Ⅲ 蘇芳家④
ささやかな疑問が解決したところで、俺たちはパソコン画面から離れ、各々興味のある本棚の前へと移動していた。李深蓝は分厚い古本が置かれたコーナーで立ち止まり、俺はファイルが並んだ本棚の前で立ち止まった。ファイルの種類には節操がなく、色や形、サイズまでもがてんでバラバラである。並べ方も至って不規則で、凸凹であったり、カラフルであったりして、正直見ていてイライラした。
かと言って、勝手に並べ替えるのも気が引けたので、そこのところは我慢して一つのファイルを抜き取った。開いてみてみると、そこには扱った事件なのかは知れないが、その詳細が事細かに書き記されていた。
ある程度予想はしていたが、此処まで詳しい内容がファイリングされているとは思ってもみなかった。それも、電子媒体ではなく、紙媒体によって、だ。プログラマーの事だから、てっきりパソコンに情報を保存しているものだと思っていたが、書かれている文字も手書きである当たり、徹底してパソコンを使っていないことが覗える。
彼女は、情報が漏洩してしまう事を危惧しているのだろうか。確かに、どんなにセキュリティの質を上げても、その網目をかいくぐって侵入しようとする者が、いることにはいるのだろう。しかし、此処まで徹底して管理する必要があるのかと問われれば、自身を持って肯定することが出来ないのである。
何か、世に流れてはならない事件までをも管理しているのだろうか。俺が今手に取って開いたファイルの内容を見た限りでは、そこまで世間を揺るがすような事件ではないものが殆どだ。簡単に言ってしまえば、法の目から零れ落ちそうになっていた些細な事件を取り上げているものが多い。時々警視庁の花形の捜査一課が立ち上がるような事件についての詳細も書かれていなくはなかったが、そう言ったものは、既にニュースで取り上げられている。
詰まるところ、何処を見ても薫の考えている事が読めないのである。元々読みにくいというものはあるが、どうやらこれに関しては、以心伝心出来ないようになっているらしい。それとも、俺が知らない何かがあるからこそ、理解できないでいるのだろうか。
俺はファイルを抜いては中を見て、それから戻して次のファイルを抜く、という動作を繰り返した。幸い、李深蓝は右の隅で読書に耽っていたから、相手の事を考えずに、俺自身も調べものに没頭できた。
二十一冊目のファイルを抜いた時、俺は顔を顰めた。
背表紙が白かったから気が付かなかったが、今し方手に取ったファイルの表面は、真っ黒な色をしたものだったのだ。何とも、趣味の悪いファイルである。何処でこんなものが売られているのだろうかと、疑問に思わざるを得ない。
例外なく中身を開いてみると、先程から見ているものと同じように、似たような事件が細々とファイリングされているものだった。
ただし、と此処で付け加えるのは、それが今までのものと違う箇所が見られたからである。確かに、強盗なり殺人なり万引きなり、多岐に渡った事件が数多ファイリングされている。しかし、この各々の事件の中に、一つだけ共通点が見られるのである。
『悪魔』という文字。
啓蒙思想の社会に身を置いている者が、大真面目な書類に、大真面目にこの文字を連ねるというのは、なかなかぶっ飛んだ思考回路をしている。そんな事をしてしまえば、何でもかんでもコレのせいにしてしまえる事態に陥る。しかし、あの女は、この黒いファイルだけ――今の時点ではこれだけに、この文字の記載を許している。
という事はつまり、だ。
彼女は純粋に、純朴に、正直に、真率に、この言葉を書き記している事になる。
もっと噛み砕いて表現すれば、目で見たもの、ありのままの真実を、素直に文字列に落としている、そういう事なのである。
前提として、俺は何か得体の知れないものに襲われているし、土方の胡散臭い能力をこの目でしかと見てしまっている。百聞は一見に如かずという言葉は、確かに効力のある言葉だと俺は思う。幾らそんなものが世の中に実在すると聞いたとしても、心の底から了解し、納得できるはずがない。しかし、一度だけでも目で見てしまえば、それが幻惑や幻覚でない限り、正真正銘の事実にしかなり得ないのである。
そういうわけで俺は、この言葉を受け入れてしまっているのだが、これがどう作用して事件に発展したかまでは分からない。想像はつくけれども、それは想像の範囲内を超えることが出来ない。故に、歓迎会前に俺を襲ったものに関する話を訊くと同時に、これについても薫から直接聞き出すのが妥当であろう。
そこまで考えが至ると、俺はファイルを閉じようと右手を動かした。分厚い紙がパラパラと捲れていき、最後の頁でそれが止まる。その時、俺はファイルを閉じる手を止めていた。
見覚えのある文字列。
否。
名前がそこに書かれていた。
『蘇芳佑輝』
俺の父親の名前だ。何度も読み返したから、漢字が違うとか、そういう見間違いもない。完全に、父親の名前を示す文字列がそこに記されてあった。
俺は肝の冷えるような思いをしながら、その頁に目を落とす。その四文字の下には、目を見張るような事実が書かれていた。
『死因:電撃によるショック死』
喉の奥から、何かが込み上げてきそうな、そのような気持ちの悪さを感じた。父親は、轢かれそうになった老婆を助けようとして、自らが犠牲になったのではなかったのか。
けれど思い返してみれば、その老婆もショック死している。それを聞いた時には事故によるショック死なのだと思っていた。だが、父親が電撃によって死んだのなら、その近くにいた老婆が巻き添えを喰らっていた可能性も、否定はできない。
おおよそこの事件は、事故に見せかけた、他殺と言ったところなのだろうか。
このように考えると、まるで父親が狙われていたかのように感じられる。しかし実際に、この文章は残酷にも、そうであると克明に示していた。
『悪魔による攻撃』
何故それは、父親を殺そうと目論んで、それを実行に移したのか。気紛れか。それとも、憎悪を抱いていたのか。
しかし、人でないものが人に憎悪を抱くというのも、可笑しな話である。そもそも、それらとの接点が、日常には存在していなかったはずだ。
ならば、と俺は思うのである。
父親は、非日常に身を置いていたとでもいうのだろうか。確かに医師として働き、尚且つ自身の研究をこつこつと進めていた。それは、一般人からすれば、大層非日常な生活を送っているように見えるだろう。だが、俺はそうは思わない。少なくとも、悪魔なんて言う、実際に存在するかしないか分からないようなものと対峙する生活よりは、限りなく一般的であると言える。そして父親が、そのようなものと接触していたようには思えないのだ。
そうでなければ、父親は若返りの研究なんて、そんな事は続けていなかったはずだ。研究対象を百八十度変えて、悪魔という存在に飛びついていたに違いない。俺がそうだと断言できるくらいには、父親の人生は「研究」で出来ていた。
だから、ますます訳が分からないのである。悪魔に憎まれて殺されるという事象が、起こり得る筈が無いのだ。
その一方で、気紛れというのも、少々根拠が弱いのである。そんなもので殺されたらたまったものではない、というのも勿論あるが、俺がこのファイルの内容を簡単に通して見た限り、気紛れを起こした、などという言葉は一言も書かれていなかった。つまり、ここに来ていきなり気紛れを起こす、といってしまうのには、些か違和感がある、と言いたいのである。
ならば考えられることは一つしか残っていない。
父親を憎む人間が、悪魔をして、彼を殺せしめた。
それが誰なのか。その人物が如何にして悪魔が実在することを知ったのか。そして、どのような方法でそれを使役したのか。
それは全て、今の俺では知識不足で分かりようがない。
ただ、これだけははっきりと言える。
俺を狙ってきたあの「何か」を使役しているのは、父親殺しと同一人物であるという事は。




