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香記  作者: 鏡春哉
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Ⅱ 黙静課⑤

 目が覚めた俺は、見慣れない天井に一瞬だけ戸惑った。しかしすぐに、ここが芹沢薫の家であることを思い出す。同時に、俺は違和感と倦怠感を覚えていた。それは精神的疲労によるものではなくて、もっと、単純に起こる疲労からなるものだった。

 俺は昨夜、一人でこの寝室に入ってきた。一階の奥にある一室だ。薫がどの寝室を使っても良いと言ったから、少なくとも、薫が使っていなさそうなこの部屋を選んだのだ。それにもかかわらず、まるで金縛りにあったかのように体が動かず、且つその重みによって体中の筋肉が強張ってしまっているのは何故か。

 昨日は、それ程体を動かした覚えはなかった。もっと言えば、山登りをした次の日でも、ここまでの倦怠感は覚えなかった。硬い地面の上で野宿をしていても尚、だ。

 実のところ、一人で入った筈の布団の中に、もう一人分の体温を感じているのである。そしてそれは、容赦なく俺の体に巻き付いているのだ。

 俺は天井を見上げたまま、倦怠感の元凶に話しかけた。

「……俺は抱き枕じゃない」

 返事はなかった。近くから、規則正しい寝息が聞こえてくる。

 俺は動こうにも動けなかったので、無駄に冴えてくる頭で考え事をすることにした。

 俺は手始めに、カーテンから僅かに零れてくる朝日の加減から、時刻が八時台か九時台を回っている事を予想した。昨日はさして遅くまで起きていたわけではなかったから、妥当な起床時間であると言える。

 だがしかし、俺に巻き付いているこれがまだ眠りこけているとなると、俺とは少々条件が異なるのかもしれない。確かに、これがいつ眠りについたかについては、先に就寝した俺には知る由もない。けれども、あらかたの予想くらいはつくものである。例えば、夜更かしをした、とか。俺が眠った後に仕事をしていた、とか。

 とにかく、就寝した時間が遅かった、という想像がつくわけである。ならば必然的に、起床時間も遅れてくるものである。ならば、これが未だに爆睡しているのも頷けるというものだ。

 ただ俺が思うのは、何が悲しくて、俺はこれに巻き付かれた状態で起床せねばならなかったのかということである。

 俺が先に起きてしまったのは、俺が先に十分な睡眠時間を得てしまったからだ。それは仕方のない事だ。故に譲歩出来る範囲内である。けれども、俺はこれが巻き付いてくる事、いやそれ以前に、布団に入ってくる事自体を許可した覚えはない。巻き付いた本人が言い訳をするとすれば、「寝ている人を相手に、許可なんて取れないよ」などという言葉が挙げられる。それは至って正しいので、反論はできない。

 だがここで、俺はあえて反論することにしよう。

 昨日の時点で、抱きしめられた俺が、これの腕から逃れられない事は明白になっていたのである。それを知っておきながら、これは俺に巻き付いてきた。さらには、俺より遅く起きる可能性をも把握していた上で。

 つまり、俺が起きた時に、身動きが取れなくなってしまう事は容易に想像がついていたのである。もっと言えば、少し先の未来の俺に、その事でグチグチと小言を言われることもまた、簡単に分かってしまう事なのだ。

 それでも尚、俺に巻き付いてきたのは何故か。まさか、その小言を言われたいからではなかろう。小言を言われたいなんて、何処のもの好きか、と言う話である。

 ……え、それはさすがにないよな。

 自分で考えておいて、段々と自信がなくなってきてしまった。

 俺は昨日、変人に変人認定されたわけだが、それでもやはり、これが変人である事にかわりはないのである。つまり、ぶっちゃけて言うと、俺に小言を言わせるために、わざとこんなことをしているのではなかろうか、という事である。そしてそれを好きで聞くというよりも、小言を言う俺を面白がって聞くと考えると、どうもすっかり腑に落ちてしまうのである。

 俺はこの考えに至ってから、すぐに頭から消去した。単純に、巻き付きたかったから、という妥当な考えを脳内に上書きする。そうだ、昨日だって、馬鹿みたいに抱きついてきていたではないか。恐らく、これは彼女のスキンシップなのだ。欧米の習慣を考えれば、おかしくもない行為だ。

 そこまで考えて、俺は盛大に溜息を吐いた。

 要は、考えるのが馬鹿らしくなったのである。動けずに暇だったから、しょうもない事をぐだぐだと考えていただけの事だ。故に、脳内で展開された思考を外に漏らさなければ、何も起こらないのである。――つまるところ、この件についてはまるきり無視してしまおう、という事である。

 思考を丸投げすると、幾分か気分が和らいだ。どことなく、倦怠感も薄らいだ気がしてきた。そう思って体を動かしてみると、筋肉が悲鳴を上げた。すぐに元の体勢に戻ったが、先程の雁字搦めの状態から、少しばかり解放されていることに気付くことが出来た。

 腕や背中、腹の筋肉が、針を刺すように痛んだが、俺は何とか我慢して体を動かした。絡んでいる腕を持ち上げると、相当の重力がのしかかってくる。俺はそれを容赦なく放り投げた。それでも一向に起き上ってこないので、今度は密着している相手の体を足で蹴った。

 ゴトン、と鈍い音がして、それはベッドから転げ落ちた。漸く解放された俺は、体を起こして、ベッドの上で伸びをした。

 対して、床で頭を打ったらしいそれ、もとい薫は、頭を手でさすりながらむくりと起き上がった。まだ半開きになっている目で、俺の方を見遣る。

「んー、おはよう、佑磨」

 意外にも、薫の口からはまともな挨拶が零れた。俺は朝起きて一番に挨拶をされたためしがなかったので、思考を停止させてしまった。

 いつまで経っても返事がこない事を不快に思ったのか、薫は不意に立ち上がり、覚束ない足取りでベッドに上がり込んだ。それから俺の顔を覗き込み、もう一度「おはよう」と言うのである。

「お、おはよう」

 遅れて返した挨拶に満足したのか、薫は再びベッドに倒れ込んだ。俺は目の前で横たわる薫を見て、しばらく目を瞬いた。

 死んだように動かない。突いてみても、なんの反応も返ってこない。俺は一体何が起きたんだ、と訝しげに思いながら、ベッドを降り、寝室を出た。

 未だに痛む筋肉を抑えつつ、俺は居間に足を運んだ。昨夜店を広げていた机上が、そっくり片付けられている。机の傍らには、元の膨らみを取り戻したリュックサックが置かれている。そしてその上に、一枚のメモ用紙が置かれていた。

 綺麗な文字で、何やら書きつけられている。

『おはよう、佑磨。これを読んでいる、という事は、僕は起きていないって事だね。多分、明日の夜まで起きないだろうから、そっとしておいてね』

 ここまで読んで、俺は早速雑な扱いをしてしまったことを思い出す。しかしあれは、薫の方に非がある。俺は起き上がるために、当然の事をしたまでだ。

 俺はメモの続きを読んだ。

『本当は一週間くらい眠っていたかったんだけど、今はちょっと忙しい時期だから、佑磨を抱き枕にして我慢することにしたんだ。筋肉痛になっていたらごめんね? 湿布は戸棚の上から二番目の引き出しに入ってるから、遠慮なく使ってね』

 俺の中に封じ込めてしまったものを、いとも簡単に掘り返してしまうとは。芹沢薫は、何と恐ろしい人間なのだろうか。それも、こんなメモ用紙一枚で。

 今更怒っても、対象は寝ている人間なのでどうしようもない。俺は仕方なく、戸棚の上から二番目の引き出しを開いた。中には市販の湿布薬入りの箱が、今にも弾けんばかりに、狭苦しく詰められていた。中には、箱が変形しているものもあった。

 俺は無言でそのうちの一つを取った。未開封である。気になって、他の箱も見てみる。どれもこれも、未開封である。

 まるで、俺が筋肉痛になることを見越した上で、買い込んできたかのような状況だった。ここまで予想がついていたのなら、初めから俺を抱き枕にしなければよかったではないかと、心の中で文句を垂れる。

 それに、だ。そもそも、俺を抱き枕にするだけで、睡眠時間が一週間から二日に縮まる意味が分からない。それ程安眠できるという事なのだろうか。だがそれは、逆を言えば、俺が安眠できないという事になる。

 あの女は何処までもマイペースで、自分勝手な人間である。それを不快に思っているのに、傍らでは許してしまっている自分がいることに、正直呆れてしまう。

 俺は最初に選んだ箱を開封し、一度に中身全部を使い切った。

 湿布貼りを終えると、俺はさらにメモ用紙を読み進めた。

『食事についてなんだけど、冷蔵庫に食材を買い足しておいたから、好きなように作って食べてね。……まさか、作れない、なんてことは言わないよね? 野菜炒めくらいなら簡単にできるから、ちゃんと自分で作るんだよ。コンビニ弁当はナシ。あんな添加物満載の食事を続けていたら、いつかラフレシアになっちゃうよ』

 俺は引きつった笑みを浮かべていた。あの女は、何処まで俺の私生活を把握していれば気が済むのだろうか。

 我慢をして、続きを読み進めていく。

『コンビニ弁当はNG。重要な事だから、二回書いておいたからね。郷に入っては郷に従えって言うでしょ。ここは僕の家なんだから、ちゃんと僕のやり方に合わせて貰うよ。あぁ、後、僕が起きてからご飯を作ったか、きっちり確認するからね。ズルをしてはいけないよ。ではよい二日間をお過ごしなさいませ。芹沢薫』

 薫と言うやつは、どうも俺の痛いところを突いてくる。今までの調子から察するに、俺が台所にトラウマを持っている事を認識した上で、台所に立てと豪語しているのだろう。トラウマを克服させるつもりなのだろうか。それとも、嫌がらせをして楽しんでいるのだろうか。

 どちらつかずの薫からは、その真意を読み取ることはできない。

 俺は二度目の溜息を吐き、渋々台所へと足を踏み入れたのであった。


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