Ⅱ 黙静課⑨
新たに入手した情報を脳内で整理していると、あっと言う間に時間が過ぎて行ってしまった。午後三時半頃に洗濯物を取り入れ、畳んでリュックの中に仕舞った。続けて、夕食の準備に取り掛かる。ぎりぎりに作り始めて夜中に食べ始めることになるよりは、早めに作り始めておく方が妥当であろう。
今日の昼食のような、トーストと野菜炒めという奇妙な組み合わせになることを避けるため、予めご飯を炊いておくことにした。
米は台所の下の戸棚に蓄えてあった。そこから一合分はかり取り、洗米していく。それから十分に水を切って、炊飯器に付属された釜の中に移した。一合分の水を注ぎこみ、スイッチのボタンを押す。
炊飯器は静かに稼働し始めた。俺はそれを見届けると、冷蔵庫の扉を開いた。中から今日使った半端な野菜を取り出し、午前中にやったのと同じ要領で調理を開始した。
結果としては、一時間で夕飯を作り終えることが出来た。初めの時間と比べると、圧倒的に短縮されている。こうして早いうちに慣れることが出来たのは良かったが、余裕をもって早く作り始めたのが、少々仇となってしまったようだ。
時刻は午後五時過ぎ。出来上がった野菜炒めは皿の上で湯気を上げていたが、俺はまだ、空腹を感じていない。故に、折角作ったけれど、出来立ては食べられない、というか無理をして食べたくはない。冷めてしまうのは残念だが、こういう時に便利な家電がこの家には揃っているのだから、問題は何一つない。
俺は再び持て余した時間で、先程の新たな研究の考察を始めていた。ソファに深く座り込み、天井を見上げる。しかし俺の視界にその天井が移されることはなく、目の前に流れていくのは数多の理論と数式ばかりである。
それらの流れや行数は、時間とともに比例して増加していく。二次関数、いや三次関数並みに増大していたのかもしれない。通常なら情報過多で思考回路がパンクしてしまいそうな量であったが、俺は構わず情報量を増やしていった。
不意に、一つの数式が停止した。後から来るそれらが、その数式によって塞き止められる。まるでビーバーの作るダムのように溜まっていってしまったので、俺は一旦、情報の入力をやめた。そして改めて、目の前で止まっている数式に思考を集中させるのである。
「……こんなことが、可能なのか?」
俺は思わず呟いていた。止まった数式が表している内容は、謂わばSFの世界にしか存在しえないようなものであったからだ。もっと具体的に言えば、「時間を遡るための数式」である。
「何でこんなものが完成しているんだ……?」
俺がUSBの中にあったデータから得た情報の中に、このような数式は存在しなかった。しかし、既存のデータを複雑に組み合わせていく事で、結果として得られた数式だった。これは、俺の父親が既にこの数式まで辿り着いていた事を、暗に示している。けれど、父親はそれを明記しなかった。その理由については、この研究を陰で行っていた理由と全く同じものになるのだろう。
「それにしても、時間を遡る、とはね。この理論だとまだ、細胞単位の容量でしか適応できないけど、それでも使えない事はない……。この研究は、実際に細胞単位で時間を巻き戻すことによって、若返りを実現しようとしていたのか。成程、だから癌細胞増殖のリスクを引き下げることが出来たのか……」
俺はぶつぶつと呟きながら、またもや天井を見上げた。未だに停止している、一つの数式が目の前に浮かび上がってくる。
「テロメラーゼの使用は、その補助に過ぎない、と言ったところか。一見資料を見ただけでは、それが主流だと思えたのに。……全く、研究資料を暗号化するなんて、よっぽど外に漏らしたくなかったんだな」
自然と笑みが零れる。
「だが、この理論では自分が生まれるよりも前に遡ることはできないな。前提として、自分の細胞が無いと使えない数式だ。……待てよ? これを応用すれば、過去にも未来にも行けるようになるのでは……?」
俺は瞬きも忘れて、その数式を凝視した。
瞳孔が開くような感覚を覚える。段々と、気持ちの悪い速度で開いていく。俺は脳の何処かでそれを認識しながら、目の前の数式に集中した。何かが変わるわけではない事を知っておきながら。ただただ、その中から何かを見出そうとした。
ふと、急激に瞳孔が縮小するような感覚がした。気分としては、縦長の瞳孔で有名な猫の目にでもなったようなものだろうか。
その時、俺は一瞬だけ、その数式がぼやけて見えた気がした。
俺は大きく目を見開く。
「……………………」
自分でも、何を考えているのか分からない。人間というものは、脳を使って思考しておきながら、その脳についてはあまり解明されていない。つまり、今、俺に何が起こったのか、理解できなかったという事だ。
何がどうなって、それが結びついたのか。もしや、俺は初めからその答えを知っていたのではないのだろうか。そう自惚れてしまえるくらいには、目の前の事態に驚きを感じていた。
時空を操る数式。
俺の目の前にあった数式は、そのように姿かたちを変えて現れていたのだ。
俺はすぐに別の事で頭の中を満たした。何か、禁忌の物に触れたような気がしたからだ。だが、同時に俺の中の好奇心がくすぶられていたことも、忘れてはならない。
俺はソファから立ち上がり、冷めた野菜炒めをレンジで温めた。炊き上がった白飯を茶碗につぎ、夕食をテーブルに運ぶ。それらをただ単に、作業的に胃の中に収め、食器を洗って片付け、シャワーを浴びるだけにとどまり、歯も適当に磨いて、今薫が寝そべっている部屋とは別の部屋に入って、ベッドに横たわった。
心臓の音が聞こえてきそうなくらい、バクバクと脈を打っている。人はそれを興奮と名付けたのだろうが、俺は興奮しているのかさえ、分からなかった。
暗闇の中に居ても尚、目の前に付き纏ってくるあの数式。
俺の記憶力が並以上に出来てしまっているばかりに、その数式を忘れたくても、一生忘れる事は出来ないだろう。
俺は思考を搔き消しながら、眠る事だけに意識を集中させた。
翌日。俺は昨晩と同じような時間に起床し、朝と昼の中間地点になるであろう時間に、朝食をとった。それからノートパソコンを起動させ、昨日とは別のUSBを差し込んだ。この行為が昨日の衝撃を和らげる逃避行動である事は、最早言うまでもなかろう。
薄くピンク色がかった可愛らしいそのUSBの中には、一つだけ、画像フォルダが保存されていた。一つだけ、と言っても、その中身は膨大な量だった。スクロールをしてもしても、下から写真が現れてくる。そのどれも、父親が写った写真だった。
俺はすぐに、これが母親の所持していたUSBである事を悟った。この病的なほどの父親の写真のオンパレードは、否応なくそれを示している。彼女以外に、こんなに趣味の悪い画像をためておくような人間は、恐らく存在しなかったはずだ。
写真は新しい順に並べられていて、最近取ったものには、父の死に顔が写されていた。此処まで画像として保存しておきたいのかと思うと、些か吐き気を覚える。当然のことながら葬式の写真も沢山あったし、いつの間に撮っていたのかと、本気で疑問に思えてしまうくらいの秘蔵写真まであった。
遡っていくと、家族写真も保存されていた。だがその多くは、俺の顔が見切れている。そこまでして俺を撮りたくなかったのなら、カメラを向けなければ良かったではないかと、不快感を覚えた。
さらに遡っていくと、父親の学生時代の写真まで現れ始めた。ここで漸く、俺は手を止めたのである。
この時分、二人はさほど親しくなかったのではなかったか。父の話によれば、高校時代の同窓会で久しぶりに対面してから、親しくなっていったと聞いている。仕事と家族の事で苦しんでいる母親を、慰めたことがきっかけだったそうだ。それまでは、只のクラスメイトとしか認識していなかったらしい。
ならば何故、結婚後並みに大量の写真が此処に保存されているのか。それも、殆どが隠し撮りだ。バレたりでもすれば、即警察に捕まる程度には、母親は父親をストーカーしていたことになる。
つまり、だ。母親側は、父親と同じ思いを抱いていなかった、という事になる。ストレートに言えば、このころから既に、母親は父親の事を好きだった、という事だ。
俺は頭を抱えた。昨日の事を頭の隅に追いやるために、別のUSBを開いただけだというのに、何故こうも、ドロドロとした真実を、しかも今更ながら、知る羽目に遭わねばならなかったのだろうか。
俺は深く息を吐き、画面を一番下までスクロールした。保存されていた一番初めの写真は、高校の入学式と思われる日付で、父親が誰かに笑顔を向けていると言った写真だった。
一応全て確認した俺は、再び、USBを静かに抜き取った。後頭部を掻き、ソファに深く腰掛ける。
俺がこの二人の間に生まれてきた時点で、面倒くさい事実を知らなければならない事は、必然的事項だったのだ。それはもう、受け入れてしまう以外に、方法はない。しかし、最後のUSBに手を出したくないという思いは、正直なところ、事実である。
金庫に仕舞われる程度のものが、碌なものであるはずがない。詰まる所、そういうわけなのである。俺はそこまで頭が回っていなかったことを今更後悔し、それでいて、知りたいとも思ってしまう自分がいた。
疲労感を覚えているのに、尚好奇心をひけらかすか。自分で自分にツッコミを入れ、また、溜息を吐く。溜息を吐いた矢先に、俺の手が最後の灰色のUSBに伸びている事に気が付いた時には、俺も人の事は言えないなと、三度溜息を吐いたのである。




