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香記  作者: 鏡春哉
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Ⅲ 蘇芳家⑤

 俺が黒いファイルを元の位置に戻した時、書斎の扉がゆっくりと開かれた。先程と変わらない位置に李深蓝が座って居たから、彼が出て行こうしてとドアが開かれたのではなく、俺たち以外の第三者が入室しようと、開かれたことが考えられる。

 その第三者が誰なのか、というのは、容易に想像がつく。そう言える証拠としては、李深蓝が心なしか青い顔をしている事が挙げられるだろうか。

 案の定、開かれたドアの向こうから顔を見せたのは、この書斎の主である薫だった。だが俺は、まじまじと彼女の姿を見詰めずにはいられなかった。

「二人して、何をそう、驚いた顔をしているのさ」

 温和な声質で薫が問うた。俺はそれでもなかなか声を出すことが出来なかった。李深蓝も同じく、分厚い本を持ったまま、呆然と突っ立っている。

 薫が入ってくるだろう事は俺にも予想がついていたし、俺たちが此処に入り込んでいる事を咎めたりしない事も、勿論分かっていた。しかし、彼女がリクルートスーツに身を包んだ状態で現れるとは、微塵ばかりか、全くもって考えていなかったのである。

「就職活動でもしていたのか?」

 とてつもなく間が空いた後、俺が漸く口にした言葉だった。

「おかしいな。佑磨の知的レベルが動物以下――いや、微生物以下になっているね。あの睡眠薬は、ちとまずかったかな」

 薫が不可解そうに顔を歪めた後、そう呟いた。微生物に就職活動の概念があるか否かは知れないが、どうやら俺は、かなり的の外れた意見をしたようだった。

 けれども、と此処で反論しておきたい。

 警察庁内を私服で闊歩するような人物が、何がどうなって、どのような経緯があって、それでもってどうのように作用して、あのようなフォーマルな服を身に着けようと考えるのか。いつでもマイペースを貫き通す彼女の意志を、いとも簡単に覆してしまうようなものは一体何なのか。それこそ空から槍の雨が降ってくるような、天変地異でもなければ起こりようもない。少なくとも、俺はそう思っている。そう思っているからこそ、その原因が知れないのだ。

 俺の脳内は暫く言葉の渦に埋もれてしまい、薫の皮肉気な発言に上手く切り込むタイミングを失ってしまった。薫は俺が混乱している事を読み取ったのか、俺に考えさせるのを断念したように目を伏せた。

「僕が何を着ていようがいまいが、別に可笑しな事じゃないよね。二人にそんなに驚かれると、ちょっと傷つくんだけど」

「薫さんって、傷つくんですか」

 俺より早く復活したのか、李深蓝が悪気も無くそう問うた。彼のアイデンティティにもなり得る「誰に対しても失礼な態度を崩さない」というものには、例外など存在しないらしい。選び、選ばれた関係に対してでさえも、果敢に己の理念を貫き通せるとは、全くもって、清々しく感じさせるものがある。それがどのような理念であるかは、また別の話にはなるが。

 薫は薫で一々そのような態度に気を留める質でもないようだから、「言葉の綾だよ」と軽く言い、薄く笑みを作るにとどまった。

「本当の事を言ってしまえば、状況がそうさせたに過ぎないってことだよ」

「薫は如何なる状況下に置かれても、流れて行かないような人なのに?」

 俺も落ち着きを取り戻して、目の前で繰り広げられる会話に参戦する。

「如何なる、なんて言葉は縛りがとても強すぎて、僕はあんまり好きじゃないね。他にも、絶対だとか、完全だとか、完璧だとか。そう言ったものは、人生を限りなく窮屈なものにさせてしまうから、開かれた生というものから程遠くなってしまうよ」

 薫は溜息を吐きながら言った。

 彼女の言葉を不躾に要約すれば、ルーズに生きたい、そういう事だろうか。けれども、これとリクルートスーツに何の関係があるのかを、理解することまでには及ばない。

 薫は、まだ分からないのか、と半ば呆れた表情で俺を見下ろした。正確には俺と李深蓝を、である。残念ながら両者とも口が開けずにいたので、彼女の非難を甘んじて受け入れる形になってしまった。

「つまり、いつものようにしていては不都合があったから、と言いたかったんだ」

 薫は回りくどい言い方をやめたらしかったが、それでもまだ抽象的な要素が大分残っている。だが、此処まで噛み砕かれると、さすがに、俺にもその意が分かり始めていた。

「……何かの、信頼を得る必要があったのか?」

 俺が唐突に呟くと、薫の黒い瞳がコロリとこちらを向いた。口の端を引き延ばし、嫌な笑みで俺を見詰めてくる。

「当たり。漸く睡眠薬の効果が抜けてきたようだね」

 薫はクスクスと笑う。部屋の隅に居た李深蓝は彼女の言葉を聞いた後、持っていた古本を仕舞い、俺と薫の方へ近づいてきた。

「今回の件の、遺族の方ですか」

 真面目くさった顔をして、李深蓝は尋ねる。薫は目を細めて肯定した。

「そう。ささくれ事を起こしたくないんだよ、今回は(・・・)。事態を上手く運べるようにするためなら、僕は手段を選ばないからね」

 それが、薫が堅苦しい服装をしたことの理由。一旦聞いてしまえば、何もおかしな話ではなかった。

 彼女は、至ってマイペースだったのだ。

 そのマイペースというのは、自分のペースを決して崩そうとしない頑固者の意味で取るのではなく、いつでも自分の思い通りに事を動かそうとする者の意味で捉えなければならない。故に彼女はその基盤を作るためにも、演技でも何でもするのだろう。

 それが薫という人物なのだから。

 俺と李深蓝が納得したことが分かったのか、薫は今一度薄い笑みを浮かべる。

「それにしても、面白い事になったよ。嫌でもスーツを着て行った甲斐はあったね」

 俺は即座に、彼女の言葉に反応した。彼女の真っ黒な瞳を凝視し、身を固める。

 この時の感情を言葉で表現するならば、警戒心だとか、悪い予感がしただとか、そういった言葉がふさわしいのだろう。こういった第六感ともいえる「勘」というものは、馬鹿にしてはならないものである事を俺は知っている。

 李深蓝はこうしたシチュエーションに最早慣れてしまっているのか、もう、表情を崩すようなことはしなかった。その代わりと言えばいいのか、彼は何故か、俺の方に横目で視線を向けてくる。

 俺はその悪い予感なるものが、俺の中で確信に変わりつつあることを認識する。半眼になって薫の方を見返すと、彼女は目を細め、無邪気に笑った。

「佑磨、君は親戚に引き取られることになった」

 詫びられる様子もなく、憐れむ様子もなく、また、惜しむ様子もなく、薫は淡々と、そう言い放つ。彼女はただ単に、楽しんでいるだけであった。

 俺の考えていた悪い予感から斜め上方向に大分反れてしまったが、これが悪いものでないとも言い切れないところがある。

「つまり、あんたはそれを承諾した、という事だな?」

 俺の問いに、薫は不思議そうな表情をする。

「そうなったと言っているんだから、そうに決まっているでしょ」

「決まっているでしょ、じゃない。俺は、何故承諾したのかを訊いているんだ。あんたはこの前俺に、此処で生活するように言っただろうが」

 俺はあくまでも、平静を装って尋ねた。李深蓝には大人になれとは言われたが、薫の一言一句に疑問も持たずに従う人形になれとは言われていない。詰まる所、今此処にいる俺には、知る権利があるというわけだ。

 薫は小首を傾げ、目を伏せる。暫くして、深い黒色の瞳がどろりと動いた。

「だから、状況が変わったんだって。それはそれで面白そうだから、承諾したってだけだよ。あ、それとも、君が狙われている件について危惧しているの? それなら大丈夫。ちゃんと護衛は付けとくから。安心して親族のもとへ行けばいいさ」

 楽観的に笑う薫。それも確かに気がかりな点ではあったが、パーセンテージで言えば二割程度の疑問だ。それよりも、いきなり計画を方向転換したその意図を知りたかった。

 それを言おうとして、俺は徐に口を閉じた。躊躇った、というよりかは、思い出しただけと言った方が正しい。何を思い出したのかと言えば、薫とゲームをしたあの時、薫が状況に合わせていとも容易くルール改変を行っていた事である。

 柔軟性があると言えば聞こえがいいが、彼女が「面白そうだから」と言っているあたり、気紛れだとしか言いようがない。あのゲームに関しても、ほんの気紛れからくるものであったに違いない。そう考えると、これはもう、彼女に固定されてしまった性と言う他、何もないのではなかろうか。

 俺は大きく溜息を吐き、それから薫を見据えた。

「分かった。一旦(・・)戻ればいいんだな?」

 薫は不敵に笑う。

「そうだね。一旦(・・)戻ればいいだけの事」

 俺も笑みを浮かべる。

 気紛れは気紛れでも、意味のない気紛れでない事は、俺にも分かっていた。

 以心伝心したのだ。

 要は、あちらに行って、俺は何かを得てくればよいわけである。その何かが何であるかという具体的なものについてはまだ分からないけれど、少なくとも、俺は何かを得るための機会を与えられたわけである。

 ならば、甘んじてそれに従わずに、どうしていられようか。


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