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香記  作者: 鏡春哉
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Ⅱ 黙静課⑪

 只今俺は、絶賛暗い住宅街を彷徨っている。彷徨っている、と言っても、あの時のように無闇矢鱈と彷徨っているわけではない。まだ慣れておらず、加えて暗くて視界の悪い道を、スーパーマーケットに向けて歩き回っているのだ。

 何故そんな事になっているのかと問われれば、百パーセント薫のせいだと答えよう。あの後、薫が「じゃあ、お使いに行ってきてもらおうか」などと言い出しやがったのである。

 『じゃあ』という言葉は、ある程度話に沿った上で使われる筈の言葉である。しかし、その言葉は、突然放たれた。それまでの会話を真っ向から無視して、突拍子もない文章をその後に続けてきたのである。

 何が「じゃあ」、だ。気紛れか否かは知れないが、完全にアウェイなこの地域で、逢魔が時とも言われるこの時間帯に、しかも子供一人で、買い物に行かせる馬鹿がどこに居ようか。……いや、実際に居るのだけれども。

 結局言われるがままに出てきた俺も俺ではあるが、何もケチャップが無いから買いに行けというのも、横暴な話である。そんな調味料、今晩のうちに買いに行かずとも、他の調味料で間に合わせることは大いに可能だ。冷蔵庫の中にトマトもあったから、全くもって問題ないではないか。

 頭の中で文句の言葉を並べては、やり場のない不満に、一人、溜息を吐く。どうも、あの芹沢薫という女は、四の五の言わずに人に従わせる節がある。堂々としている、と言えば聞こえはいいかもしれないが、俺から言わせれば、暴君だ。何が嬉しくて、俺は夜な夜なケチャップなんぞを買いに行かねばならないのだろうか。

 そうこう考えているうちに、最寄りのスーパーに辿り着いた。夕方のこの時間でも、煌々と蛍光灯の光で店内が輝いている。俺はカゴを持たずに店内に入り、ケチャップが売られていそうなコーナーを探した。

 調味料だから、醤油などと同じ列に並んでいるのだろうか。

 スーパーなど、日用品を売る店にあまり入った事が無いから、何処に何が置かれているのか、とんと見当がつかない。幸いなことに、列ごとに天井から看板が下げられていたから、無闇に探し回らなくても、ある程度絞り込むことは出来る。俺は醤油の文字を見つけるや否や、その陳列棚のコーナーへ向かった。

 そこには、様々なメーカーの醤油やみそが並べられていた。反対側の列を見ても、ケチャップらしきものは見当たらない。探す場所を間違えたのだろうかと、隣の列の方へと移る。そこは、砂糖や塩など、固形物の調味料が置かれていた。それらがキロ単位で売られている事に、俺は図らずも驚いてしまった。

 それから少し歩いて、漸くケチャップを見つけた。なるべく量が多いものが良いと言われていたので、様々な種類の中から、一番グラム数が大きいものを手に取った。

 用事を終えると、俺は真っ直ぐにレジへ向かった。この時間帯でも、買い物に来る客は意外といるらしい。俺は二人分の会計を待った後、台にケチャップを置いた。店員が俺の方をちらりと見た後、素知らぬ顔をして「一点~」と呟く。若い男性だったので、何処かの学生だろうかと、俺はぼんやりと考えた。

「以上、お会計二百七十八円になります」

 静かな声がして、俺は右手に握りしめていた五百円玉をトレー上に置いた。それを見た店員は、「カードはお持ちでないですか」と尋ねてくる。即座に否定すると、店員はレジに数字を打ち込み、つり銭とレシートを手渡してきた。俺はそれを受け取り、ケチャップを持ってスーパーを出た。

 最近はレジ袋が有料になっているから、無料で袋をつけてくれない。俺は袋について言いそびれてしまったが故に、ケチャップをそのまま持って帰る羽目に遭っていた。それでも、ビニール袋で包装されているから、衛生面としては悪くはない筈だ。買ったものも一つしかないから、持ち運びに困るようなことはない。

 俺は元来た道を、その通りに戻っていった。

 秋の日暮れは、それはもう、早いもので、そろそろ七時になるかと思われる今の時間は、もうとっくに闇に呑まれてしまっている。それでも不都合なく夜道を歩けるのは、電柱にぽつぽつと取り付けられた街灯があるお陰だろう。

 俺は薄手のパーカーを着てきたことを、今更ながらに後悔していた。思ったよりも、冷え込みが激しいらしい。今日は一日中良い天気だったので、その分放射冷却が著しいのも、無理はない現象だと見える。

 時折両腕を手のひらでさすりながら、T路地を右に曲がった。

 刹那。

 俺は、真っ暗な大きな影に飲み込まれていた。

 突然の違和感に、俺は息を呑んだ。

 背後に、誰かがいる。しかし、誰かにしては、その影はあまりにも大きすぎる。

 気のせいならば、それは大層おめでたい話である。しかしどうも、後ろから得体の知れない何かの気配がすることを、拭い去ることが出来ないのだ。

 俺は立ち止り、ゆっくりと振り返った。

 ゆっくり、ゆっくり、死角になっている背後を、露わにさせていく。

 完全に振り返った時、俺は呼吸という本能による行動さえも忘れてしまっていた。声が出ない。否、声にすることがままならない。

 俺の目の前にいたモノは。

 人間ではない、異形のモノの形を成していた。

 こんなものがいる筈がない。有り得ない。そう、理性が脳内で叫んでいる。しかし同時に、奥深くの方から、けたたましい警鐘音が鳴り響いていた。

 じりじりと後退ると、その何かも、じりじりとにじり寄ってくる。

 暗くて顔が良く見えない。しかし、朧げに白く輝く、細長い何かが見て取れた。それはまるで、仕留めたとでも言っているかのように、笑っていた。

 逃げるタイミングが、全くもって分からなかった。しかし逃げなければ、この状態が継続されてしまう事もまた、事実なのである。しかしやはり……と、否定の言葉が無限に脳内でループしてしまっている。

 逃げきれないんじゃないのか、という言葉が、俺の何処かで見え隠れしていたからだ。

 俺はそれでは埒が明かないと、口を一文字に固く結んだ。意を決して、それに背を向けて帰路を走りだす。

 無我夢中で走っていたが、やがて意識が現実に戻ってくると、否応なくこの現状を把握させられた。巨大な影は、ゆらゆらと俺の走る速度に合わせて動いている。まるで、俺の事を弄んでいるかのようだった。

 それが分かったところで、俺が必死に走り続けたことには変わりない。けれども、その思いと、自分の体が、いつも直結してくれるとは限らない。

 すぐに体力の限界がやってくる。それでも無理矢理足を動かしたばかりに、何かに躓いてこけてしまった。後方から、気持ちの悪い笑い声が響いてくる。俺は歯を食いしばり、起き上がろうとした。

 だが、俺は起き上がることが出来なかった。体力が限界を超えたからではない。

 何かに押さえつけられて、身動きが取れない状態になっていたのだ。

 背中に圧力がかかり、温覚が何か生温かいものを感じ取る。感触も気持ち悪くて、俺は吐き気を催した。

 耳元に、息が吹きかかった。薫にされた時とは全く違い、とても気持ち悪く感じた。

「逃げなくてもいいよ。楽にしてあげるから」

 低音の、甘い囁き声が聞こえる。薫にされた時と同じように、厭らしい含みを孕んでいるにもかかわらず、彼女とコレとでは、決定的に違う何かがあった。


 殺意。


 俺は全身の毛が逆撫でされるような思いがした。

 悍ましい。気持ちが悪い。吐き気。吐き気。吐き気。吐き気。眩暈。

 殺される。

 そう、思った。

 未だに俺を金縛りにしているものの正体は分からないが、俺は死ぬのだと、本能的に思った。

 死ぬことへの恐怖は感じなかった。

 ただ、ただただ、俺は。



 気味の悪いものの正体が知りたかった。


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