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香記  作者: 鏡春哉
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Ⅱ 黙静課⑫

 俺が起き上がろうと加えた力を緩めると、それを抵抗をやめたと捉えたのか、何かは再び薄気味悪い笑い声をあげた。

「物分かりがいい子は、嫌いじゃあないよ」

 ははははは、と息次ぐ間もなく「何か」は笑い続ける。

 「何か」は俺の頭をアスファルトに押し付けると、「どうしようかなぁ」と呟いた。おおかた、俺の殺し方でも考えているのだろう。潰すなり、刺すなり、引き摺るなり、好きなようにすればいい。ただ、その正体さえ明かしてくれれば、俺は満たされるのだから。

 置かれている状況に反して、俺も笑みを浮かべていた。その様子は、向こうには見えていないだろう。もし見えていたのなら、顔を地面に押し付ける程度では済まされないはずだ。

 何かが俺の殺し方を決めて、動き出した瞬間の事だった。遠くの方から、凛とした叫び声が響いてきた。

「そこまでよ! その子から手を放しなさい!」

 その声は、俺の知っている者の声だった。何とも、正義のヒーロー気取りのようなセリフで笑えそうになってしまったが、俺はその笑いを何とか堪えた。俺の自由を奪っている「何か」もそう思ったのか、「何馬鹿なこと言ってんの」と、嘲笑している。

「馬鹿な事じゃないわよ。命令してんのよ!」

 早々にキャラ崩壊しているが、どうやら俺を助けてくるらしいので、その点は放っておくことにする。しかし、「何か」の方は癇に障ったらしかった。

「何でテメーに命令されなきゃなんねーんだよ。それともなんだ。自分から殺されに来たってか?」

「そんなわけないでしょうが。あなた馬鹿なの? 何処に自分から殺されに来る人間がいるって言うわけ? あなた、脳みそを何処かに捨ててしまったんじゃないの?」

「お前っ! 馬鹿って言った方が、馬鹿なんだよ! つーか、脳みそ此処にあるし! お前ら人間よりよく出来た脳みそがな!!」

 よく出来た脳みそをお持ちのわりには、話している内容は幼稚園児並みですねとツッコんでやろうかと思ったが、状況が状況である。折角助けて貰えるのなら、この命を無駄にしては向こうに申し訳が立たない。

 しかし、と俺は思考を切り替えた。

 この「何か」は、「お前ら人間より」という言葉を使った。なるほど、確かに人間ではないらしい。だが、肝心な「何であるか」が全くもって分からない。その「何か」を、ヒーロー気取りの第三者がどのようにして退治するのかさえも、俺の想像の範疇を超えてしまっている。

 仕方がないので、俺はしばらく馬鹿みたいな会話を聞くことにした。

「よく出来たわりには、古典的な方法を使うのね。ストーカー行為で訴えられるんじゃないの?」

「テメーらの法律で、俺が裁かれるわけねーだろ! ほんと、お前何しに来たんだよ。ヒーロー気取りは最初だけだったのか?」

「別に気取ってなんかないし。その方が、雰囲気出るかな、って思っただけよ」

「最悪だな、お前! この子供が今にも殺されそうだってのに、悠長に雰囲気作りすんなや!」

「あなたに指図されたくないんだけど。それに、その子を助けに来たのは本当よ。曲がりなりにも、私だって警察の人間なんだから。ピンチはチャンス的に登場するのよ!」

「支離滅裂だな、おい。ってか、警察が何の用だよ。さっきも言ったが、俺には人間の法律は通用しねーよ。根本が違うんだからな」

「何も、法律で裁く、なんて言ってるわけじゃない。って言うか、そんな事、一言も言ってない。何が悲しくてあなたに慈悲を与えなきゃいけないって言うのよ」

「何が慈悲だ。人間ごときが笑わせる」

 この時、俺にのしかかっていた圧力が静かに消えた。完全に、対象が俺から向こうへ移り変わってしまっている。俺は何故そんなにも挑発するような言葉を続けるのやら、と半ば呆れながら立ち上がった。筋肉が悲鳴を上げるが、俺はスルーした。

「人間ごときって言ってられるのも、今のうちね!」

 街灯の光に照らされた第三者――土方稀は、不敵に笑った。

「はっ、アホかこいつ」

「アホはあんただって言ってるじゃない」

 俺は半眼になってこのやり取りを聞いていた。俺が目の前の「何か」から解放された時点で、彼女の使命は果たされている。それでも尚、馬鹿みたいな会話を続ける意味が分からない。

「あー、もうめんどくせー。一気にやっちまおうか」

 ヤバい雰囲気になりつつあることは、素人の俺にも分かった。今から何が繰り広げられるのかはさっぱり分からないが、取り敢えず、危ない事のようだ、ということだけは理解できた。

 俺はそっと、電柱の陰に隠れる。

 殺気、とでもいうのだろうか。何か、黒い靄のようなものが立ち込めている。本格的に人間では太刀打ちできないような状況になり始めたが、当の土方は至って冷静な顔をしている。懐から何か細長い紙のようなものを取り出し、右手の人差し指と中指とでそれを挟む。

 その紙に書かれていたのは、よく分からない文字と、五芒星。

 あぁ、胡散臭い。

 最早心の中に流れる感想ですら、棒読みになってしまっている。

 五芒星と言えば、陰陽師の類だろうか。そんなものは絶滅危惧種だと思っていたが、まだ生き残りが存在していたとは。いや、もしかすると、その信者が何かを血迷って、自分に力があるとでも思い込んでいる類の方だろうか。

 どちらにせよ、おっかない事には変わりない。

 俺は焦燥感漂う光景を、冷めた目で眺めていた。

 先に動き出したのは、「何か」の方だった。言葉で説明するのは些か難しいが、取り敢えず黒い靄が高密度にボール状と化したものを、手のひらの上に幾つも作った。それを、土方の方へ行けと指で合図する。ボール状のものは、命令通り、土方に向かって目にも留まらぬ速さで飛んでいった。土方はそれを軽やかなステップで避けていく。

 黒いボールが当たった場所では、馬鹿みたいな破壊音がした後、大きなクレーターが出来上がっていた。全体的な光景を形容するならば、隕石が落ちてきた住宅街とでも言っておけばよいのだろうか。

 ボールはかなりの速さが出ていた気がしたが、それを避ける土方はなかなか手練れているらしい。彼女への信頼度が、1、上がった。

 対する土方は、護符(?)を持った手を口元に近づけて何やら唱えた後、それを「何か」の方へ突き出した。するとあら不思議。紙の周囲から炎が巻き起こり始めたではありませんか。

 素面では見ていられない。馬鹿な光景には、馬鹿になって見ないとあっと言う間についていけなくなってしまう。通常なら、これが夢ならいいのにな、とでも思うのだろうが、俺はそうは思わない。俺の手のひらには、手の温度で暖まり始めたケチャップが収まっている。このように時間経過まで生々しく再現してくれる夢が、この世に存在し得るだろうか。

 「何か」の方は、土方にこのような隠し玉があるとは思ってもみなかったらしい。どうやら分が悪いと判断したのか、「覚えてろよ!」とこれまたベタな捨て台詞を吐いて夜闇に消えてしまった。

 完全に気配が消え去ったことを確認した土方が、俺の方に近づいてきた。少々、気まずそうな顔をしている。

「別に無理に説明しようと思わなくても構わない。後で薫を詰問攻めにするから」

 俺の言葉に安堵したのか、土方は漸く笑みを零した。

「そっか。良かった。これで避けられたりしたら、私どうしようかと思ってた」

 以前の「土方誘拐犯説」を未だに根に持っているらしい。俺は敢えてその話題には触れなかった。

「それにしても、少年A君は驚かないんだね。もしかして、見た事あ……」

「るわけがないだろ。あんなモノがいる事も、あんな事が出来る人間も、今日初めて見た。道理で、警察庁内で別枠扱いされているわけだ。……黙静課って、こんな奴ばかりが集まっているのか?」

 捲し立てて言うと、土方は苦笑いをした。

「うーん。超能力的なものを持ってる人は、あんまりいないと思うよ。そうでなかったら、私が護衛に任命される筈がないからね」

 俺は半眼になって、詳しい説明を求めた。この勢いに押された土方は、苦い顔をしながらも口を開く。

「私、あんまり出来の良い陰陽師じゃないんだよね、はっきり言って。だから、さっきくらいのなら追い返せるんだけど、追い返すに留まっちゃうんだよね」

「つまり、祓うなり退治なりが出来ない、と?」

 土方は口角を下げて、「うん、ぶっちゃけそういう事」と白状する。

「そんな中途半端な陰陽師を、薫は何で黙静課に入れたんだろうな」

「知らないよ、そんなこと。……でも強いて言えば、都会にいる陰陽師が少ないからじゃないかな」

「あんた、上京してきたのか?」

 彼女は首を横に振り、「いいや」と言う。

「此処生まれだよ。だから、かなり血は薄まってるね。殆ど普通の人間に近いんじゃないかな」

 俺は眉根を寄せた。

「血が薄まる? 陰陽師って、修行してなれるものなんじゃないのか?」

 土方は困った笑みを浮かべた。

「修行も必要だけど、一応、系統ってものがあるんだよ。蛙の子は蛙、的な感じ」

「蛙の子はおたまじゃくしだろ」

「君って、結構酷い子だよね」


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