Ⅱ 黙静課②
再び右手で黒い傘を握りしめた俺は、先程陰気な男が消えていったアイボリー色のドアの方へ、改めて目を向けた。
ドア一枚を隔てた向こう側で彼が何をしているのか、さっぱり想像がつかない。一つだけ分かるのは、そのドアが通常のドアよりも厚くできているという事である。厚い、という事は、防音か何かの役割を果たしているのだろう。そんなことが分かったところで、実際に男が何をしにあの部屋へ入ったのかは、やはり見当もつかないのである。
「芹沢薫。さっきの男は一体誰なんだ?」
脳内で想像しきれないものは、訊いてしまった方が早い。そう思った俺は、単調に尋ねた。芹沢はもう一度自席に戻って、何かの作業をしている真っ最中だった。彼女はその手を止め、何の事やらと笑みを向けてくる。
「フルネーム呼びは感心しないね。ここはいっちょ、お姉ちゃんって呼んでよ」
相変わらず人の話を聞いているのか否か。この女は何処までもマイペースに会話を進めようとする。少し苛立ちを覚えたので、俺は「姐サン」と呼んでやった。すると、芹沢の顔が不満そうに歪んだ。
「それはないよ。僕に気風の良い気性は備わってないよ。……そうだなぁ、薫お姉ちゃん、で譲歩しようじゃないか」
「どちらにしろ、『お姉ちゃん』って言わなきゃならないじゃないか。俺はあんたの弟じゃないって、さっきから言ってるだろうが」
俺が食い下がると、芹沢はあたかも重要な案件を扱うかのように、真剣に悩み始めた。
「うーん、別に血が繋がっていなくても、年上の若い女性に対する愛称として使ってくれればいいだけなんだけどなぁ。そんなに『お姉ちゃん』って言葉は使いにくいものかなぁ。……もしかして、僕は自分だけ若いと思っているだけで、実際子供から見ればただのオバサンでしかないとか!? やだ、僕にそこまでの貫禄はまだないよ!」
ハッとした顔をして、自己完結をする芹沢。まるで全ての謎は解決したとでも言うように、彼女は凛々しい笑みを俺に向けてきた。
「さらに譲歩して、薫オバチャンはどうだ!」
「嫌だよ。二十三歳の独身女性に対して『オバチャン』なんて言葉を使う子供、ひねくれている以外にないじゃないか」
「君はひねくれ者じゃないの?」
「そこまでひねくれているつもりはない」
俺は、今日何度目になるか分からない溜息を吐いた。〈ゴミ箱〉探しを手伝ってくれた、あの土方という女と会話をした時も、かなり疲れた覚えがある。しかし芹沢を相手にした日には、土方など比ではないという事を、身をもって実感させられる。執拗に話しかけられてくるよりも、馬鹿みたいに話を脱線させられていく方が、収拾をつけるために無駄に神経を使って、疲労困憊するに決まっている。
俺は何としてでも話を戻そうと、徐々に軌道修正を始めた。
「此処はもう、簡単に『薫』でいいだろ」
「君はいきなり高いハードルを越えてくるのがお好きなようだね。せめて、『ちゃん』付けにしようよ」
「俺とお前は同級生か!」
俺は芹沢との会話により、土方が俺を同級生感覚で食事に誘ってきたくだりを思い出す。
「……全く、黙静課の人間って、何でこうも馴れ馴れしいんだ?」
芹沢は俺の呟きに反応した。顎にそっと曲げた指をあて、何やら考え込む仕草をする。
「……もしかして佑磨、稀に会った?」
恐らく、俺の脳内でピックアップされている人物と、芹沢が想像している人物は一致しているのだろう。一応俺は、「稀というのは、土方稀の事か?」と尋ねた。彼女は首を縦に振る。
「あんたと出会った翌日にな。その時、特設管理課という部署があることも知った」
芹沢はそれを聞くと、「ははーん、そゆ事」と一人で納得している。
「道理で早いと思ったんだ。教授は黙静課の正式名称を知らないからね」
俺は半眼になった。
「そのわりには、見学ツアーの日程が今日になっていたのだけれど?」
「あぁ、全く予想がついてなかったわけではないよ。稀は優しい子だからね。大方、街中をウロチョロしている君を見て、いてもたってもいられなくなったんだろう。……今日の見学ツアーは、君が制限時間に気付くのと、稀が君に話し掛けるという事象が重なった場合のために設定しておいたものなんだ。まぁ、重なる確率の低い事象が、まさか起こるとはあまり思っていなかったけどね」
俺はさらに半眼になった。
「だがさっき、あんたは『待ちくたびれた』と言っていたよな」
「ん、それは、ラスボスの決め台詞だからだよ。結果がどうであれ、来てしまったのなら言わなきゃ場が締まらないじゃん」
芹沢という女は、律儀にゲームの設定に則っていたようだった。俺はこれから何度溜息を吐けばいいのやらと先を思いやられながら、それでも溜息を吐いた。
「……もういい。それよりも、さっきこの部屋に入ってきた男の事について、そろそろ教えて貰いたいんだけど」
「仕方ないな。そこまで言うなら『薫』って呼び捨てして貰っても構わないよ」
「お前、俺の話聞いてた?」
「大丈夫。ばっちり聞いてたよ。僕の耳は、一度に十人の言葉を聞き分けられるんだ」
「聖徳太子かよ!」
俺のツッコミを聞いた芹沢、改め薫は、君は駄目だなとでも言うように、肩をすくめた。
「その説は古いよ、佑磨君。聖徳太子――今では厩戸王と呼ぶ方が正確であるとされているけれど。彼は十人の話を一人ずつ順に聞いたうえで、それぞれに対し明快な回答を行った、というのが実態だったみたいだよ」
「ただのツッコミに、何でそこまで詳しく否定されなきゃならないんだ! っていうか、それを言うならお前のネタは何処から挙がったものになるんだよ!」
「ネタじゃないさ。事実を言ったまでだよ」
俺は次の言葉を失っていた。まともにツッコんでいては、日が暮れかねない。
「……一度に十人の言葉を聞き分けられるのなら、一人の言葉は尚更判断できるわけだよな。いい加減、さっきの質問に答えてほしいんだけど」
「若槻陶也、三十歳。元警察庁刑事局鑑識課。この特設管理課設置当時に、部署移動をしてきた、数少ない国家公務員だよ」
「ちょっと待て。いきなり情報過多だ。つまり、さっきの男は黙静課の一員という事だな?」
「うん、つまりつまりそういう事。鑑識課よりも良い研究施設を用意してあげるよ、って餌をぶら下げてみたら、潔く食いついてきた変人さ」
何か良くないワードを聞いた気もしたが、総合的に考えれば、黙静課の面々は、揃いに揃って変人集団だという事になる。
「俺をその変人集団の中に入れ込む気か」
「言っておくけれど、僕の誘いに乗った時点で、君も既に変人だと思うよ?」
変人に変人と言われる日が来ようとは、以前の俺は、よもや思いもしなかっただろう。否、思ってもいなかった。俺の過去の話なのだから、容易に断言できる。
「まぁ、ここの変人率が高い事は否定しないけど、常識人もいるにはいるよ」
「俺の知る範囲では、今のところ見当たらないのだが」
「うっそだぁ! 稀は常識人のカテゴリーに属してるんだから、思いっきり見当たってるじゃないか」
「どこが常識人だ。誘拐犯まがいの発言しかしない人間だぞ?」
「ちょっと不器用なだけなんだよ、稀は」
「物は言いようだな」
呆れた俺は、気分転換に窓の方に視線を逸らした。まこと見事に、西の空が橙色に染まっている。些か眩しいが、不思議と吐き気はしなかった。
俺は諦めたように笑った。
「いいよ、黙静課に入ろう。どうせ、俺には他に行くあてはないんだ。拒絶したって、結局ここに入る羽目に遭う事は目に見えている」
溜息交じりに言った言葉に、薫は薄ら笑いを浮かべた。
「……物分かりの良い子は、嫌いじゃあないよ」




