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香記  作者: 鏡春哉
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Ⅲ 蘇芳家③

 李深蓝は心配そうな表情をして後ろから付いてきていたが、何かを指摘しようとはしなかった。例えば、入ったらいけないのではないか、とか、やめておいた方がいいのではないのか、とか。こういう所で止めに入らない当たり、彼も変人枠としてみなされてもおかしくはないのではないかと俺は思う。

 今回は、ドアを開けようとした瞬間に、薫が帰ってくるような事態には陥らなかった。ゆっくりと押し開け、中に入る。

 広い、とは一概に言えない空間だったが、壁という壁に本棚が設置され、その本棚には分厚い本から文庫本まで、また、ファイルなどもびっしりと詰められていた。びっしりという言葉で、ぎゅうぎゅう詰めにされていた湿布薬の事が思い出されたが、それはさておき。

 目の前に見える本棚の中央には、窓がはめ込まれていた。その手前には、デスクワークが出来そうな机が、一つ置かれている。その上には三台のパソコンと、積み重ねられた膨大な資料が乗っている。部屋の左隅には、何故かベッドが置かれていた。地震などで本が雪崩れてくれば、一瞬で生き埋めにされてしまいそうだ。

 李深蓝も此処には入った事が無かったようで、興味深げに部屋の中を眺めまわしている。相変わらず澄ました顔をしているが、その中に好奇心が含まれているのを、俺は見て取った。

「薫さんの仕事部屋、かな」

「だろうな。事件の資料らしき紙が床にも沢山ばら撒かれている」

「別にばら撒いたわけじゃないと思うよ?」

「そんな事は分かっている」

 くだらない話をしつつ、俺たちは机に近づいて行った。奥の方に回り込み、パソコンを正面から見る。

 そこで、俺たちは息を呑むことになる。

 三つのパソコンには、この家の各部屋と思われる映像が映し出されていた。そのうちの四つには、眠りこけている他の黙静課面々の姿が見られた。恐らく、各部屋にカメラが設置されているのだろう。

 俺と李深蓝は、顔を見合わせた。

「これで実験結果を見ていたんだね」

「いや、そういう問題じゃないだろ」

 俺は感嘆する李深蓝を、即座に否定した。しかし彼は、何故否定されたのかが分かっていないようだった。

「こんなの、監視されているようなものじゃないか」

「はぁ、そうともとれるね」

「あんたは、こんな事をされて嫌じゃないのか?」

「別に……、実験に参加している以上は、観察され得るものだからね。それがどのような方法であれ、僕らは許諾するしかないと思うんだけれど」

 俺は深く息を吐いた。そもそも、変人に聞いたのが間違いだったのだ。価値観が俺とはまるで違う。恐らくここでは、そういった価値観を否定してはならないのだろうし、俺の価値観を押し付けてもならないのだろう。その代わりと言っても良いかは分からないが、誰もが誰もの価値観を否定したりはしないのかも知れない。

 それはそれで助かるのだが、慣れるのにはほとほと時間がかかりそうだ。薫のために大人にならなくてはならない。それは前提として既に分かっていた事である。だがそれが分かっているにもかかわらず、こうして目の当たりにした時に、その衝撃を受けずにはいられないというのは、些か不公平ではなかろうか。

 これ以上動揺を見せるのも癪だったので、俺は込み上げてくる言葉を押し留めた。一度落ち着きを取り戻そうと、目を閉じる。

 暗闇の中には、俺の思考の産物が流れ込んできていた。目を閉じるのは好きだ。余計な情報が入り込んでこないから、実に都合が良い。

 俺は耳を澄ませ、起動したパソコンのホワイトノイズを聞いた。絶えず聞こえてくる不規則な音の流れ。波形に変換しても尚、その形は不規則にしかなり得ない。

 俺はゆっくりと目を開き、今一度映し出される映像を見た。

「……映像は人数分しかないな」

「そうだね。多分、カメラも人数分しかないんじゃないかな」

「だから、部屋を選べなかった」

 李深蓝は「確かにそうだねぇ」と呟く。それから俺の顔を覗き込んで、言葉を続けた。

「薫さんは僕を担いで運んだのかな。それとも、お姫様抱っこにして運んだのかな」

「もし後者なら、滑稽な光景になるな」

「それは、駄洒落?」

「意図して言ったわけじゃない」

 俺はパソコンの画面から目を離さずに言う。

「取り敢えず、カメラのある部屋に順に放り込んだだけのようだな。何故カメラの設置場所をそれらの部屋にしたのかまでは分からないけれど」

「きっと、気紛れだろうね」

「それを否定できないのがもどかしい」

 李深蓝は、はははと小さく笑った。

「佑磨君って、学者肌だよね。何処までも突き詰めていきたいって感じの」

「若槻さんと同類にされたくない」

「おや、バレていたか。でも、どうしたって、同類として一括りには出来そうにないよね。もし同じだったなら、薫さんは君を選んでいなかっただろうし」

 李深蓝という男は、一々引っかかるような言い方をしてくる。言葉の選び方が抽象的だとでも言えばいいのだろうか。それとも単に、日本語がまだ十分に頭に入っていないために、概念を上手く説明できていないだけなのだろうか。

 俺は漸く画面から目を離し、未だに俺の顔を凝視する李深蓝を見返した。

「それは、薫が同じ人を選ぶはずがない、そう言っているのか」

「そうなるね。だって、同じ部署に同じ役割を持つ人が二人居たって、しょうがないじゃないか」

 俺は顔を顰めた。

「……似たような人間はいても、全く同じ人間はいないだろ」

「双子は?」

「双子でさえも、だ。時々考えている事が一緒、なんて話を聞くけれど、それでも、一瞬一瞬同じことを考えることなんて、出来る筈がない」

 李深蓝は破顔した。

「ははは、その通りだ。どの時間帯でも全く同じことを考えているなんて、それはちょっと気持ちが悪いね」

「直球な言い方だな。だがまぁ、そういうわけだ。……薫がどんな人を選んだところで、それは全くの別人にしかなり得ない。つまりはそういうことを言いたかったただけなんだ」

 低い位置から見上げるようにして、俺は言い放った。李深蓝は何を思っているのか、目を細めて俺を見つめてくる。

「……君、本当に八歳? 実は小さな体をしたお爺さんなんじゃあ?」

「あんたらって、失礼な事ばっかり言うよな」

「何だ、僕に限られた話じゃないんだ?」

「今のところ、土方も失礼な奴だ」

 歓迎会での会話を思い出したのか、李深蓝は笑いながら「あぁ、あれね」と呟いた。

「土方さんって、見た目は普通のOLにしか見えないのに、胡散臭い能力を持っているから、ちょっとギャップ萌えするよね」

 李深蓝はパソコン画面に視線を移して、そう言った。恐らく彼の網膜には、画面の中で眠りこけている土方の姿が映し出されているのだろう。

「あんたって、誰に対しても毒を吐くんだな」

「あちゃ、今度は対象が僕だけに絞られちゃった」

「絞るように促した、の間違いだろ」

「君って、言葉の使い方が上手いよね」

「あんたが下手すぎるだけだろ」

 李深蓝はまた笑い、「これは参った!」と、額に手のひらを当てる仕草をした。特に笑いの取れるような内容でもなかったから、俺は冷ややかな視線を送るだけに留めておいた。


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