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香記  作者: 鏡春哉
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Ⅰ 佑磨②

 平家物語に綴られた無常なんて言葉があるように、昔から人間には永遠というものがなく、盛者必衰の理があった。俺がこの言葉を心から実感したのは、俺が小二の時の、とある夏の日の事だった。

 あの日は一面に渡って青空が広がり、誰もが眩しい一日を送ったであろう日だった。

 そんな日に、俺の父親は死んだ。

 交通事故により、即死だったそうだ。

 足を痛めた老婆が横断歩道を渡っている際、その老婆に向かって一台の車両が突っ込んできたのだ。信号無視である。父親はその老婆を助けるべく、身を呈して死んだ。

 自動車を運転していた加害者は、飲酒運転だった。父親に助けられた老婆は、その後病院で治療を受けたが、事故のショックで死んでしまった。

 家に知らせが来たのは、事故の約一時間後。午後九時半頃のことだった。

 嬉々として受話器を手にした母親の表情が、一瞬にして蒼白になった。

 握力をなくしてしまったのか、母親の手から受話器が零れ落ちた。一度コツンと床と衝突した後、受話器は宙にぶら下がった。そこから聞こえてきたのは『蘇芳さん、大丈夫ですかっ。聞こえていますか! 蘇芳さん!』と、家の名字を連呼する、知らない男の人の声だった。

 何があったのか、などとは、訊かずとも分かった。

 母親がもぬけの殻となったからだ。

 母親は夫一筋だったのだ。それが、まるで魂でも抜けてしまったかのようにソファに座り込むなど、父親に何かがあったと考える他、ありはしないだろう。

 母親は俺に何かを言うこともなく、ただひたすら、遠くを見つめていた。今まで完璧にこなしてきた家事さえも、必要がなくなったかのように一切手を付けなくなった。

 幸い、コンビニ弁当を買うくらいの代金は、母親が出してくれた。正確には、俺が傍から代金を要求しただけなのだが、母親はまるで問われたら返すようなコンピュータみたいに、機械的に俺の要望に応えただけだった。

 コンビニ弁当暮らしが始まって一週間後。父親の葬式が行われた。

 医者の業界で有名だった父親の葬式には、参列する人も多かった。その殆どが、涙でハンカチを濡らしていた。平気そうな顔をする人もいたけれど、誰も笑みを浮かべるような不謹慎な人はいなかった。そこだけを見ると、父親は、医者としても、父親としても、本当に良い人だったのだと、改めて実感させられた。けれど一つ恨みがましいのは、母親を置いて逝ってしまったことである。

 俺を一人にしてくれるなら、まだ良かった。人間であって、人間でなくなったような母親を作り出してしまうくらいなら、二人ともいなくなってしまった方が、我慢が出来たというものを。

 中途半端に母親を残していったせいで、もう一つ、露見してしまったことがある。

 それは、父方の親族が、両親が結婚する上で出していた条件についてである。

 葬式が終わった後、親族たちは俺と母親を取り囲んで、俺の学習状況を確認し始めた。俺が公立の小学校に通っているがために、どこまで進んでいるのかを把握したいらしかった。というのも、父親の血筋は代々医者の家系である故に、彼らは二人が恋愛結婚をする代わりに、俺を必ず医者にすることを求めていたのである。

 彼らは、俺が亡き父から医学について多くの知識や、彼の研究内容を享受していたことを知ると、皆安堵の溜息を吐いた。そして口を揃えて、母親に向かって言うのである。

「これからも佑磨君を頼みますよ、美波さん」

「佑磨君を、ちゃんと立派な医者に育てるんですよ」

「でないと」

「あなたとは縁を切らせて貰いますからね」

 それまでもぬけの殻だった母親は、その時だけ、たったその時だけ、顔を強張らせた。機械のような動きには変わりなかったが、母親は意思表示をした。

 蚊の鳴くような声で、「はい、分かっています」と。

 どういう意味での縁切りなのか。詳しい事は分からなかった。けれど、母親がそれを恐れている事だけは、はっきりと分かった。そして俺はどことなく、虚無感を覚えたのである。

 葬式を終え、四十九日も過ぎると、参列者は驚くほど少なくなっていった。親戚の人たちは佑磨の事は任せたぞと母親に言いつけ、皆帰っていった。

 残された母親は、やはり何もしようとはしなかった。親戚の脅しが効いてか、事故直後程に何も手付かずになることはなくなった。言いつけを守るように俺を塾に通わせたし、家事にも手を付けるようになった。葬式前の一週間でゴミ屋敷と化していた部屋は、ある程度片付くようにもなっていた。

 毎日が同じことの繰り返しだった。朝に自力で起きる事は変わらなかったが、以前とは打って変わった、質素な朝食が食卓に並んだ。学校では相変わらずからかいの対象だったし、教師からも煙たがられていた。帰ってきても上の空で家事をする母親しかおらず、夕食も馬鹿みたいに質素な献立だった。

 母親はまるで、家事を事務的な仕事としてこなしているようだった。それは、誰のために家事をする、という、その誰という対象を失ってしまったからであった。母親は決して俺をその対象にしようとはしなかったし、何故か自分自身でさえも対象から外していた。

 非常に、献身的な人だったのだ。

 それ故に、ただ淡々と、一日は過ぎ去っていった。浪費するみたいに、時間だけが流れていった。時間はアナログだから、戻ってくるようなことはない。でも、俺はその時間を、無駄とは思わなかった。

 無駄であるということ自体に、気が付かなかったのだ。

 俺はどうしようもなく母親の子供であったから、母親の下で養われることが当たり前だと思っていた。だから、母親のために勉強をしたし、学校にも毎日欠かさず通った。塾でも好成績を上げ続けた。父親が続けていたという研究も受け継いで、その研究にも時間を割くようになっていた。かつて父親の同僚だったとかいう人たちからアドバイスを貰ったりしたけれど、彼らはどうも、俺のことをよく思っていないらしかった。

 感情の欠如している子だ、と。

 父親に似つかわしくない、と。

 ただ、研究するだけでは研究にはなりえないのだ、と。

 子供が出しゃばってくるな、と――。

 何を言われようと、俺はやるべき事をこなしていった。元々何かを追求することは好きだったから、一人だけで、のめり込んでいったのだ。

 それが仇をなした。母親の異変に気付くのに、遅れてしまう要素となったからだ。

 父が死んで、丁度一年が経った日。俺が小学三年生になった年の夏頃だ。その日から徐々に徐々に、母親は家事をしなくなっていった。主たる原因は、父親の命日にあるのだと思う。

 今思えば、愛情も何もない、モノトーンのような日常を、一年間もよく続けていられたものだと思う。その原動力が、父方の親戚からの圧力にあるという事実は些か解せないが、それでも、少しは褒めてもいいくらいに安定した一年間だった。

 しかしそれは、ダイナマイトの導火線のような時期であって、本体の方へと向けて、じりじりと火花が進んでいたのだと思う。つまり父親の命日は、その導火線がもう少しで消えてなくなるという、警告の日にちだったのだ。

 その頃は、新居同然だった頃の部屋と比べれば、多少生活じみた家になってきていた。すなわち、割とマシな環境下になっていたということだ。しかし、言うまでもないだろうが命日を境にして、瞬く間にゴミ屋敷へと逆戻りしていた。この原因は、殆ど俺にある。

 母親の家事が再び手付かずになったことから、コンビニ弁当生活が戻ってきていた。

 コンビニ弁当ではゴミが早く溜まってしまうからと思って、俺は一度、台所に入ったことがある。簡単な野菜炒めくらいなら、自分でも作れると思ったのだ。フライパンや菜箸、包丁、まな板など、調理器具の準備をしたところまでは良かった。続けて野菜を取り出そうと冷蔵庫を開いたのが、一生の過ちだったのだと思う。

 嗅いだことのない異臭が台所に立ち込めた。俺は顔を顰めながら即座に冷蔵庫を閉め、台所と居間の窓を全開にした。

 野菜やら肉やらが、腐っていたのだ。臭いだけでなく、色も薄暗くなっていて、腐ったものを見たことがないくせに、俺はそれが腐っているのだと認識することが出来ていた。それ程、食品たちは冷蔵庫の中で放置されていたのだ。

 俺はそれ以来、台所には入らないと決めた。ゴミが増えるのは致し方なかったが、食事はコンビニ弁当で済ませるという生活を続行した。

 俺にはそれ以外の家事のスキルなんてものもなかったから、正直、溜まっていくゴミを捨てるだけで精いっぱいだった。それに加えて、今までこなしてきていたものも、勿論やらなければならなかったから、俺は相当疲弊していたと思う。

 そして冀ったのだ。

 父親が、まだ生きていれば、と。

 おそらく母親もまた、同じことを考えていたのではないだろうか。

 父親がいたからこそ、俺たちは息抜きをすることが出来た。父親がいたからこそ、日常に潤いがあったのだ。

 俺は目の前のことに追われていたから、なぜ母親が家事をしなくなったのか、なんて些細な疑問を考える暇すらなかった。ただ単に、必要に迫られた故にその場凌ぎをしていたに過ぎなかった。

 だから。と言えばどうにかなる話でないことは分かっている。それでも、俺は言い訳をしておきたい。

 命日という、警告に気づかなかったのだ、と。


 警告日を過ぎてから二か月が経ち、秋も深まった時期に事件は起こった。父方の伯母が、家を訪ねてきたのだ。

 何故唐突に訪問してきたのかはさっぱり分からない。俺としては、時季外れの墓参りの帰りに、気紛れに立ち寄ったのではないかと思っている。そうでなければ、父親のいなくなったこの家に、伯母がわざわざやってくる必要性がなかったからだ。

 案の定、家の現状を見たその伯母は、ヒステリックな声を上げて母親を責め上げた。

「約束が違うじゃないの!」

「どうしたって、こんなゴミ屋敷に佑磨君を住まわせているのよ!」

「こんなんじゃあ、勉強どころではないわ!」

「生活すらもできないじゃないの!」

 しかし、上の空の母親に届くはずもなく。伯母は勝手に怒って、俺の腕を強く引っ張った。

「美波さん、悪いけれど。佑磨君は私に預からせて貰うわ」

 脱臼してしまうのではないかと思う程強く腕を引かれ、俺は伯母に連れていかれそうになった。けれど、その様子が母親の目に映っているのか否か。返事も碌にしないで、遠くを見つめたままソファに座っている。

 それを見た伯母は、ますます顔を紅潮させた。母親を蔑むように、鋭く睨みつける。

「佑輝との結婚、やっぱり認めるんじゃなかったわ! どこの馬の骨かも分からないようなあなたは、家の不幸の源だったのよ。こんな人と一緒にいたから、佑輝は早死にしてしまったんだわ! 嫌ね。汚らわしい」

 吐き捨てるようにして、伯母は言った。

この言葉には、母親も反応した。どこを見ているかはやはり分からないが、真っ黒な瞳がどろりとこちらを向いた。この時ほど、俺が母親を怖いと思ったことはない。

 異変に気付いた伯母は、不満げな顔をしながらも、何処か警戒心を抱いていた。「何よ」と強く言い返すも、返事は帰ってこない。

 母親は、ゆっくりと立ち上がった。ゆらゆらと覚束ない足で、こちらに近寄ってくる。俺は本能的にというのか、後退りをしていた。伯母は俺の腕を掴んでいたことを忘れてしまったようで、俺は簡単に伯母から離れることが出来た。そのまま、母親の視界から逃れるように、大窓を覆うカーテンの裏に隠れた。

 雨が降っていた。今までずっとカーテンを閉め切っていたために、天候など、把握することすらできていなかった。

 とても、気持ちの悪い秋雨だった。まるで、この後何か悪い事でも起こるのではないかと、非理論的なことを脳裏に過らせるくらいに、不気味だった。

 伯母の悲鳴が聞こえた。近所迷惑なんてものではなかった。

 喉が潰れてしまうのではないかと思う程の、雑音だった。俺は必死に耳を塞いだ。悲鳴の折節に、掠れた母親の叫び声も交じって聞こえてきた。

「私の両親が死んでいて、何が悪い! 私の孤独を救ってくれたのは、佑輝さんだけなのよ! 佑輝さんだけが、私の神髄に触れてくれたのよ! 私を慰めてくれたのよ! 私を救ってくれたのよ! だから、佑輝さんといるためなら、佑輝さんとつながっていられるのならって、私は何でもかんでも頑張ってきたのよ! 育てたくもないのに、佑磨を生んで、ここまで育ててきたのよ! ――それを、いけしゃあしゃあと蔑みやがって! 許さない、許さない、許さない、許さない! ――――お前らなど、死んでしまえ!!」

 何かがこと切れる音がした。俺は、カーテンの分厚い布を、力強く握りしめていた。カーテンの隙間から出ていた片目だけが、その光景をしっかりと焼き付けていた。

 妖怪のように伯母の上にのしかかる母親と、首に手をかけられ、ぐったりと床に横たわる伯母の姿。俺は動くことが出来なかった。否。動いてはならない気がした。

 母親の妖怪じみた黒い視線が、こちらを向いた。動かずとも、対象が俺に移るのは理のようだった。だが、無理もないと思ってしまった俺は、どうにかしていたのだろうか。

 母親は立ち上がり、伯母を踏みつけながらこちらへやってきた。頭の中では逃げろと警鐘が鳴り響いているのに、俺の足は竦んで一歩たりとも動けずにいた。

 真っ白に、乾燥しきった手のひらが伸びてくる。俺は首筋を見せまいと、深く俯いた。自ずと、カーテンを握りしめる手が強くなる。

 不意に、引っ張っていたものが軽くなった。無残な破裂音を立てながら、大量の布が上から落下してきたのだ。それは俺の首筋に母親の手がかかる寸前の出来事だった。

 目の前の人物に大きな布が覆い被さり、その動きを抑制した。逃げるなら、今しかないと思った。それでも、立ち去ることが出来なかった。

 布の下でもがくそれを見ていると、どうしても、ある強い衝動にかられてしまうのである。

 こういうのを、魔が差したとでもいうのだろうか。俺は無意識に布の両端を拾い上げ、中のものが出てくるのを待った。黒く長い髪が現れ、次いで白い顔が見えてくる。カーテンの陰に顎の輪郭が見えた時点で、今だ! と、心の中で叫んだ。

 交差させておいたカーテンの両端を強く引っ張り上げ、抵抗しようとする体を、無残にも足で踏みにじった。先刻伯母がもがいていたのと同じように、空気を求めて荒い呼吸をする。

 俺は引っ張る手を緩めなかった。無心になって、瞳から生が消えるのを待った。

 人が死ぬ、なんてものは、本当に簡単なことだった。八歳児の俺にでさえ、簡単に為す事の出来る作業(・・)だった。

 母親は苦しむのをやめた。俺はそれを確認すると、加えていた力をすべて緩めた。手のひらから分厚い布がすり抜けていく。時間差で、ゴトン、と鈍い音がした。

 俺は摩擦で熱くなった手のひらを見つめた。母親譲りの白い手が、真っ赤に腫れ上がっていた。けれど、痛みを感じることはなかった。もしかすると、痛みを感じる余裕がなかっただけなのかもしれない。

 俺は部屋の中を見渡した。

 静寂だった。

 同時に、終わったのだな、と思った。

 全てが。

 終わってしまったのだな、と。

 改めて二つの屍を目にすると、俺は嫌悪感を抱いた。このままここにいれば、自分自身までもがおかしくなってしまいそうだった。

 既に異常をきたしていることなど、その時の俺が気付く筈もない。今思えば、すべてが終わった後に、俺は正気を取り戻していたのだと思う。だから、再び無意識に支配されることを恐れたのかもしれない。

 殺意ではなく、後悔という恐怖の渦に自身が囚われてしまうことを。

 俺はどうしようもなく逃げ出したい気持ちにかられた。警察に捕まるのが怖いから、とか、そういう理由ではない。純粋に、今の状況から解放されたかっただけなのだ。

 だから、家を出た。

 家を出たところで逃げられない、なんてことは考えもしないで。

 風雨に晒されながら。

 行く当てもなく。

 薄暗い住宅街を。

 ただひたすら。

 家から遠ざかることだけを目標にして。

 彷徨い、

 彷徨い、

 彷徨い続けた。




 ――そうして俺は、あの女に出会ったのだ。


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