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香記  作者: 鏡春哉
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Ⅱ 黙静課⑦

 玉葱には、どうも殺意を覚える。

 人参、ピーマンをそれぞれ短冊切り、千切りにした後、俺は玉葱のカット工程へと進んでいた。殺意を覚えるというのも、玉葱を切ると目から涙が出て来て、頻りに視界を奪ってゆくからである。この時、単に涙が出てくるだけなら殺意まで覚える必要は無いのだが、痛みや痺れを伴う涙であるという事が、最大のポイントなのである。

 これは、家庭科の授業で一度身を持って体験したことでもある。それも、あろうことか微塵切りの授業の時に。玉葱だけ、決まった切り方があるからと、全員がやらされたのだ。

 野菜が微塵切りになるまでに、それなりに包丁を何度も動かさなければならない。その回数に比例して、野菜から飛び出る「成分」と言ったものの量が増加してしまう事は、言うまでもないことだろう。あの時俺は、本気で死ぬ思いをした。残念ながら三途の川を垣間見たわけではなかったが、俺は確かに、玉葱に殺されそうになっていたのである。

 そして現状。あの頃の経験から、と言うのもあるが、野菜炒めを作るという調理の都合上、俺は玉葱を千切りにしていた。玉葱の構造は、マトリョーシカのように幾層にも身で包まれたようにできている。故に、縦半分に切った後、横に二、三度程切り込みを入れてしまえば、後は縦に切り刻んでいくだけで、勝手に千切りになってくれるのである。この点では、人参を千切りにする工程よりも切る回数が少なくて済む。

 ただし、手際よく包丁を扱えれば、という注意書きが添えられる。

 俺はこの通り、技術に関する知識はあっても、技能に長けているとは言い難い。今までその鍛錬を怠っていたわけだから、当然の報いだとも言える。つまり、俺は千切りにさえもてこずって、時間の増加によってでも増す「成分」により、目に鼻に、多大なるダメージを負っているのである。

 俺は玉葱の成分まみれになった手を何度も洗い、一定に溜まってくる涙を拭い取った。一度台所を離れて、痛みや痺れを軽減させたりもした。

 やっとのことで切り終えると、今度は肉の処理を始めた。この切り方も習っているとはいえ、思うように切れてくれるとは限らない。俺は無駄に弾力性の高いそれを、無理矢理引き裂くようにして切っていった。

 次に、野菜を炒める工程に移った。換気扇を回すことを忘れずに、コンロを点火させる。そこで油を敷くのを忘れていたので、適当な量を野菜にぶっかけておいた。

 玉葱の色が透明になってきた時点で、豚肉を投入した。それからさらに炒めること数分。醤油と砂糖を加えて味付けをして、何とか完成した。

 皿に移してみると、それなりに出来てしまっていた。本当に適当に作ったのにそれなりのものが出来るとなれば、料理とは、案外簡単なものなのかもしれない、とあまりの呆気なさに図らずもそう思ってしまった。

 やがて我に返った俺は、白飯がない事に気が付いた。米と炊飯器は用意されているが、これから作るとなると、かなりの時間を食う事になるだろう。そうでなくても、時計の針は十二時を指そうとしている頃合いなのだ。作っている間に野菜炒めが冷めてしまっては、今までの苦労も水の泡となってしまう。

 俺は何か代わりになる炭水化物がないかと、台所の中を見渡した。途中で、俺の視線がある一点で止まる。俺は考えるよりも先に、行動に移っていた。

 開封されていない六枚切りの食パンを二枚取り出し、トースターにセットする。取り敢えず初めは二分間、焼いてみた。

 あまり期待したような焼き目が付かなかったので、さらに二分焼いた。

 カシャン、と二枚のトースターが飛び跳ねる。今度は期待通りにこんがりと焼けたので、表にマーガリンを塗りたくり、皿にのせて、居間のテーブルへと運んだ。

 未だに湯気を上げる野菜炒めと、とろりとマーガリンの溶けたトースター。なんとも奇妙な組み合わせではあったが、それぞれを分けて評価すれば、良い方だったと思う。少なくとも、まずくて食べられない、と言った事態には陥らなかった。

 俺は改めて時計を見た。十二時四分。朝ご飯として作り始めたはずなのに、朝昼ご飯どころか、最早昼ご飯となってしまっている。

 俺は野菜炒めを咀嚼しつつ、もっと時間短縮できるようにならねば、とぼんやりと考えていた。ここでやっていくと決めたからには、如何にして自由時間を作り出すかが最大の課題となってくる。

 何も、一人で身をやつさなければならないわけではないのだ。習慣になれば、自ずとその課題もクリアできることだろう。

 食べ終えてから、俺は汚れた食器と調理器具を洗った。その折、フライパンの焦げ付き具合が酷かったので、今度から水に浸けておこうと、ひそかに決意したのであった。


 *


「は、何それ!」

 長い黒髪の少女が、誰かに向かってそう叫んだ。

「何で勝手に決めちゃったわけ。私の意思は? 此処は私の家でもあるのに? 最低限、私にも話してから決めるべきだったんじゃないの!?」

 少女はあくまでも落ち着きのある声でまくし立てたが、その顔は、不快で歪み切っている。少女の不満を直に聞いた誰か、否、誰かたちは、「まぁまぁ、そう怒るな」とか、「もう、決めっちゃったことだしねぇ。今更取り消すのも、無理だと思うわ」などと、鈍い反応を返す。

 その態度にますます憤った少女は、声を荒げた。

「だったら私が出て行ってやる! さようなら!」

 そう言捨てて出ていこうとする少女の腕を、二つの手が止めにかかる。

「そう言うなって。赤の他人ってわけじゃないんだから、今に慣れるさ」

「そうよ、寧音。それに、もしかすると勉強を教えてくれるかもしれないわよ」

 寧音と呼ばれた少女は、脳の中で、何かがプツリと切れる音を聞いた。先程までの熱が急激に下がり、表情には落ち着きが取り戻されている。

 少女は二人の腕から逃れ、彼らの方を向いた。

 無表情のまま。いや、冷え切った視線を彼らに向けて。

「そこまで言うのなら、私があの子を殺してやる。そうすれば、私はあの子と一緒に暮らさなくて済むんだからね」

 静かな声で、そう言い放った。

 沈黙が訪れる。

 先に我を取り戻したのは、低い声を持っている方の人物だった。

「どうしたって、寧音はそんなにあの子の事を嫌っているんだい? 一度ここに遊びに来たことがあったけど、とっても良い子だったじゃないか」

 その言葉を聞いた少女は、目を細めた。

「そうね。何をしても反論しない、お人形さんみたいな良い子だったって事は覚えてるけど」

「寧音!」

 甲高い声が、少女の名を叫んだ。それでも少女は、据わった眼を崩さなかった。

「お母さんとお父さんは、あんないい子が欲しかったんでしょ? なら、いい機会なんだから、貰っちゃえばいいじゃん。その代わり、私は出ていくけど」

「駄目よ、そんな事を言ったら! 私たちは、寧音の事も大事にしているのよ。何でそれが分からないの!」

 隣にいる人物も、肯定するように首を縦に振っている。少女は鼻で笑った。

「私を大事にしているのなら、私の意見を聞いてくれたってよかったよね。言っておくけど。私に出て行ったら駄目だというのなら、例外なくあの子を殺させて貰うから」

「そんな事を安易に口にしちゃ駄目! 仮にも、人様の命なのよ」

 少女の顔が、顰められた。まるで、説教にうんざりした子供のような顔である。

「駄目駄目うるさいんだけど。なら、私に我慢しろって言うの? こんなにも嫌だって意思表示しているのに?」

 再び沈黙が訪れる。両親を言いくるめたと気分を良くした少女は、母親の表情を見て、顔を強張らせた。

 何を見ているのか分からない、真っ黒な瞳。少女は、本能的に恐怖を感じていた。

 母親のそれが、何であったのかは分からない。単に、それが欲望に塗れた何かだと知るには、この少女の心は、まだ幼すぎたのである――。



 ハッと目を開ける。目の前にあるのは、見慣れた天井。横を見遣ると、強い日差しを遮るカーテンが、ゆらゆらと揺れていた。

 薫は一旦手のひらで目を覆い隠し、今見たものを頭の中で反芻した。

「……今回はまた、やけにリアルだったな。まったく、あれと契約してから良い夢を見たためしがない」

 時間差で頭痛を覚え始めた薫は、顔を顰めた。そこでふと、閉じられた部屋の扉の向こうから、醬油と焦げた砂糖の匂いがすることに気が付いた。

 薫は口の端を上げる。

「なんだかんだ言って、律儀な子だよねぇ。うん、まさしく良い子だ。年齢のわりに賢すぎる事だけを除けば、普通の友好関係を築けていたんじゃあないのかねぇ。あ、普通ではないか。なら、それなりの人間関係、かな。まぁ、本人がそれを必要としていないって言うのが、玉に瑕なんだけどね」

 ぶつぶつと呟いて、薫は顔を覆っていた手のひらを除けた。日光が何割かカーテンに遮られているために、部屋のなかは、少しばかり薄暗い。

 薫は大きく欠伸をした後、うつ伏せになった。

「後、一日と九時間、か。こんなのを見た後に、寝足りればいいんだけれど……」

 もう一度欠伸をすると、薫の意識は徐々に遠のいていった。


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