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香記  作者: 鏡春哉
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Ⅱ 黙静課⑧

 食事を終えてから、俺は暇な時間が訪れた事に気が付いた。

 庭に繋がる南向きの大窓に目を向けると、昨晩までリュックの中でダルマにされていた俺の衣服たちが、気持ちよさそうに、風に揺れていた。洗濯ものが外に干してある、という事は、おおよそ、中干していたそれを、明け方かそれ以降くらいに出したのだろう。もしかすれば非常識な奴の事だから、真夜中から外に出していた可能性もない事はない。これに関しては、ただ、少しくらいの常識があの女にある事だけを願うばかりだ。

 洗濯物を取り入れるのは昼下がり頃にするとして、夕食ももう少し経ってからでないと作る気が起こらない。と、言うことは、差し当たって、この余分な時間の中で俺がしなければならない家事は、今のところ無い、という事になる。

 加えて、俺を「黙静課」メンバーに引き入れた当の本人が熟睡状態では、それに関わる仕事をしなければならない、という事も、まずないだろう。と言うかそもそも、この部署が何を担当しているのかさえ、俺は知らないのだ。知らないまま入ったというのもおかしな話だが、此処では目を瞑っておく方が賢明だと思う。

 ならば、と此処で一旦一息つき、俺はリュックサックの中から愛用のノートパソコンを取り出した。それを起動させ、パスワードを入力する。画面がデスクトップに変わると、俺はファイルを開いた。

『Study of an All-purpose cell』

 そのまま訳してしまえば、多目的な細胞の研究、となる。綺麗な日本語に直せば、万能細胞の研究とでもいうのだろうか。どちらにせよ、あまりネーミングセンスのいいものではない。この研究プロジェクトを題したのが俺の父親であったのだから、それは最早、仕方のない事なのである。内容はなかなか濃く深いものであるから、名前だけで侮ってはならない事を、先に述べておこう。

 俺の父親は、医者であると同時に、研究者でもあった。勿論、多くの時間は医者として近くの総合病院に勤務し、暇をついては、自身の研究を楽しそうに進めていた。この文章だけ見れば、父親は研究職に就きたかったものだと思われるが、全くもってその通りだった。このことに関しては、一度だけ、父親の口から直接聞いたことがある。

 どうやら、過去に何度も親――俺からすれば祖父母と喧嘩を繰り返していたようだった。父親は研究者になりたかったのに、医者の家系に生まれたばかりに、医者以外の道を選ぶことを根絶されていた。もともと研究者肌だった父親は、それでも食い下がって、医者になる代わりに、自分のやりたかった研究もさせてもらえるよう、許可を乞うたのだった。祖父はそこで父親の事を一度見放したが、彼が医者としては勿論、研究者としても成功したために、家族間の不和は、緩和されたのだという。

 お陰で、その息子である俺は、その両方を課せられるようになったのだ。無論、その事に苦はなかった。寧ろ、父親とともに研究をするようになってからは、俺の好奇心が満たされていくようだった。故に俺の生活が充実していたことは、どうも否定できないのである。

 だから、父方の家系から俺に課された将来については、なんの文句もなかった。否、そうなることを当然だとばかり思っていた。彼らの思惑通りに進むことに関して、俺は一切不満を抱いていなかったわけである。

 俺は書き溜めておいた文章を開き、今一度内容を確認していった。

 本当なら、あの事件以来に早々に得られたこの時間を研究に充てたかったのだが、残念なことにここには研究の施設がない。二階奥の部屋はまだ見ていないが、薫が「書斎」と口走っていたので、十中八九、研究施設としては使えないだろう。それ以前にも、研究をするための道具がない、という事もまた、残念な要因になるのだろう。

 薫を探し出すことで頭が一杯だった俺に、膨大な研究資料、および道具までもあの家から持ち出せたかと問われれば、それは無理だったと言っておきたい。そうでなくても、俺の体力は人並み以下なのだから、持ち出そうとはまず思わない。

 なら、この時間に取りに行けばいいではないか、と思うかもしれないが、それも最早、無理難題を押し付けられるのと同値である。――あの家にはもう、戻れない。決して、戻りたくないのではない。いや、確かに戻りたくもないのだが。

 あの家は今現在、恐らく警察やら何やらと、公の人間に占拠されている事だろう。その中に俺がひょっこりと顔を出すというのも、怪しいことこの上ないではないか。それ故に、俺は研究の続きを進めることは、断念せねばならないのだ。本心としては、続けたいことは山々なのである。この点だけは、俺の性格も父親譲りなのだと言えよう。

 研究が出来ないのならば、何をするのか、と考えて、何もしない、なんて馬鹿な答えを出すようなことはしない。体力がない代わりに、記憶力は人並み以上に出来ているのだ。そこに蓄積された鮮明なデータを、整理整頓して理論立てしていく、という作業が出来なくはないのである。

 俺は表にまとめたデータをグラフ化しながら、はたと、思考回路を止めた。同時に、キーボード上を動いていた手も止まる。

 何か、忘れてはいやしないか?

 無論、その「忘れてしまった」何かというものを、この時点で思い出してはいる。思い出してはいるのだが、その在りかが定かではないのだ。

 件の金庫からくすねた貴重品と共に、俺は大切に仕舞われていた三つのUSBも同時に持ち出していた。確かあれは、あの日着替えたズボンのポケットの中に、入れたままになっていた筈なのだ。しかし、そのズボンというのは、只今、窓の向こうでゆらゆらと風に揺らされているものと全く同一のものである。

 俺は嫌な予感を脳裏に過ぎらせながら、窓から庭に出た。大人用のサンダルが外に置かれていたので、それを履いて、子供服が並んだ物干し竿まで近づいていく。その中の、カーキ色のズボンのポケットに手を突っ込んだ。両方もれなく、だ。

 中には何もなかった。洗濯機と水にやられなかったことに関しては安堵できたが、愈々俺の悪い予感は当たってしまったことになる。

 薫がそれを取り出したのなら、一体何処へやったというのか。

 居間に戻り、俺はリュックの中を調べてみた。中身をひっくり返し、ポケットというポケットも探したが、どうも見当たらない。

 ここ以外で探すとなれば、この家全体という事になる。さすがに隠したりはしていないだろうが、それでも骨が折れる作業である事にかわりはない。

 俺は散らかした床を綺麗に片付けてから、検討を付けながら探し始めた。

 最初に向かったのは、洗面所である。此処には、俺の服を洗濯したであろう、洗濯機が置いてある。

 思ったほど、大変な作業でなかったことが、ここに来てすぐに分かった。

 閉じられた蓋の上に、何かが包んであるようなハンカチが置かれていたのだ。俺は金木犀の花と葉が刺繍されているそれを鷲掴みにすると、中身を開いた。案の定、見覚えのあるUSBが三つ並んでいる。

 俺はそれを包んでいたハンカチを元の位置に戻してから、洗面所を出た。居間に直行し、起動しているパソコンに三つのうち一つのUSBを差し込む。

 画面に現れたファイルの中に、『Study of rejuvenation』と題された文章が保管されていた。俺は息を呑み、その文章をダブルクリックする。

 起動して現れた画面には、題名通りに、若返りに関する理論や研究結果などが詳しく書き記されていた。俺は充血することも厭わずに目を見開き、高速で画面をスクロールさせていく。

 最後まで読み終えて、これが父親の研究途中のものである事が分かった。この文章の書き方や研究の仕方からして、父親のものである事には相違ない。しかし、俺の知らぬ間に、なんて夢のある研究をしていたのやらと、思わずにはいられないのだ。

 俺の知る限り、父親がこの研究をするだけの時間はなかった。それでもこの資料が存在するという事は、寝る間を惜しんで研究に従事したに違いない。

 俺は咄嗟に、以心伝心的に、本当にやらねばならない研究は、これなのだと悟った。

 万能細胞と言ったものは、特に、医学にかかわる研究だ。これがあれば、人の臓器から移植せずとも済むようになってくるからだ。だから、父親はそれを建前として研究していたのだ。

 だが、俺は早いところ気付いておくべきだった。そうした研究は、他でも為されている。無論、若返りの研究だって、している人は存在するだろう。しかし、此処まで精密に、詳しく、ほぼ間違いの無い理論を立てた人物が、彼の他にこの世に存在していただろうか。

 俺は図らずも、口の端を上げて笑っていた。

 万能細胞の研究で脳内に蓄積したデータを一旦消去し、改めて目の前の画面を見る。

 俺は一度を閉じ、大きく息を吸った。

 人間の老いは、染色体の末端領域にあるテロメアという部位が減っていく事により、反復数が次第に減少することで、進行していくと考えられている。故に、その部位を伸長すれば、ある程度は老いを遅らせることが出来るのだ。その働きを持っているのが、テロメラーゼという酵素である。その関係を、彼は応用したのである……。

 俺は静かに目を開いた。

 この理論だけでは、若返る事は勿論できない。細胞は分裂するごとに伝達されるものが徐々に徐々に変わっていってしまうものであるから、細胞分裂の回数が多い程、癌細胞の増殖も著しくなるわけである。そこのところを上手くカバーしているあたりは、さすがだと思わざるを得ない。

 ここまで細々と詳しく書かれていて、それでも尚、この研究が完成していないと俺が判断したのは、それが理論だけに留まってしまっていたからだ。実験は愚か、その実際の適用方法も記されていない。

 つまり、そこを俺が補え、と示唆されているわけである。

 そこまで考えて、何故父親はこれを俺に教えてくれなかったのだろうかと疑問に思った。さらに、この資料を何故、母親が所持していたのか、とも。

 母親の方に関しては、これが父の遺品だったから大事にしていると考えてもおかしくはないが、それにしても、金庫に仕舞うくらい大事にしていた理由が思い浮かばない。

 この研究が、人目に晒されてはならなかった。そういう事だろうか。

 しかし何故、隠す必要があったのか、やはり分からないのである。この研究が完成すれば、人類は長生きできる。いや、それ以前に、不老不死になるかもしれない……。

 俺は目を細めた。画面に開かれたページを閉じ、USBを引き抜いた。

 つまり、そういう事だったのだ。

 父親は、あくまでも知の探究のつもりでこの研究をしていた。しかし、これが人類にとって有益なものになるとは思っていなかった。

 だから隠した。

 母親も、彼の遺志を固く守った。

 ならば。

 俺はどうするべきか。


 笑みが浮かぶ。



 そんなこと、俺の知った事ではない――。


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