Ⅰ 佑磨
俺は普通にしているだけなのに、何故か周りから疎まれる。
幼稚園に通っていた時のことだ。皆がジグゾーパズルをしていたから、ちょっと指向を変えて、思い付きでパズルを作ってみた。それを隣の子にやらせてみると、
「こんなの、パズルじゃない」
と言って、投げ捨てられた。そんな筈はなかったから、仕方なく自分でやることにした。簡単なパズルだったから、ものの五分で完成した。
「ほら。パズルじゃないか。ちゃんとできるぞ」
俺はそう言って、完成したリンゴ型の立体パズルをその子に見せた。しかし向こうは顔を顰めるばかりで、「ズルした!」と叫びながら何処かへ行ってしまった。
ある時は、折り紙で薔薇を作っていると、
「すごーい! これ、どうやって作るの?」
と女の子に話しかけられた。久々に誰かと話せたことが嬉しくて、俺は夢中になって作り方を説明した。
「あのね、円を意識して作るんだよ! えーっと、こうやって折って、開いて、折って……」
ふと、返事がない事に気が付いた。手を止めて顔を上げると、女の子は不満げに口を尖らせていた。どうしたの、と尋ねると、その子は今まで耐えていたものを吐き出してしまうかのように、金切り声を上げた。
「折って開いてばっかり! もう、折り紙がぐしゃぐしゃだよ! こんなんで、バラなんか作れないよ! ユーマ君の、嘘つき!!」
舌を出して、女の子は去っていった。俺は何も嘘など吐いていなかった。仕方がないからその後一人で続きを折っていくと、やはりきちんと薔薇を折ることが出来た。
こんな事もあった。
先生が皆に対して、「本を読んであげるから、明日自分の好きな本を持ってきてね」と言ったので、言われた通り、家から好きな本を持ってきた。俺の番になって先生にその本を渡すと、先生は困ったようにはにかんだ。
「佑磨君、そういう難しい本じゃなくて、みんなが持ってきている物みたいに、絵の描いてある絵本にしましょう、ね?」
俺は首を捻り、本のあるページを開いて指差した。
「でも先生。この本にも絵はあるよ?」
本の堅苦しい挿絵を見た先生は、困った笑顔を崩さずに、「せめて日本語で書かれている本だと、先生、嬉しいな」と言った。先生が読めないことを知った俺は、読んで貰うことは渋々諦めた。その時、このクラスを見に来ていた他の先生たちが、「浅野先生も大変ね」と口々に囁いているのを耳にした。
俺は言われた通り、ちゃんと本を持ってきたのに。好きな本を、と言われてそれを持ってきただけなのに。俺は手間のかかるような子なんかじゃないのに。――どうして先生たちは皆、浅野先生を可哀そうな目で見るんだろう。
この時の俺は、その真意をまだ知らずにいた。それ故に、周りを気にすることなく、一人、片隅で、ドイツ語で書かれた医学書を読み耽っていた。
小学校に上がってからは、俺も幾分か理解するようになっていった。それは、俺のクラスでの浮っぷりが如実に表れたからだ。
小一の頃の担任教師のモットーが、元気な学級を作ることだった。そのためか、教師は児童に休み時間は外で遊ばせようと必死になっていた。まだ遊び盛りのクラスメイト達は、嬉しそうに外へ遊びに出掛けて行った。反面、外で遊べない俺に対しては、皆が皆、からかいの言葉を残していった。生まれつき体が弱くて外で遊べないだけなのに、からかわれるのは何故か。俺はよくそんなことを考えていた。
ある時、どんなにからかわれても外に行こうとしない俺を見兼ねたのか、教師が俺に接触を図ってきた。
「外で遊べば体力も付く。きっと、その体質も治るさ。良い事尽くめじゃあないか」
そう誘われて、行かない程俺は腐っていなかった。言われるままに誘いに乗り、外に出てボール遊びをしたところ、残念ながら見事に三分で倒れてしまった。その日が晴天だったせいでもあるが、俺が帽子を被らなかったせいでもあるのだろう。保健室へ運ばれた後、俺は微かな意識の中で、教師が注意を受けているだろう、そんな声を耳にした。それ以来、教師は俺にとやかく言うことはなくなった。
これに反動してか、俺は病弱のレッテルが張られた。転んだだけで「骨折れた?」なんて有り得ない様な事を言われるし、体育の時間になると、見学の俺は「病人様のお座席でございまーす」とか何とか言われ、折りたたまれた体操マットまで誘導される。
二年に上がった頃からは、本を読むだけでガリ勉扱いされ、色白の肌に対しては「白粉でも塗ってるの? それとも、しっくいー?」などと馬鹿げたからかいをして、皆ゲラゲラと笑った。極めつけは、テストで百点を連発する俺に対し、「せんせぇー! 蘇芳君、カンニングしましたぁ!」と在りもしない嘘を吐かれ、教師と教頭、校長の三人に囲まれて、三時間も説教を喰らわされた事だろうか。その間、俺は無実を訴え続けたが、胡散臭い百点の連続では信用度が低かったらしく、誰にも信じてはもらえなかった。それからは、テストで点数を取る時は、気を付けるようになった。
小学校の、それも低学年の子供たちが、こんな節操もない事をする筈がない。大人ならそう思うかもしれない。彼らはもっと、可愛げがあるものだと。だが、こんな認識なんてものは、端から大間違いだ。
大人でさえも異物を取り除こうとするのに、子供がそれをしないわけがない。寧ろ、引き際を知らない子供の方が、大人よりもよっぽど残酷な生き物なのではないだろうか。
俺は比較的早いうちに、ここまで考えを辿り着かせることが出来ていた。お陰でからかいの言葉や行為では動じなくなったが、こうした排除するような周囲の動きというものが、俺の精神を切り詰めて行ったのは確かだった。
疲労困憊とでもいうのか。一日一日溜まっていく学校でのストレスが、家で発散できればあんなことにはならなかっただろうに。
俺の家族構成は、医者の父親と、専業主婦の母親と、俺の三人である。父親は有名な病院で外科医として働き、俺の憧憬の対象でもあった。しかし、名医であるが故に仕事の時間は不規則で、家には殆ど帰ってこなかった。しかし、帰ってくれば家族との時間を埋め合わせるかのように良い父親だった。母親と会話を弾ませたり、俺に医学の面白い話や、大変な話を沢山話してくれたりした。時間があれば家族で何処かに出掛けたりもした。
母親は元々一流企業のエリートキャリアウーマンで、数々の業績を残してきた人だった。父と結婚をして寿退職し、専業主婦となったものの、そのテキパキとした行動が衰えることはなく、寧ろ家事をするだけでは物足りないといったような勢いがあった。お陰で家の中は何処もかしこもピカピカで、まるで新居住宅のような状態が維持され続けていた。食事に関しても、無駄に収入だけはあるためか、母親は毎日豪勢な手料理を作った。だがそれは俺に対してではなく、いつ帰ってくるかわからない夫のために、用意しているようなものだった。
父と母は、所謂恋愛結婚というものをしたらしい。俺が生まれてから八年経ってもその酔いが覚めることはなかったらしく、母親は至って夫のことしか見ていなかった。父親も覚めているわけではなかったようだが、俺のために時間を割いてくれた分、幾分か落ち着いていたのだと思う。それが父方の親族からの圧力だったと知るのは、もう少し後の話だ。
母親は、いつも退屈そうにソファに座っていた。それは通常よりも早く仕事を終えてしまうからであって、時間が多く空いてしまうからなのだ。けれど、母親はその時間を俺との時間に充ててはくれなかった。幼稚園に通っていた頃は、まだマシだった。親が送迎をするという決まりがあったために、少しだけ俺に構ってくれていた。と言っても、俺が興味を示した物を買い与えるという程度で、決して心から接してくれていたわけではなかった。当時の俺はそれを愛情と見なしていたらしく、クラスで浮いていることにも気付かずに日々を過ごしていた。
母親の態度が急変したのは、俺が小学校へ上がった時からだった。通学はご近所の子供たちとの集団登校になり、母親が送迎の役目から解放されたためである。俺は一気に放置されるようになった。食事は相変わらず豪勢だったが、俺に何かを買い与えることはなくなったし、会話も必要以上にはしなくなっていった。朝起きるのも、自分で管理していないと起こしてはくれないし、保護者と共同でやりましょうと題された学校の宿題なんかに、手を出してくれる筈もなかった。
こうした放置主義によって、俺は学校で起きているからかいに対しても考えが及ぶようになったのかもしれない。――愛情が注がれない分、俺の方も馬鹿みたいに時間が余ってしまっていたから。
一度だけ。ほんの一度だけではあるが、母親があまりにもつまらなさそうな顔をしていたものだから、俺はソファに座っている母親に向かって「時間が余っているのならパートで働けばいいのに」と言ってみたことがある。
案の定、凄んだ目で睨みつけられた。
「人の事に時間を費やしていないで、自分の事だけをしなさい」
決して怒鳴られたのではない。あくまでも静かな口調で、それでいて頑として突き放すような声で、そう言われてしまった。自分は人の事に時間を費やしているのに、と言い返したかったけれど、そういうことはしなかった。今ここですべて突き放されれば、俺は生きていけないことを承知していたからだ。
それからは、俺は母親に提案なんてものはしなくなったし、勿論、頼み事もしなかった。学校の書類や集金など、必要最低限なことだけ。母親と会話をした。最早会話とは言えないレベルの会話を。
簡単に言えば、母親は俺のことを嫌っていたのだ。自分で産んだくせに、お荷物としか思っていなかったのだと思う。
ある時、耐えかねた母親はこんなことを呟いていた。
「あんたが医学の才能を持って生まれてきてくれたことには、感謝しているのよ。お陰でこうして、パパと一緒にいられるんだから。でもね、どうしたって、あんたはそんなに普通でいたがろうとするのよ。素直にママたちが決めた、私立の小学校に入ればよかったのに」
母親がこんなことを言ったのは、十割がた俺のせいだった。俺は幼稚園時の最後で、最大の我儘を言ったのだ。
「みんなと一緒の学校に行きたい」
と。この時、父親が親戚の反対を押し切って、俺の希望を叶えてくれた。その反作用が、母親に降りかかってきていたのである。一つに、父方の親族からの嫌味が絶えず、押し切ったのは父親の方であるにも関わらず、母親のせいにしていったこと。これは母親も母親で、何故か父親のせいにはしたがらなかった。もう一つに、小学校の、親同士の付き合いがあった。母親曰く、その中で自分が一番浮いているとのことだった。その原因の一割は、かつてキャリアを積んでいた故に晩婚だったため、保護者の中では一番年上であったこと。そしてその九割は、俺の悪評故の仲間外れだった。
協調性がない。礼儀がなってない。常識をわきまえていない。いつも分厚い本を持っていて気持ちが悪い。一人だけ浮いている。
数え上げればきりがない程の悪評。これも、俺が私立の学校に行っていれば、なかった話だと母親は考えたのだろう。俺はこの時、母親が突然冷たくなった原因が、送迎の必要がなくなったからなのではなく、これであることに気が付いた。
母親はこんなことも言っていた。
「ねぇ、佑磨。公立の小学校に行って、良い事なんてあったの? あの時我儘なんて言わないで、パパを困らせたりしなければ、こんなことにはならなかったのよ。……あぁ、でももう手遅れね。今からじゃあ、編入なんてできないわ。よっぽどの事情がない限り、あそこの学校、編入試験をさせてくれないんだもの。仕方がないわ。佑磨が中学生になるまでの辛抱ね」
そう言って、深く溜息を吐くのだ。
俺だって、後悔しなかったわけではない。しかし、ある意味正しい選択をしていたのかもしれない。何でもかんでも言いなりになって、両親や親族の手のひらの上を転がるように生きていれば、今ここに俺はいなかっただろうから。
このように冷たい母親ではあるが、子供のように顔を輝かせる時がある。
言うまでもないが、夫が帰ってきた時だ。今日は帰れるとの連絡が入ると、生き生きとしながら台所に立ち、いつも以上に腕を振るって料理を作り出す。帰ってきた時には真っ先に玄関に向かって、満面の笑みで「お帰りなさい」と言うのだ。俺には一度も言ってくれたことなんかないのに。
俺は母親に愛される父親が羨ましかったけれども、それ以上に一緒に本を読んでくれることの方が楽しかった。だからこの時だけは、いつもの虚無感を忘れ去ることが出来た。例え俺に向ける母親の笑みが偽りだったのだとしても。
俺は虚偽の世界を満喫し続けた。
――あの日までは。