Ⅱ 黙静課④
適当にくつろげ、と言われても、何もすることが無いのだから、何かをしようとすることもできない。取り敢えず居間の内装を眺めてみたけれど、薫の住居なだけあって、シンプルすぎて面白みがない。目の前に飲みかけのオレンジジュースがあったので、少しずつ飲んでみた。しかしコップ一杯では時間稼ぎにもならず、再び退屈な時間が訪れた。
玄関の方に視線を遣ったが、一向に帰ってくる気配はない。そうなると、ずっと大人しくソファに座っているというのも、心底馬鹿らしくなってくる。俺は玄関に入った時に見た階段を思い出し、少しばかり家の中を探検してみるか、という思いに至った。
今更ながら、独身であるはずの薫が、何故こんなに立派な一軒家に住んでいるのかが、甚だ疑問に思えてくる。……訊いてもいないのに、俺が彼女の事を「独身」だと断言するのは、先程仄かにかまをかけてみて、特に反論が無かったからである。
愈々謎の深まる人物ではあるが、自宅に他人を連れ込める程度には友好的であるらしい。ここで薫が誘拐犯であると考えないのは、やはり彼女が「警察庁の人間」という肩書を持っている事が、一番大きいのだと思う。
警察庁の人間だから誘拐犯ではないと、そんな浅はかな判断を下しているわけではない。寧ろ、俺に害を為すか為さないかという事を、判断の基準にしているのだ。
換言すると、警察庁内で悪い意味で目立っている薫だからこそ、俺は安心していられるのである。つまり、彼女には常に、監視の目があるという事だ。例えプログラマーとしての仕事を本業だと豪語する女であったのだとしても、少なくとも、黙静課にそれなりの人数が集まるまでは、この仕事を放棄しようとはしないだろう。簡単にまとめると、彼女は仕事をやめる羽目に遭うような、そんな失態を犯さない。芹沢薫にはそこそこ責任感がある、という事である。
ただし、俺の憶測に間違いが無ければ、という程度の話にはなるのだが。
階段を上る前に、一応一階の部屋ものぞいておいた。トイレ、風呂場、洗面所、居間、キッチン以外は、全て寝室だった。クローゼットなり机なりが置いてあったから、正確には誰かの部屋と言えるのかもしれない。若しくは、客室だろうか。
この家に何故こんなにも部屋があるのかはさておき、続いて二階に上がった。
こちらも誰かの部屋と思われる、ベッド付きの部屋が連なっていた。二階のトイレは、一階のトイレがあった所の、真上に設置されている。
連なる部屋は、時々物置になっていたり、誰も使っていないのか、埃をかぶっていたりするようなところもあった。しかし何故か、どの部屋にも最低限の家具が置かれているのである。
過去に薫以外の誰かが住んでいたのだろうか、と考えてみる。そこまで古い家ではなさそうだが、新しい家でもなさそうである。ならば、薫が新たに引っ越してきたというよりも、薫に縁のある人物が次々に出て行ったと考える方が自然である。
そこまで思考を巡らせて、はたと、薫の言葉を思い出す。
薫の両親は、俺が生まれてくるよりも前に亡くなっている。もしこの家が薫の実家なのだとしたら、矢鱈広くて部屋数の多い家に、一人で住んでいる理由にも合点がいく。
つまるところ、彼女がこの家を相続したという事だ。それにしても部屋の数は多すぎるのだが、薫に他の姉弟がいたり、大家族世帯として住んでいた過去があったりすれば、説明できなくもない数ではある。
俺は二階廊下の突き当りまで来ると、最後の部屋の扉に手をかけた。
その時。
下階から鍵の開錠音が聞こえてきた。俺は扉を押し開けようとする動きを止め、右向け右をする。そのままスタスタと廊下を歩き、階段を下りた。同時に、玄関の扉が開く。
鉢合わせをした俺と薫は、暫しの間固まっていた。俺は玄関前で突っ立ったまま、薫はドアに手をかけてやや屈んだ姿勢を取ったまま、だ。
先に動き始めたのは、薫の方だった。彼女はすぐに破顔して、家の中に入り込む。その手には、見覚えのあるリュックサックが握られていた。
「別に隠さなくったっていいよ。適当にくつろいどいてって言ったのは僕の方だし。好奇心旺盛なのは、子供の特権じゃあないか」
既に俺が何をしていたか予想のついているらしい薫は、軽い調子でそう言った。荷物を玄関の上に置き、ふぅと息を吐く。
「でもその調子だと、二階奥の書斎はまだ見てないようだね。……童話っぽく、その部屋だけは覗いちゃいけないよって言ってあげてもいいんだけど、残念なことに、隠さなくちゃいけないものなんて何一つないんだよね。だから、好きなように見てくるといいよ」
悉く俺の行動を言い当てる目の前の女に、俺は半ば感服しつつ、半ば不快感を覚えた。いつ見たのかと思う程こうも正確に言い当てられてしまうのは、あまりいい気がしないのである。
俺は首を横に振り、「今日はもういい」と断った。薫は意外そうに「あ、そう」と言うだけで、特に俺の発言を気にしている素振りはなかった。
再び居間に戻り、俺は改めてソファに座った。薫も先程と同じく、向かい側に座る。一つだけ違うのは、傍に大きなリュックが置いてあることだろうか。薫は俺の許可も得ずに、勝手に中身を漁り始めた。
「お、結構まともに用意してたんだね。あの後の事だから、もっと動転してるものだとばかり思っていたんだけれど。僕が見込んだだけの人材ではあるね。嫌なくらい冷静に必需品を詰め込んでいるようだ」
そう言って、中から取り出したものを次々と机上に並べていく。俺が眉根を寄せている事に気付いているのかいないのか、まるっきり無視して、である。
「服も結構詰め込んでたんだね。今着ている服を合わせると、全部で四日分って言ったところかな。着てない一着は明日用に取っておいて、後は全部まとめて洗っちゃおう。うん、それがいい。……うちは特に柔軟剤を使っているわけじゃないけど、別に構わないよね?」
ここにきて漸く、薫は俺の方を向いた。当然不機嫌な表情を目にしたはずなのだが、相も変わらず無視を決め込んでいる。
「構うも何もない。それを洗濯したいのなら勝手にすればいいし、したくないのなら俺が自分でやる」
「全く、ツンデレは困ったちゃんだね」
「誰がツンデレだ。それを言うなら、やけに面倒見の良いあんたを見ると、気持ちが悪くて仕方がないんだが」
「おや、もしや君はヤンデレなのかね」
「殺意はそうそう抱いたことがない」
「そういう子に限って、表裏一体の愛憎を心の内に秘めているんだよねぇ」
「勝手に決めつけるな。俺は今までに、愛も憎しみも抱いたことが無い。抱いたことのある感情と言えば……」
「好奇心くらい?」
言おうとしていた事を相手に言われてしまう程、言葉に詰まることはない。俺はやり切れない思いで悶々としながら、机上に広げられた自分の荷物を凝視した。
「……憎しみはともかくも。愛情を抱いたことが無いって言うのは噓だね。もしそうでなければ、君は馬鹿みたいにあの母親と一緒に暮らしたりはしなかっただろうさ。きっと、早々に見限って、見捨てて、君はどこかへ行ってしまっていた筈だ」
この場の空気が薫のものになってしまったばかりに、彼女は気持ちよさそうに喋り始めた。
「向こうに愛情が無かったのに、どうして首の皮一枚繋がったような生活を送れていたのかだって、原因は至って君にしかないよ。恐らく君はそれを『当たり前の事』と表現していたんだろうけれど、その『当たり前の事』こそが愛情だったんだよ」
「……色々語ってくれたところ悪いが、それは無い。寧ろ俺は生きていくために、あの人の庇護下に居たんだ」
ボソリと零した俺の呟きを聞いて、薫は優しく微笑んだ。
「うん、そうだね」
「あんたは一体、どっちが言いたいんだ」
愛はあった。でも愛はなかった。今の発言からすれば、彼女の意見はとんだ矛盾律を孕んでいる。俺は当てつけのように顔を顰めてやったが、薫は微笑んだままだった。
「僕はね、話に白黒をつけるような質じゃないんだよ。物事って言うのは、そうはっきりと決まってしまうものじゃないからね。……ちょっと君の意見を聞いてみたかっただけさ。でも、ちゃんと分っているようで安心したよ」
俺は、違う意味で顔を顰めた。図らずも、生唾を呑み込んでしまう。
「残念ながら、変人の君にはまだ、『好奇心』と言う感情しかおありではないようなのだよ。君が母親を殺したのも、その原動力には『好奇心』しかなかった。憎悪とか、恐怖心とか、それこそ愛情とか。そういったものは一切なくて、ただただ純粋に、興味を持ったというだけに過ぎなかったんだ。そうでなかったら、君は母親を殺せなかっただろうよ」
俺は閉口していた。呆気にとられた故の沈黙ではなく、意識的な沈黙であった。
「恐らくそれは、父親に対してもそうだったんだね。君の馬鹿でっかい好奇心と言う名の器を満たすだけの、身近な源泉に過ぎなかったんだ」
薫は薄ら笑う。
「いいんだよ、それで。もし君がもっと愛情で満たされていたのなら。誰かに愛情を求めていたのなら。誰かへ愛情を注いでいたのなら。僕は君なんかに目を留めたりしなかったよ。ここに来る必要はない、ってね」
「それだと、俺が感情に欠けた残念な子供だというふうに聞こえるんだが」
俺は反論に出てみたが、薫の笑みが崩れるようなことはなかった。
「聞こえるも何も、そう言っているんだよ。でも、そのままで良いとは言ってないよ。感受性が豊かである事は、この先充実した人生を送る上で一番に重要なポイントだ。幸いなことに、君の持つ『好奇心』は純粋そのものだ。後はその感情を分化するための環境を、こちらが整えてやればいいだけの事」
彼女はまた、子供のように天真爛漫な笑みを見せた。俺は変わらず冷めた瞳で、薫のその瞳を見遣った。
「お節介だな」
「うん、そうかもしれない」
無垢な笑みが、次第に黒く変貌していく。
「でもね、世の中はギブ&テイクで成り立っているんだよ。要するに、互いに利益を求め合っているんだ」
そこまで言われると、俺もさすがに気付かずにはいられなかった。
「あぁ、そういう事か。あんたは、ただのお人好しなんかじゃない。寧ろ――」
俺は真っ直ぐに薫を見据えた。薫も嫌な笑みで俺に視線を返す。
「悪魔よりも悪魔染みた人間なんだな」
薫は何も言い返さなかった。その代わりとでも言うのか、彼女は「さて、洗濯ものでもしようかね」と言って立ち上がった。机上で山積みにされていた俺の服を両腕で抱えると、何かを思い出したように俺を見た。
「良い子はもう、お休みの時間だね。佑磨も風呂に入って寝なさいな。あぁ、そうだ。リンスはちゃんと使うんだよ」
クスクスと笑いながら、薫は洗面所の方へ去っていく。俺は口を堅く結んで、「余計なお世話だ」と呟いた。目の前に残された未使用の服を手に取り、俺も彼女の後を追って居間を出た。




