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香記  作者: 鏡春哉
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Ⅱ 黙静課⑭

「ねぇ薫!! 若槻が部屋に閉じこもって出てこないんだけど!」

 ドアが破壊されんばかりに勢いよく開かれ、甲高い声が居間に鳴り響いた。

 俺は目を剥いて、その光景を見ていた。音に驚いたのではない。文字通り、視覚が感知した情報に驚いたのだ。

 突如乗り込んできたその女は、俺の記憶に新しい人物だった。

 傘専門店「スコレー」で働いていた、外国人と思われるアルバイター。

 彼女のセミロングの金髪は、今はと言えば一つに結ばれておらず、毛先がふわりとカールされている。しかし、その彫りの深い顔、青い瞳は、紛れもなくあのバイトの女のものだった。

 ドアの近くに位置する台所にいた薫は、不機嫌そうに手を止めた。

「もう少しボリュームを下げてくれるかな。夜は音が良く響くからね。近所迷惑になってしまうよ」

 そして何事もなかったかのように作業を再開する。金髪女は台所まで近づき、居間と台所を仕切る低い壁に寄りかかった。

「でも、若槻がプレートを持ってるから、出て来てくれないと困るのよ!」

「お腹が空いたら出てくるでしょ」

「その前に、プレートが融けちゃうわよ!」

 女は、バンバン、と壁を叩く。一々主張の激しい女が面倒になったのか、薫はあからさまに嫌そうな顔をしながらタオルで手を拭いた。

「ちょっと、家が壊れるじゃん。分かったから。……どの部屋に籠ってるの?」

 女は分かりやすく明るい顔をして見せ、「こっちよ!」と叫んで、薫を引っ張って居間を出て行った。恐らく、俺たちの事は見えていなかったものと思われる。

「……もしや、今のも黙静課メンバーなのか?」

 俺は二人が出て行ったドアの方を見たまま、隣にいる人物に問いかけた。質問を投げかけられた土方は、あははと静かな笑い声を立てた後、「そうだね」と肯定した。

「あの人の名前はミラ・スワンで、アメリカ人なんだ」

「へぇ。外国人も居るのか」

 俺は平坦な口調で感想を零した。土方が苦笑する。

「他にも一人、外国人の人、いるよ? 黙静課って、人材の幅がかなり広いからさ」

「それについては特に問題視していない。この年齢の俺を入れようとした時点で、メンバーも幅広い層で集められている事は、目に見えている。……そうじゃなくて、あの女――ミラ・スワンと言ったか。ミラ・スワンは『スコレー』でアルバイトしていた女と完全に一致する気がするんだが。気のせいではないよな」

 冷めた目で土方を見遣ると、土方は、やっぱり気付いちゃった? とでも言いたげな表情で笑っていた。

「何だ。お前含めて、メンバーが俺の監視をしていたわけか」

「うーん、それもある事にはあるんだけど。大筋は、護衛だと思うよ?」

「……護衛? さっきみたいなのに襲われないように、か?」

 土方は「うん、そう」と真面目くさった顔で言う。

「その事に関しては、あんまり詳しく聞かされていないんだけど。取り敢えず君、何かに狙われているっぽいね」

 土方の曖昧な言い回しに思わず顔を顰めたが、詳しく聞かされていないとなれば、仕方がないとしか言いようがない。

 俺が悶々と思考の海に埋もれ始めていると、感覚の向こう側で、再度ドアの開く音がした。おおよそ、若槻を説得して部屋から引っ張り出した薫ら三人か、若しくは失敗して早々に諦めて戻ってきた二人か、そのどちらかだろう、と脳内の片隅で思考する。

 しかし、実際はそのどちらでもなかった。

 部屋の中に入ってきた人物は、薫でも、ミラ・スワンとかいう、アルバイターまがいの女でもない。というか、性別がまず違う。勿論、若槻ではないという事も言っておく。彼というには、些か目の前にいる男は背が高すぎる。

 ひょろりとした細身の男は、色鮮やかな風船をゆらゆらと揺らしながら居間の中を彷徨う。お陰で、一向に彼の顔を拝むことが出来ない。けれども、彼の身に着けている、すっきりとした高価そうなグレーのスーツには、何処か見覚えがあった。いや、見覚えがある、と断言しても、それは決して言い過ぎにはならない。何と言ったって、俺の記憶力は並以上なのだから。

 男は風船で溢れかえっている天井の疎密を見ていたのか、希薄な場所に立つや否や、手に持っていた風船を解き放った。解放された風船たちは、不規則に上昇し、天井に当たって何度か上下運動をした後、自らの位置に収まった。その様子を、満足そうに見上げる男が一人。

 俺の予想は、残念ながら的中してしまっていた。

 先日利用した図書館にて、席を譲ってきた利発そうなサラリーマン(仮)が、今俺の目の前に立っている。彼は俺と土方がいることに気付いていなかったのか、ソファの方を向いて、切れ長の目を大きく見開いていた。

「おっと。もう帰ってきていたんだね。……じゃあ、急がないと」

 そう言って居間を出て行こうとする男を、俺は呼び止めた。

「待て。もしや、まだ風船を量産する気か?」

 足止めをされた男は、特に不快そうな表情をするもなく、きょとんとした表情で答えた。

「そうだよ? まだ埋まってないからね」

 天井を指さしながら言う。俺はつられて天井を見たが、もう十分すぎる程に埋まっている。

「ぎゅうぎゅうに詰めたところで、視界を邪魔するだけだ。そうでなくてもちらついて鬱陶しいのに、これ以上増やされたらたまったものじゃない」

 そう言い返すと、彼は暫く高い位置から俺の事を凝視した。しかしやがて、視線を左方向にずらす。そしてまた、同じ表情でそこを凝視するのである。それを、話を振られたと認知した土方が、「えーっと」と声を漏らした。

「私ももう、十分だと思うよ? って言うか寧ろ、装飾として成り立ってるのかな、これ。今頃の美的感覚って、こんなものなの?」

 次第に、自信をなくしていく土方。しかし、当の男は居間を出て行くのをやめ、向かい側のソファに腰かけた。彼の長い足が、より際立ってくる。

「さぁ? 薫さんに言われてやってただけだからね。正直、日本の美的感覚がこういうものなんだと、僕は思っていたんだけれど」

 相変わらず、彼は表情を変えずに言う。まるで、それが当たり前であるかのような口振りに見えてしまう。土方はうーんと唸り、「それは……」と苦々しそうに口を開いた。

「薫さんの美的感覚がおかしいんだと思う。それか、適当に仕事を与えただけ、とかも有り得そうだよね」

 男はまた、土方を凝視した後、大きく息を吐いた。

「……確かに有り得るね。装飾担当、初めは僕だけ無かったんだよ」

「それって、完全に黒じゃない」

「黒だったね」

「ご愁傷さまって、言ってあげたらいいのかな」

「何も言われないよりはマシだよ。気遣い、どうもありがとう」

 二人して、乾いた声で笑った。しかし、その笑いが長続きするようなことはなかった。次第次第に途切れ行き、最後には溜め息になる。

「充填用のヘリウム、結構頑張って探してきたんだけどな」

「寧ろ、どうやってこの量を探してきたのよ。ネットショッピング?」

「……知り合いの店」

「……あなたって、時々規格外なこと言うよね」

「そりゃあどうも」

 沈黙。

「それで、俺はいつ会話に入っていったらいいんだ?」

 土方と男の視線が、瞬時に俺の方へ向いた。

「いつって、今入ってきたじゃない」

「言葉が足りなかったな。その会話の内容に、いつ入ればいいんだ?」

 土方は不可解そうに顔を歪めた。男は表情こそ変わらないものの、何かを考えるそぶりを見せるように、曲げた指をそっと顎に添えた。

「この会話の内容に入って、君は何がしたいのかな?」

 男が問う。俺は半眼になって、即座に返した。

「決まっている。あんたが何者であるかを知りたいんだ」

「それは、会話の内容に入ってくるのと、些か話が違うんじゃないかい?」

「そうでもないだろ。この中では完全に俺だけがアウェイなんだ。知った上で、話に入り込む権利くらいあるはずだ」

「確かにその通りだ。でも、さっきの話なら、もうとっくに終わった筈……」

「あーもう! 何くだらない事で言い合ってんの、二人とも! それにリーさん、大人気ないでしょ。名前くらい、普通に教えればいい事じゃない」

 埒が明かないと判断したのか、土方が俺たちの会話に割って入ってくる。リーと呼ばれた男は、「まぁ、そうだねぇ」と素直に受け止めた。

「それは別にいいのだけれど。大人気ない、はどうなんだろう。此処にいる時点で、僕らは大人として……少なくとも、薫さんよりは大人にならなくちゃいけない」

 淡々とした言いようだった。俺は口が開きそうになるのを寸でのところで止め、今放たれた言葉を反芻する。土方でさえ、暫したじろいでしまっている。

 これ以上に、説得力のある言い方が在るだろうか。理由も根拠も何もないのに、何故腑に落ちてしまったかなんて、言いたくもないが、一度使ってしまっている言葉なので、仕方がないからずるずると使う事にする。

 以心伝心。

 恐らく、薫以外の黙静課メンバー全てのものが、そう思っているのではないだろうか。そうでなければ、こんなふざけた事に誰も付きあったりはしないだろう。目の前の男が為した行為は、それほどに馬鹿げていた。そして、考えればすぐにそれに気付けるような事なのである。

 俺と薫とのゲームについても然り。図書館に居ただけの目の前の男が実際に何をしていたかは知れないが、それが分からなくても、彼があのお遊びに付き合っていたことは自明の事だ。

 こんな馬鹿げたことを、いとも簡単に周りにさせているのが、あの芹沢薫という存在なのだ。あまりに腹黒すぎて、或いは純粋すぎて、誰もが皆、彼女の本気と冗談を見分けることが出来ない。

 だからこそ。だからこそ、俺たちは大人にならなくてはならない。

 彼女の「本気の言葉」を取り溢さないために。

 その為には、何もかもを網羅しておかなければ、カバーすることが出来ない。故に、馬鹿みたいなことまでに付き合わなければならない羽目に遭うのである。

「……ゆ、ゆゆ、ゆうまっく、佑磨君にまでそれを課す必要はないじゃない」

 人の名前を言うのに、どれだけ噛んでいるんだ、と心の中でツッコミを入れつつ、彼女の言葉を聞いた。同じようにして聞いていたかは知れないが、男は指を組み、重苦しげな雰囲気を作り出す。

「此処のメンバーになった以上、これは義務だよ、土方さん。たとえ、薫さんが望んでいようと、いまいと、ね」

 きょろり、と黒い瞳が俺の方を向く。

「でも、君――佑磨君は、どうやらそれを認識しているようだよ。その必要性も」

 土方は目を見開き、彼女もこちらを向いた。俺は至って平静な顔をする。

「俺が子供だからと言って、我慢して子ども扱いしてもらう必要はない。……土方さんだって、俺の事、同級生扱いしていただろ」

 言われて思い出したのか、土方は情けなさそうに笑った。俺は構わず続ける。

「多少は大人と同じようにはいかないかもしれないが、要は、精神的に落ち着きを持っていれさえすればいいだけの事だろう? 後、ある程度の許容と言ったところか。……何にせよ、あの薫についていくためには、こちらもそれ相応に心得ておく必要があるのは、当然の理だと言うわけだ」

 男は、薄く笑みを作った。初めて俺に見せた、彼の表情だった。

「さすが、薫さんが選んでくるだけの人材ではあるね」

「あんたも選ばれているだろ」

 彼は目を伏せ、残念そうに首を横に振る。

「選ばれたことは選ばれているんだけれどもね。その選ばれることの意味合いが、少なくとも君とは違うんだよ」

 俺は眉根を寄せ、「どういう事だ」と呟く。彼は目を細めて、何処を見ているか分からない顔をして言った。

「僕は、警察庁とのパイプ役に選ばれた、所謂『誰がやっても変わりがない役』として此処にいるんだ。多少は条件付きで選んではいるんだろうけれど、君程入念な勧誘はなかったよ」

「……私もよ。こんなに大掛かりな勧誘なんてされなかった。面白い力を持ってるね、使えそうだから入らない? みたいな、かなり軽い感じの接触だった」

 土方も、真剣な顔をして言う。だから、俺もその話に乗ってやった。

「なら、俺も一緒だろ。ただ、成人しているあんたたちとは、少し勝手が違ったに過ぎない。それを抜きにすれば、俺も『使えそうだから、入れば?』って言われたようなもんだ」

 聞いていた二人は、きょとんとした目で俺を見てくる。

「……ませてるよね、君」

「私が同級生扱いしてしまっても、おかしくはないよね」

 二人して、失礼な言葉を口走る。それが意識的だったのか、無意識的だったのか、俺の知るところではない。ただ、俺は早いところ話が戻らないだろうかと、内心で苛々としていた。

「なら、名前を教えろ」

「文脈がおかしくないかい?」

 元の顔に戻った男が、俺に率直な感想を述べた。俺は顔を顰め、再度口を開く。

「なら、いい加減、名前を教えろ。これでどうだ」

「そうだね、いい加減自己紹介しておかないと、君に失礼だよね」

 俺と男の会話の外で、土方が小首を傾げつつ、「カーテンで隠してくれれば聞けるんだけどなぁ。あまりにも凸凹コンビ過ぎて、なんか、見てられない」とぶつぶつと呟いていた。

 男は如何にも営業用のスマイルと言った笑みを浮かべ、俺に視線を合わせてきた。

「僕の名は李深蓝(リ・シェンラン)。リーでもシェンランでも、好きなように呼んでくれたらいいよ」

「リ・シェンラン……。中国人か?」

 俺が呟くと、彼は乾いた声で静かに笑う。

「ははは、よく言われるけど違うよ。僕は台湾人と、日本人の、所謂ハーフというやつだよ。国籍は今、日本だから、日本人と言えるのかな?」

 李深蓝は「今」と言ったので、生まれは台湾なのだろう。どういう理由かは知らないが、取り敢えず俺は、黙静課メンバーのうちの全ての外国人に会ったわけである。

「因みに、元警察庁刑事局捜査一課だったんだ」

「それで、『警察庁とのパイプ役』か」

「察しが良すぎるよね。時々脳内がショート回路になったりしないのかい?」

 俺はわざと不機嫌な顔を晒し、彼を睨みつけた。李深蓝は両手のひらを見せ、「ごめんよ」と笑う。

 これに突っかかって行けば、また土方が仲裁に入ってきそうだったので、やめた。何となく、彼女に割って入られるのは、面白くなかった。

 俺は息を吸い、彼に向き直る。

「もう知っているかもしれないが、俺は蘇芳佑磨だ」

「うん、知ってる。でも、礼儀正しいのは良い事だと思うよ」

 今度は柔和な笑みを浮かべ、李深蓝は俺と握手をした。


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