Ⅱ 黙静課⑮
「……それで僕はね、盗み聞きはいけないと思っているんだ」
俺から手を放した李深蓝は、誰に向けてか、唐突にそのような言葉を放った。顔はこちらを向いていたが、俺と視線が合っていない折、俺に向けて言った言葉ではないのだろう。土方に対しても然り。彼は柔和な笑みを浮かべたまま、誰もいない場所に視線を向けつつそう言ったのだから。
数秒の誤差があって、彼の背後の――ソファの陰から物音がした。何かが動いた事によって起こる、布が擦れるような音だ。それから間もなくして、彼の背後にいた何かは、のそりと立ち上がった。
二人目……いや、三人目と言った方がいいのか。恐らく、李深蓝よりも背の高い男が姿を現した。細身なのに、服の上からでも筋肉質であることが覗える。目つきも鋭く、獲物を狙う鷹の如く視線をこちらに向けてくる。左目の下から頬にかけてある、幾何学模様の刺青も、彼の厳つい様相をさらに助長してしまっていた。
彼に押さえつけられてしまえば、俺のような非力な人間は、一瞬で骨を折られてしまう事だろう。少なくとも、見た目だけでそう思えてしまう程、彼の図体は威圧感で溢れている。
ただし、と此処で否定の文を持ってくるのは、俺が否応にもそう思わざるを得なかったからである。男の体は先述した通り、威圧感が醸し出され、突然対面すれば、対面した側は意味もなく恐怖や不安を感じる事だろう。しかし、どうしてか、存在感が薄いようにも、俺には思われるのである。
威圧感があって、尚存在感が薄いなどというのは、とんだ矛盾を孕んでいる。これに関しては否定しようがないのだが、目の前にいる男を一目見た印象がそうであったことも、また事実なのだ。恐らく、彼が誰にも――少なくとも俺に、気付かれずに近くまでやってきていたところを見ても、それが言えるのではなかろうか。
気配を殺してやってきたのでは、と考える人もいるかもしれないが、特に気配を消して近寄らなければならない状況でもないのにそんな事をするとは、滑稽な話にしかならない。加えて前提として、彼はこのふざけた歓迎パーティに来ているくらいなのだ。嫌悪感も、憎悪も、勿論殺意なんかも持っていないだろうし、一匹狼のように人を跳ね除けたりするような人でもないのだろう。それなら、多少の違和感はあれど、納得できない事ではない。
「好きで盗み聞きをしていたわけじゃない。ただ、入るタイミングを見失っていただけだ」
この男も、表情を変えずに話す質らしい。李深蓝よりもさらに低い声で、男はぼそりと呟いた。それを聞いた李深蓝は、彼もまた顔色を変えずに返す。
「表現が素直すぎるのは、かえってせいせいするよね。見失うのは良いけど、君はもっと、積極的になるべきなんじゃないのかな」
彼の言葉で、俺は早々に合点がついていた。
何故、この目の前に立っている男は、存在感がやけに薄いのか。
それは、彼が――良い言い方をすれば、寡黙だったからなのだ。ストレートに言えば、消極的、ぼっち、引っ込み思案、受動的、無口、無抵抗、不器用、純情、純粋……などなど、きりがないくらいに言葉が浮かんでくるから、これくらいに留めておこう。
要は、彼の性格そのものが、そもそも彼の影を薄くさせる要因となっていたわけである。一応、李深蓝の言葉に反論していたとはいえ、「タイミングを見失う」という、最早自虐的な発言を口にしてしまったのも、それが原因なのであろう。
男は何を思ったのかいないのか、沈黙を続けた。棘のある言葉を吐いたにもかかわらず反応が無かったからか、李深蓝は面白くなさそうに溜息を吐いた。
「まぁ、それはいいのだけれどもね。君も自己紹介をしたらどうだい? 早速此処に、今日の主役が仰せらるからね」
自分の事は棚に上げ、彼は男にそう促す。男は本当に純粋な人間らしく、素直に俺の方に視線を移した。眼力だけは一人前を通り越して、貫禄があるといっても過言ではないくらいに凄みがあるのに、その瞳は至ってクリアだ。
「……片桐諭だ」
無言。確かに名乗りはしたが、イマイチ彼が何者なのか、はっきりとしない。取り敢えず、黙静課の一員である事には、間違いはないのだろう。俺は掴みにくい空気の中で、自分も名乗った。すると、片桐という男は、黙ってこくりと頷くだけで、それ以上のアクションを起こさなかった。
この無意味な程重苦しい空気に耐え切れず、俺は思わず隣を見た。土方は早々に気が散ってしまったのか、目の前に並ぶ豪勢な料理に視線を向けている。
「うん、これは薫さんを待った方がいいね。後二人もいずれ戻ってくるだろうから」
この空気を一新せんばかりに李深蓝が口を開いたが、彼が口を閉じてから同じ空気が戻ってきてしまったことは、言うまでもないだろう。
気まずいを通り越して逆に笑いが込み上げてきそうになった頃、カチャリ、と静かにドアが開いた。そこから、満足そうな顔をしたミラ・スワンと、大切そうに真っ白なホールケーキを抱えた若槻と、何食わぬ顔をした薫が姿を現した。
ケーキの上に乗ったチョコレート製のプレートに書かれた文字に目が行った瞬間、俺は立ち上がりそうになった。その勢いで手前のテーブルを蹴ってしまい、机上の食器が音を立てたので、俺は我に返って座り直した。
明らかに動揺した俺を見て、土方が不思議そうな顔をする。李深蓝にも理由が分からないのか、彼もまた、小首を傾げる。片桐に関しては、継続して反応なしだ。
二人が俺の動揺を理解できなかったのは、以下の事が挙げられる。土方が居間に入ってきた三人を見た時には、既に若槻が台所に入り、薄い壁でケーキが見えなくなってしまっていたから。李深蓝はそもそも、俺と対面して座っているから、入ってくる三人とは背を向けている事になるために、振り返りでもしなければ、見ることが出来ない位置にいたから。
これより、二人はケーキに乗ったプレートに書かれた言葉を、見ることが出来なかった。だから、俺の動揺を理解できないでいるのだ。
薫とミラ・スワンが、ソファの近くまでやってくる。それこそ、プレートに書かれた言葉をもろに見ている筈の二人が、特に疑問を感じていないと言った顔をしているという事は、共犯の可能性が高い。薫に至っては、ニヤニヤ笑いながらこちらを見ている。
俺は完全に確信犯だなと思いつつ口を開こうとすると、それを遮るようにして、薫が先に言葉を発した。
「それじゃあ、みんな揃った事だし、歓迎会を始めようじゃないか」
そう言い放ってから、ニカッと、あたかも無邪気な子供のような笑みを浮かべる。俺はすぐさま非難の視線を送ったが、彼女に取り合って貰える筈もなかった。薫は俺の抗議を完全に無視して、言葉を続けた。
「もう紹介は終わっているかもしれないけれど、もう一度だけ、僕の方から黙静課メンバーの紹介をしておくね」
飽くまでも、彼女のペースで進めるつもりでいるようだった。用を終えたらしい若槻が、台所からこちらへやってくる。薫の斜め後ろら辺で立ち止まり、突っ立ったまま空間を凝視し始めた。その様子を見たのかいないのか、薫はタイミングよく順番に名前を連ねていった。
「まず僕から。改めまして、芹沢薫です。一応、『黙静課001』ってナンバリングされているけど、君の上司でも何でもないから、肩肘張らずに接してくれればいいよ。どうぞよろしく」
薫は右手をひらひらと振り、「それから……」と続ける。
「僕の左隣のソファに座っているのが『黙静課002』の、李深蓝。先のゲームでは、辛抱強く図書館で場所取りをしてくれていたね。えーっと、次は、僕の後ろにいるのが『黙静課003』の、若槻陶也。ゲームでは戦力外だったね。それで、隣にいるのが『黙静課004』の、ミラ・スワン。スコレーでのアルバイト、お疲れさん。……因みにあそこって、時給幾らだったの?」
話を振られたミラ・スワンは、大きな瞳をぱちくりと開け、少しばかり考え込んだ。
「そうね、確か千五百円だったわ」
金額を聞いた薫は、「ふーむ」と意味深な顔をした。
「場所が場所だから、アルバイト集めもきっと大変なんだろうね。……もう少し手伝ってあげたらどう?」
「嫌よ。あんな山奥に通い続けるなんて、正気の沙汰じゃないわ。三ヶ月でも譲歩した方だと思って欲しいくらいよ!」
ミラ・スワンは、キンキンときつい高音で返す。薫は肩を竦めて、「強要しているわけじゃないよ」と息を吐いた。
「じゃあ、気を取り直して次に行こうか。リー君の背後霊みたいにボーっと突っ立っているのが、『黙静課005』の、片桐諭。主に佑磨が寝泊まりに使っていた公園での警護をしてくれたね。それで最後に、佑磨の隣に座っているのが『黙静課006』の、土方稀。稀は日中の護衛をしてくれたんだよね。途中で接触しちゃったみたいだけど」
高い位置から笑みを崩さずそう言う薫に、土方はバツが悪そうに「いやぁ、ごめんね?」と軽く謝った。薫は特に憤っていたわけではないらしく、ニコリと笑っただけで、土方の言葉をすぐに受け流した。それから俺を見据え、口の端を上げる。
「以上、黙静課メンバー紹介でしたぁ」
彼女は「ぱちぱちぃ」と声に出しながら、一人で拍手をする。その拍手に乗らないのが、このメンバーの特徴とでも言えるのだろうか。
俺は堪えていたものを吐き出すかのように、口を開いた。
「いやいやいや、ちょっと待て。さらっと言うな、さらっと。土方さんとリーさんと、スワンさんがあのゲーム内に居たという事には気付いていたが、片桐さんもいたのか? というか、公園での警護ってなんだ」
心外な質問だったのか、薫は目を瞬きながら、それでも律儀に答えた。
「あんな夜の公園に、子供一人で寝泊まりって、危ないじゃん。だから、一人見張りを付けてたってだけなんだけど。……もしかして、会わなかった? いや、そりゃ会わないか。いや、会えない? うーん、違うなぁ……。あ、そうか。片桐君は気付かれなかったんだ!」
指を鳴らし、一人で満足そうに納得している。失礼な事を言われた当の本人は、相も変わらずノーリアクションだ。俺は数日前の事を思い出しながら、彼らしい人物が記憶になかったか否かを探り始めた。
会わなかった、というか、気付けなかったというのは、俺が件のドームに入った後に彼が警護を始めていたからに違いない。……しかし、夜中に起き続けるというのも、大変な労力を使わせてしまったものだ。
俺は無反応な男に同情しつつ、検討を固めていた。
「……気付いていない事はない。一回だけ、ドームの外で体育座りの体勢で眠りこけている奴を見かけたからな。顔は見えなかったが、髪の質からして恐らく間違いはない。その時は警護されているなんて思ってもみなかったから、ただの不審な人物としか認識してなかったが」
長々と呟くと、薫は厭らしい笑みを浮かべてこちらを見据えた。一度だけ、ちらりと片桐の方を見たが、すぐに視線をこちらへ戻す。
「ふむふむ。じゃあ、佑磨は既に若槻以外、全員に出会っていたわけだね。それがすれ違っただけにしろ、見ただけにしろ、会話をしたにしろ、ね。まぁいいか。別にこのゲームに完璧なまでのクオリティを求めていたわけでもないし。単に、佑磨から確実なゴーサインが出てくれれば良かっただけの事だから」
「だから、そういう事をさらりと言うな」
「別にいいでしょ。佑磨もそれを承知した上で、許諾したんじゃん。言っとくけど、取り消しは受け付けてないよ?」
「どこのブラック企業だ」
薫と話していると、疲れてしようがない。俺は目を伏せながら、続ける。
「……取り消すなんて、俺は一言も言っていない」
「うん、そうだね。言えないよね」
俺の眉間にしわが寄る。
「言えなくても、そうでなくても、俺は言わないんだ」
言い切ると、薫は「ははーん」と意味ありげに笑った。
「あくまでも、自分の意志で決めたって言いたいわけか。まぁ、別に構わないけれどね、それでも。君がどう捉えていようと、僕がどう捉えていようと、状況にはあまり関係のない事だから。……さて、そろそろ食事に移ろうか。折角僕が腕を振るって作ったのに、料理が冷めちゃあ意味がない」
薫は柔和な笑みを浮かべ、皆に向けて、「さぁ、おあがり」と言い放った。その言葉で目の色を変えて食事に手を付けたのは、意外にも、隣にいた土方だった。がっつく、とまではいかないが、ものすごい勢いでオムライスを平らげていく。
他の面々はそれを見た後に、和やかに食事を始めた。それで衝撃が幾分か解消され、俺も目の前に置いてあった、『007』とケチャップで書かれたオムライスを一口食べてみる。
俺は何度か瞬いた。暫くして、思考がフリーズしている事に気が付く。
側の卵が、口の中でほろりと解け、中のチキンライスと程よく絡み合う。市販のケチャップを使っている筈なのに、全体的にあっさりとした、上品な味わいだった。
率直に言えば、今まで食べた事がない程のおいしさだった。俺の母親が、父親のために腕を振るって作った時の料理とは、最早比べてはならない程だ。此処まで来ると、一人で店を開けてしまいそうである。土方が猛スピードで食べ出す意味も、分からなくはない。
俺は薫の方を見た。彼女は鶏か七面鳥か、どちらかは知れないが、その丸焼きを切り開いている最中だった。手際が良く、配分する皿への盛り付け方も小洒落ている。
確か、本職はプログラマーだったような。
そんな言葉が、脳内にぼんやりと浮かぶ。しかし、世の中には多彩な能力をお持ちの方が時たまいらっしゃることを思い出した俺は、深く考えることをやめた。それよりも、食べることに専念した方がよさそうだ。土方に全部食べられてしまう前に。




