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香記  作者: 鏡春哉
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Ⅲ 蘇芳家

 目が覚めると、そこには一回だけ見た事のある天井があった。暫く呆然として、その天井を眺め続ける。カーテンで直射日光は遮られているものの、それでも部屋全体を認識できる程度には強い日差しが入り込んできていた。

 俺は重たい瞼をこすり、もそりと起き上がる。いきなり動いたからか、一瞬だけ眩暈を催した。それが収まると、体中が倦怠感にさいなまれている事に気が付く。

 動けないわけではない。動きたくないのだ。出来るなら、もう一度横になって寝てしまいたい。横になってしまえば、恐らく一秒も持たずに夢の世界に入れるだろう。

 昨晩の歓迎会についての記憶は、どうしてか、食事の最後ら辺で途切れている。だから、いつの間にこの部屋まで来たかの記憶がない。食事の後に体を動かすような何かをした覚えは一切ないので、食べた後に、俺はすぐに寝てしまったと考えられる。恐らく、その後誰かに運ばれてきたのだろう。

 それにしても、昨日は特に疲れるようなことをしたわけではないから、この倦怠感が疲労から回復しきれずに、まだ残っているものと考えるのは、些か根拠が弱い。ならば、何故こんなにも気怠い思いをしているのか。

 勿論、薫と話していると疲れる、という精神的疲労はあったろうが、それと比較しても、この倦怠感はあまりにも強すぎる。まるで慣れない何かをした後のような怠さである。

 ――慣れない何か。歓迎会というその場自体が、慣れない空間であったことは確かだ。俺は人生で初めて、あのようなホームパーティに参加した。しかしこれも、今の倦怠感と繋がるような要素はないように思えるのである。と言うのも、慣れないなりにも楽しめていたからである。特に薫の料理は衝撃的だった。三ツ星レストランの料理を食べた事はなかったが、それを想像できるくらいの腕前だった。今まで栄養摂取としてしか考えていなかった食事を、あそこまで満足して食べられるとは思ってもみなかった。

 詰まるところ、この倦怠感の原因が、全く思いつかないのである。

 俺は這うようにしてベッドから降り、覚束ない足取りで部屋を出た。廊下に出ると、昨晩のような華やかな雰囲気は消え去り、静けさが戻ってきている事が見て取れた。明るいトーンのフローリングが、無駄に太陽光を反射している。俺は煩わしく目を細め、居間に向かった。

 居間の方も、すっかり元通りになっていた。馬鹿みたいに天井に浮かんでいた風船は撤去され、各種装飾も取り外されて無くなっている。机上の皿も片付けられ、茶色い板面が露になっている。台所の方に行ってみると、やはりこちらも片されている。かなりの量の食器があった筈だが、シンクには勿論、乾燥棚にも食器は置かれていなかった。恐らく、既に食器棚の中に片付けられているのだろう。仕事が早い、とでも言えばいいのだろうか。

 俺は台所を出て、居間のソファに座った。

 誰もいない。

 それは当たり前の事だ。黙静課メンバーは歓迎会に招待されて来たのだから、終われば帰る以外に何もない。時折泊っていく人もいるかもしれないが、こうも人気が無いのでは、帰ってしまったと考えるのが自然だろう。

 それにしても、だ。妙に違和感を覚えるのはどういう事だろうか。

 この家には何故か、時計が置かれていない。それは薫が必要としていないからなのかもしれないが、どうも不便で仕方がない。俺は未だに居間に置かれたままになっている私物入りのリュックを開き、そこから腕時計を取り出した。

 時刻は午前十時四十六分。日付は――。

 俺はむせ返りそうになっていた。寸でのところで押し留め、今一度時計の日付の欄を見る。

 間違いはない。

 歓迎会のあった日から、丸三日経った日にちが、そこに書かれていた。

「……………………は?」

 無意識に言葉が零れる。何がどうなれば、記憶が三日も飛ぶのか? 否、三日間も寝込んでいた、という方が正しいのだろうか。どちらにせよ、意味が分からない。もしや、腕時計の方が壊れてしまっているのだろうか。

 今度はリュックからノートパソコンを取り出し、それを起動させる。初めに出た画面には、先程見た時刻から数分経ったことを示す数字と、同じ日付が記されていた。

 即刻シャットダウンし、パソコンをリュックサックの中に仕舞う。それから一息ついた後、ソファから立ち上がった。まだ倦怠感が抜けきっていないが、歩き回れるほどの気力は戻ってきているようだ。俺は居間を出て、薫の居場所を探して回る事にした。

 一階の四つ目のドアを開いたところで、ベッドの上に誰かがいる事に気が付いた。近付いて確認すると、どうも見覚えのある金髪女が寝そべっているではないか。

 彼女はうーんと唸りながら、寝返りを打った。一応揺らしてみたりはしたけれど、起きる気配が無かったので、放置してその部屋を出た。

 次の部屋では、ベッドから落っこちたように思われる、片桐の姿があった。腕力の無い俺にはどうすることもできないので、これも放置する。続けて別の部屋を開けると、そこでは土方が眠りこけていた。寒がりなのか否かは知れないが、布団にくるまって静かに寝息を立てている。ミラ・スワンと同様に体を揺すってみたけれど、やはり起きないので、これも放置。

 此処まで来ると、ある予感が俺の脳内を支配し始めていた。相変わらず日付が三日も経っていた理由は分からないが、三人、いや俺を含めた四人が、今の今まで熟睡していたとなると、歓迎会の時点で、何かがあった、若しくは何かをされていたに違いない。

 その何かを断定できるものはないが、どうも嫌な予感がする。

 二階に上がり、初めの部屋を開くと、ベッドの縁に座った李深蓝がいた。彼はまだ寝ぼけ眼のようで、目を擦りながら俺の方を見ている。

「おはよう、佑磨君。夕べは遅くまで起きていたと思うけど、朝早いんだね」

 恐らく彼もまた、俺と同じような倦怠感を覚えているのだろう。俺は顔を顰めた。

「全然早くない。あれから、三日も経っている」

 李深蓝は目を丸くした。何処からかスマートフォンを取り出し、日付と時刻を確認する。開かれていた切れ長の目が、さらに大きく見開かれた。この様子からすると、彼も今の今まで寝ていたに違いない。

「嘘でしょう!? 三日も寝続けていた……!? じゃあ、今日は平日……、あ、出勤」

 あからさまな動揺っぷりに、俺はどのような言葉を返せばいいのか分からないでいた。取り敢えず、一番怪しいのが薫である事は、まず間違いはないらしい。

「他三人も、一階で眠りこけていた。起こそうとしても起きないから、放置したままになっているけれど」

 目の前にいる男は、さらに驚きの表情を見せた。次第に、その表情が緩和されていく。まるで、何かに合点がいったような様相を呈していた。彼は次第に破顔し、あははと乾いた笑い声をあげる。

「いやー、一服盛られていたみたいだね」

 何を言い出したかと思えば、全く意味が分からない。何をどうすればこのように納得できるのかさえ、理解不能である。

 俺が訝しげな顔をしている事に気が付いたのか、李深蓝は薄い笑みを浮かべたまま解説を始めた。

「昨日……じゃなくて、三日前の晩、君の記憶は何処で途切れてる?」

 そうやって問う彼に、俺は「ケーキを食べたところ」と答えた。彼は満足そうに頷く。

「そうだね。君があのチョコレート製のプレートに書かれた、『芹沢佑磨』の文字に憤っていたこと、僕も覚えているよ」

 俺は眉根を寄せた。できれば、その事を蒸し返してほしくなかった。

 あまり話したくはないが、若槻がケーキを持って居間に入ってきた時、俺はその文字を見て立ち上がりそうになったのである。何故かと問われれば、俺が薫の弟扱いされたことになるからだと答えよう。改めて言う必要もないかもしれないが、俺の名字は「蘇芳」である。そして薫の名字は「芹沢」だ。「芹沢佑磨」と書くなんて、あの傘専門店での出来事をからかっているようにしか思えない。

 そこで一番驚いたのは、ミラ・スワンが本気で俺の事を薫の弟だと思っていた事だ。なるほど、あの時やけに食い下がってきたのは、その為だったのだ。彼女もまた、まんまと薫に騙されていたわけである。

 思い出したくもない事を思い出して苦い顔をしていると、李深蓝が憐れむ顔をして見せた。

「まぁ、それも一興というわけで、割り切ろうじゃないか」

「……その事については、割り切る以前に忘れたい」

 彼は再度乾いた声で笑う。

「うん、それもそうかもしれない。ところで、問題はそのケーキだね。僕が一服盛られた、と言ったのは、そのまんまの意味だよ。ほら、よくドラマとか漫画とかであるじゃないか」

 言われて、ありそうなシチュエーションを想像してみる。理由の分からない倦怠感の事も併せて考えた。けれどすぐに、俺はその考えを振り払った。

「有り得ない。そんなことするか、普通?」

 しかし、李深蓝は残念そうに首を横に振る。

「普通じゃないから有り得るんだよねぇ。睡眠薬を盛られるなんて、最早日常茶飯事だよ」

「だから、何でお前らはそういう事をさらっと言うんだ! そんな事が日常茶飯事であったたまるか!」

 荒げた声で言うが、李深蓝は息を吐くに留まった。

「仕方がないよ。此処は変人の集合体と言っても過言じゃない場所だからね。若槻君の被検体にされることは、よくある事なんだ。これは慣れてもらうしかないよ」

 俺は言い返そうとしていた言葉を、早くも失ってしまっていた。口をぽかんと開け、暫くベッドの縁に座る男をまじまじと見つめる。

「……もう一回、言って貰えないか?」

「慣れてもらうしかないよ」

「そこじゃない。もう少し前」

 言われて、李深蓝は折り曲げた指を顎にそっと当てる。

「一服盛られていたみたいだね」

「戻りすぎだ。もっと後の言葉」

「……睡眠薬を盛られるのは、日常茶飯事だよ」

 俺は半眼になり、「一旦睡眠薬から離れろ」と条件づけた。そうして、彼は漸く俺の求めていた言葉を口にしたのである。

「若槻君の被検体にされることは、よくある事。これかな?」

「それだ。……この犯人は、薫じゃないのか?」

 李深蓝は目をぱちくりとさせ、次第に表情を緩めていった。

「薫さんはそういう事をしないよ? 若槻君の行為を黙認することは多々あるけれど」

「それは共犯と言っていいんじゃないのか?」

「どうなんだろう。一応彼は条件付きで此処に所属しているから、ある程度の事は許容しておかないと困るのかもしれない。それに、彼は僕らを殺すような真似はしないからね。そのへんは、スペシャリストだから問題ないよ」

 お気楽そうに笑う。言い返したいことは山々だが、これ以上何を言っても、「仕方がない」の一点張りになるのだろう。俺はここらで諦め、状況の整理をする。

「つまり、若槻さんに睡眠薬を盛られたせいで、俺たちは三日も眠りこけていた、と。それは若槻さんの実験に強制参加させられていたからだという事だな」

「そうだね。彼はいきなり実験を始めるから、大抵巻き添えを喰らうんだ。……あの時、彼が部屋に籠ったのを疑うべきだったね」

 痛恨のミスとでも言いたげに、額に指をあてる。そこで、俺の脳内にとある疑問が浮上するのである。

「避けることも可能なのか?」

 俺が問うと、考えに耽っていた李深蓝が、視線をこちらに向けた。

「まぁまぁ可能だよ。現に、薫さんは一度も引っかかったことが無いからね。ほら、あの時薫さんだけケーキを食べていなかったじゃないか」

 言われて、その場面がありありと思い出された。確かに、ケーキを切り分けはしたが、口にはしていなかった。その切り分けたケーキというのも、確か六等分だった。

「え、じゃあ、若槻さんも食べたのか?」

「彼も隅の方で食べていたね」

「一服盛った張本人なのに?」

 しばし沈黙が訪れた。それを破ったのは、李深蓝である。

「確かにそうだね。今まであまり気にしたことはなかったけれど。……彼は自分も被検体の数に数えているみたいだよ」

 俺は狐に包まれたような思いをした。他人を巻き込んでまで実験をしているにも関わらず、自分自身も被検体と見なすなど、一体誰がその結果を確認すればいいというのだろう。況してや、自分が寝ていては誰がいつまで寝ていたかなど、尚更分からないではないか。

 そこまで考えて、頭の片隅に別の考えが浮かんでくる。

「もしや、薫が実験結果の記録をしているのか?」

「ご明察! どうやっても薫さんからだけはデータを得られないから、彼女に結果記録を任せて、代わりに自分を被検体にしているんだよ」

 満足そうに李深蓝は言う。俺は眉根を寄せた。

「それなら、被検体の数を一人分減らせばいいだけなのに」

 俺の言葉に、彼も苦笑する。

「それもそうだね。そのへんは、僕にも良く分からない。だから、直接本人に訊いてみるのが一番いいんじゃないかな?」

「訊きたくない」

「うん、僕もそう思う」

 乾いた笑い声が、部屋中にこだました。


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