芻するようなこともない。だから一層、不可思議に思えてくるのだ。
もしや、と脳裏に過ぎるのは、俺が少女に興味を示しているという事象である。それが好意からなのか、嫌悪からなのかは分からない。とにかく、「気になっている」のだろう。
俺はパソコンの電源を切り、画面を閉じた。シャワーを浴びて歯を磨いた後、部屋に戻ってベッドに横になる。頭が冴えて暫く眠れなかったが、次第に意識が遠のいていった。
考えたくない事がある時には、無理やりにでも意識を飛ばしてしまうに限る。




