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香記  作者: 鏡春哉
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Ⅲ 蘇芳家⑥

 俺を引き取ろうなんて、なんともお人好しな事を考えた親戚は、俺の父親の弟夫婦だった。

 引き取りが決まってから三日後に、彼らは警察庁に迎えにやってきた。どうやら表向きでは、俺が警察庁の方で保護された形になっていたらしい。両親を亡くしたから、という理由である事は少し考えてみれば分かる話なのだが、先日の事件について克明に把握している俺にとっては、何とも滑稽な筋書きにしか思えない。

 当の弟夫婦がその筋書きを見抜けるはずもなく、憐れむような表情をして「もう大丈夫だからね」などと茶番めいた台詞を吐いた後、俺を彼らの家に連れて帰った。その間、薫は気持ち悪いくらいに清々しい笑みを顔に張り付けて、「良かったですね」などと心にもない事を言いつつ、俺たちを見送った。

 別に、嘘を吐いているわけではない。単に、口に出していないというだけのこと。それでもこの状況をむず痒く感じるあたり、俺の中にも罪悪感なるものが存在しているのだな、などとどうでもいいことを俺は分析していた。

 彼らの家は、薫の家よりも少しこぢんまりとした建物だった。家に着くや否や、彼らは俺を新しい個人部屋へと案内する。俺の自室となるらしい部屋は、二階の東側の部屋、元は物置だったらしい部屋だった。俺がそこに足を踏み入れた時点では、綺麗に片付けられていた上に、御大層にも家具一式が取り揃えられていたから、元が物置だったとはあまり思えなかった。それは、この部屋の広さにも関係しているのかもしれない。

 薫の家の各個室よりも、幾畳分か、広めにとってある部屋だった。子供一人にこんなに広い部屋を与えるのもどうかと思いはしたけれど、これがこの家での基準なのであれば、素直に受け入れるのが良いのかもしれない。薫の言う、郷に入っては郷に従え、というやつだ。

 俺の荷物は相変わらず厳ついリュックサックと、それから件の黒い傘だけだった。何故この黒い傘も持ってきたかと問われれば、薫に持たされたからと言う他何もない。俺からすれば異様に長いこの大人用の傘を持って行くのには多少抵抗を感じたのだが、薫に言われると何かがありそうで、拒否しきれなかったのだ。――理由も何もなく、ただ持っていって欲しいからというだけの可能性もあり得ることに関しては、此処では考えないでおきたい。と言うか、考えたくもない。

 荷物を部屋に置いた後、俺は居間に通された。何度も薫の家と比較してしまうのは、あの家には、あまりにも生活感が無かったからなのかもしれない。あの殺風景な居間とは打って変わって、家族の写真があったり、それこそ掛け時計が壁にあったりと、生活感で溢れかえっていた。これを俗に言う、温かい家庭の象徴なのだろうか。

 そこで俺は、元の自分の家の事も思い出した。薫の家ほど殺風景ではなかったにしろ、この家程、生活感があった記憶はあまりない。時計はあったけれど写真は一枚も置かれていなかったし、雑貨も飾られてはいなかった。整頓されていたと言えば聞こえはいいが、要は、家族共有の場に置いておきたいものが、特に何もなかったというだけの事なのだ。若しくは、何も置いておきたくなかった、とも言える。その原因となったのは主に母親だろうが、それに関して不満を抱いていたわけではないから、特にどうこう言う事でもないだろう。

 父親の弟、つまり俺からすれば叔父にあたる人物が、俺の向かい側のソファに座り込んだ。その右隣に、彼の妻が座る。二人は気持ち悪いくらいに微笑んで――恐らく薫とは違う意味でその表情をしているのだろうが、俺に話しかけてきた。

「今回の事は、佑磨君にとっては、本当に苦しい事だったと思う」

 叔父がそう切り出す。

「だから、忘れることなんてできないかもしれないけれど、僕らは君の事を家族のように接していくつもりだから、少しずつでも、打ち解けていってくれれば嬉しい」

 柔和な笑みと、穏やかな声でそう話す。隣の叔母も、ゆっくりと頷いて同調する。

 俺はこのねっとりとした空気に慣れることは出来ないだろうなと思いつつ、形式ばった返事をしておいた。

「ありがとうございます。僕も(・・)、叔父さんと叔母さんの配慮には、嬉しく思っています」

 二人はにこりと笑う。

「そんなに固くならなくていいのよ。家族なんだから。敬語じゃなくて、もっとフレンドリーに話しましょう」

 叔母は落ち着いた大人の女性の声をしていた。大抵の子供はこの声に安心するのかもしれないが、俺にとっては余計なお世話くらいにしか思えない程度の声だった。

 その心情を表に出すわけにもいかないので、俺も目尻を下げ、「じゃあお言葉に甘えて」と前置きし、敬語を除いた話し方に切り替えた。

 彼らはなるべく事件の事を遠ざけた話し方をしつつ、今までの事や、今からの事を話し出した。今までの事については、久しぶりに顔を合わせたから聞き出したかったのだろう。俺は当たり障りのない、例えば父親の研究を進めているなどと言った話をしておくに留めておいた。

 今からの話については、此処での生活における事が主たる内容だった。なるべく俺の生活が変わらないように配慮するだとか、何かあったり不便があったりすればすぐに言えだとか、遠慮はしないで欲しいだとか、様々な事を言われた。

 極めつけは、学校をどのようにするかと言う話だった。これに関してはどうやら重要な案件だと考えているようで、入念に話をしてきた。

 今まで通っていた公立の学校の地区ではないから、本来なら転校しなければならない。でもそうでなくても君は混乱しているのだから、今までと同じ学校に通わせてもらえるよう、お願いしようか、などと頼んでもいない配慮をしてくるのである。

 折角父親が入れてくれた学校ではあったのだが、俺は正直もう、あの場所には行きたくないと思っていた。理由は至極簡単な事だ。

 くだらない事に気が付いたから。

 五歳の頃の俺は、何故他のみんなと同じ小学校に行きたいと考えてしまったのだろうか。今ではそんな事を疑問に思ってしまう程、あのクラスメイト達は馬鹿な連中ばかりであった。その上あの小学校には、謎のプライドを持った教師がわらわらと存在している。

 今更好き好んで、あの学校に戻りたいとでも思うだろうか。況してや、今回の騒ぎで軽く一週間は学校をさぼって……休んでいるのだ。好奇の目で見られるだろう事や、教師が憐れんだ視線を向けてくるだろう事も、目に見えている。

 しかし、だ。此処で学校に行きたくないと引きこもり宣言をすれば、それはそれで面倒なことになるだろう事も分かっている。小学生は小学生なりに、彼らは学校に通わせたいと願っているのだろう。そうでなければ、いらない配慮までしようなどとは思いもしないはずだ。

 俺は二人に視線を向け、薄く笑みを浮かべた。

「この地区の小学校で大丈夫。寧ろ、その方がいいかもしれない」

 そう言うと、二人は心配そうに顔を歪めた後、理解ある大人を演じるかの如く、微笑み顔に戻った。

「そうか、分かったよ。じゃあ、そういう事で手続きをしておこう」

「そうね、それがいいかもしれないわ。佑磨君の負担にならないのなら、それが一番だから」

 二人はそう言って、立ち上がった。早速手続きでも始めるのだろう。その時叔母は、俺に向かって「夕飯までまだしばらくあるから、それまでくつろいでいていいからね」と言い残した。

 ここ最近の間に聞いたことのある台詞だったが、あの時と違い、暇を持て余すような思いはしなかった。俺が明確な目的を持っていたから、と言うのが恐らく正しいのだろう。

 動き始めた二人をよそにして、俺は新たに自室となった部屋へと向かった。


 部屋に戻ってから、俺は改めて部屋の中を眺めてみた。そこで俺は、違和感を覚えずにはいられない事態に陥った。

 ベッドやタンスが置かれているところまでは良かったのだが、設置されている机が、勉強机だったのだ。子供が小学生に上がると同時に購入するような、あの机と椅子のワンセットだ。白めの木材が使用されており、それが部屋の雰囲気に合っているというのは別にどうでもいい話である。問題なのは、それが傷一つない新品であるという事なのだ。

 確か彼らには一人、娘がいたように記憶している。名前は忘れたが、とにかく俺よりも年上の少女だ。あの二人が俺の父親よりも早くに結婚したから、兄夫婦の子である筈の俺の方が、いとこよりも年下になってしまっている、と言う話はさておき。この机が彼女のお下がりだとするならば、新品同然であることはまずあり得ない。また、彼女は高校生になったばかりの年である筈だから、まだ勉強机なるものは必要としている筈なのである。

 確かに、勉強机が無くても勉強が出来ないわけではないが、これがお下がりである事を否定する事実が既に存在してしまっている。彼女が物を大切に使う質であり、傷一つつけないようにこの机を使っていたというのなら、話はまた別になる。だが、少なくとも小学生から中学生の終わりまでの九年間使っていたものが、劣化もなく、日焼けもなく、そのままの状態で存在し続けることは極めて難しい。

 此処まで回りくどく長々と表現してきたが、簡単に言ってしまえば、新品だと言い切れるこの勉強机が、何故ここにあるのかが理解できない、という事である。まるで、俺が此処に来るのに合わせて、取り寄せてきたもののように思えてしまうではないか。

 小学生には勉強机が必要でしょう、と言うのは分からなくもないけれど、それにしたって、仕事が早すぎやしないだろうか。これが好意で為されているのには特に問題はないのだが、それよりも、此処まで手厚く俺を迎え入れる意味が全くもって分からない。

 親戚中を盥回しにされないだけいいじゃないかと思う人もいるかもしれないが、俺はそもそも、彼らのもと、つまり蘇芳家に身を置こうなど、微塵も考えていなかったのである。身を置けない、と言っても、強ち間違いではない。

 近くにいる者に一生事実を隠し続けるよりも、芹沢薫と共に過ごした方が断然有意義であろう。これは現在進行形の考えである。そして恐らく、これからも変わることはないと俺は思っている。

 だから余計に、何か裏があるのではなかろうかと俺は考えてしまうのである。この考えは、薫が俺を弟夫婦に引き渡した行為からも、助長される。つまり、俺の知るべき何かがそこに隠されているのではなかろうか、という事である。

 これはまだ俺の推測に過ぎないのであり、いつになれば明るみに出るのかさえ分からない。もしかすれば俺の隠蔽したい事実の方が先に暴かれる可能性もあるにはあるが、そこは心配する必要はないだろう。俺が拘束される身になれば、薫が不利益を被ることは目に見えているからだ。だから彼女はそのような失態は犯さないと俺は断言できる。

 別に驕っているわけではないし、捕まりたくないと思っているわけでもない。単に、問題にするほど深刻な話ではないというだけの事なのである。

 殺人を犯しておいてそれは無いだろう、と反感を覚える人もいるかもしれない。だが、改めてあの状況を説明するとするならば、下手をしていれば、俺も被害者になり得ていた、とでも言っておこうか。

 兎に角、俺は状況に逆らえなかったのである。正当防衛だとでも言っておけば、事態は丸く収まるかもしれない。しかし胸を張ってそれを言えるわけでもないから、俺はその言葉を口には出すまい。

 代わりに言える言葉があるとすれば、自分の人生を自分で切り開いた、その第一歩、といったところだろうか。あの行為はたとえ法を犯しているものなのだとしても、それをしなければ俺は前へは進めなかったわけである。

 自殺もきっと、一緒だろうと俺は思う。それをしなければ、自分は前へは進めない。そんな事を言っても、死んだら前へは進めないだろう、と言う非難を浴びそうな考えではあるが、俺はそうは思わない。恐らく、逆に問えばわかりやすいのかもしれない。

 窮地に陥っている状態、例えば精神的に病んでいたり、追い詰められていたり、誰も助けてくれようとはしてくれなかったり。そうした状態で生き続けたところで、一体何が変わるのだと言えようか。ただ同じことがぐるぐると繰り返されているこの世界にいる限り、生きたまま一人でそこから抜け出すというのは、なかなかの至難の業になるのではなかろうか。

 ならば、一人ではなければいいと、軽々しく言ってしまってもいいものなのか。それは俺には良く分からない。そこには個人差があるし、依存という危険さえも孕んでいる。それは、俺の母親を取ってみれば容易に想像がつくことだろう。

 人付き合いが上手くいかずに孤立していた上に、両親までをも亡くしてしまった母親が依存したのは、言うまでもなく俺の父親である。その父親が亡くなってから、母親が虚ろになった事は、先にも述べた通りである。その虚ろの先に行き着いた時、母親は爆発した。

 その引き金となった伯母は、その爆発に巻き込まれて母親に殺された。俺もそれに巻き込まれて、殺されかけた。ただ、少しばかり運が良かったというだけであり、俺も同様に息を引き取っていた場合には、恐らく俺ではなく、母親が彼女自身をも殺していた事だろう。それは巨大な星が超新星爆発を起こしてその生涯を終え、ブラックホールへと姿を変えることによく似ている。

 母親が俺を殺してしまった後、彼女の中には何も残りはしなかっただろうから。唯一の父親との接点となり得る鍵を、自分で壊してしまう事になるのだから。

 何も持たない母親が、何の理由もなく、ただ単に生き続けようなどと、考えることはないだろう。いや、考える前に、理性が勝手にそうするよう、仕向けるのかもしれない。どちらにせよ、彼女はきっと、自殺を選んでいた。そうしなければ、前へは進めなかったのだから。

 死の方向へと、前進することが。

 人に限らず生きている者は皆、絶えず死へと前進している。時間が止まればその概念も消え去るかもしれないが、残念ながら老いることを止めることは出来ない。時間はアナログなものであり、停止はしない。何らかの作用で逆回しには出来るかもしれないが、それもまた、アナログ的な作用に他ならない。

 そこでふと、俺は思考を止めた。

 アナログでありはしても、逆回しをする際に、否応でも時間は一旦停止しなければならないのではないだろうか。投げ上げられたボールが空中で一瞬だけ停止し、それから落下してくるのと同じように。

 それから俺の目の前には、また、数多の数式が流れ始めた。その中で、一際光を放っている数式がある。俺が父親の理論から導き出した、時空を操る数式だ。この数式に、オプションが次々と追加されていく。

 やがて思考がプツリと途切れたところで、俺は不敵な笑みを浮かべた。ベッドに腰を掛け、両手をつき、天井を見上げる。

 薫の家で見たあの天井とはまた違う、温和な色合いをした天井。そこに、極限まで洗練された、一つの数式が映し出される。

 白昼色で細く強く光るそれらの記号は、今にも俺の事を呑み込んでしまわんばかりに光の手を差し伸べている。俺は目を瞠り、薄く唇を開く。その手を取るように、俺は自らの腕を伸ばした。

 ガチャリ、と戸の開く音がする。瞬時に、俺の意識は現実へと引き戻された。不自然に天井へと向かっていた腕を即座に下げ、音のした方を見る。

 ドアの隙間から顔を覗かせていたのは、柔和な表情をした叔母の姿だった。彼女は優しく俺に笑いかけ、部屋に入り込んでくる。

「突然の事だったから心配していたんだけど。大丈夫そうで安心したわ」

 彼女は花柄のエプロンを身に着けていた。心なしかいい匂いを漂わせながら、俺の方へと近づいてくる。

「夕飯が出来たから、下にいらっしゃい。今日は腕を振るって、特製ハンバーグを作ってみたの。佑磨君の口に合えば嬉しいわ」

「……それはどうも」

 俺が返事をすると、叔母はニコニコ顔で俺の部屋を去った。

 現実へと戻ってきた俺は、再び思考の海に没頭する気力も失せていたために、すぐに部屋を出て階下へ降りた。居間に入ってダイニングテーブルに並べられたものを見た時、母親が作るものとも、薫が作ったものとも全く異なる、所謂、家庭の料理なるものを目にした。

 そこには完璧を求める何かはなく、ただ、胸やけと吐き気を同時に起こしてしまいそうなくらいの、愛情とかいうものが込められていた。


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