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香記  作者: 鏡春哉
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Ⅱ 黙静課

 金木犀というのは、それはもう、遠くからでも気付いてしまうくらいの、甘い芳香を漂わせている植物だ。香水のように凝集されきった香りではないにしろ、甘く清々しい独特なあの香りは、濃く深い。だから金木犀の時期が来たな、と認識する程度に匂うなら、まだ俺でも情趣を解せる範囲内にある。しかし、その香りを直に嗅ぎ続けるには、眩暈を覚えてしまうほど強すぎるわけである。

 何が言いたいのかと問われれば、答えるまでもない話だと言っておこう。俺は、抱きしめたきり一向に離れようとしない芹沢に対して、絶賛不快感と眩暈を覚えているわけである。

「……そろそろ離れろ」

「……えぇー、後もうちょっと」

 まるで朝起きれずに二度寝しようとする不届きな輩のように、芹沢は一層俺を強く抱きしめた。俺はその強さに比例して、ますます眉間にしわを寄せていった。

 決して、大人の女性に抱きつかれていい気になっているわけではない。寧ろ逆だ。いい迷惑をしている。

 彼女から放たれる金木犀の香りが、自然のそれや人工的なそれよりも明らかに薄いという事は、「香り」に対して素人である俺でさえも、容易に分かる事だった。その証拠として、こうやって密着しなければ、彼女の香りに気付くことが出来ない事が挙げられる。

 しかし、ここで断っておきたい事柄が一つだけある。

 どれだけ香りが薄められているのだとしても、元々の成分には変化がないという事だ。つまり、自然に咲く金木犀の香りを嗅ぎ続けると気持ちが悪くなるように、芹沢から放たれる芳香を嗅ぎ続けてもまた、気分が悪くなってしまうのである。恐らく両者の間に多少の時間差はあるのだろうが、結果だけを見れば同じようなものである。

「いつまでこの状態でいるつもりだ。いい加減にしろ」

「うーん、佑磨の髪の毛がっさがさぁ」

 数日前と同じように、俺の首元に顔を埋めている芹沢。おおよそ、俺の髪の毛が頬にでも当たっているのだろう。彼女はゆっくりと自らの頭を振った。「がっさがさ」だと文句を言ったはずの俺の髪の毛に、柔らかい頬を擦り付けてくる。俺は最早、何とツッコミをいれればいいのか分からなくなってしまった。

「……警察に通報するぞ、変態」

「残念でしたぁ。ここは君らの言う『警察』を統括する、『警察庁』なのであります」

「警察庁の人間でも、人間である限り法に拘束されているだろうが。幾ら上の存在だからと言っても、捕まらないとは限らないんじゃないのか」

 芹沢からの反論はなかった。俺はやり込めたのだろうかと一瞬だけ考えたが、やはり、一瞬の考えは脆いものだった。芹沢は往生際悪く抱きしめてくるのである。

 俺の眉間に寄るしわが、時間とともに二次関数並みに増加し始めた頃、後方からドアの開閉音が聞こえてきた。例外なく、室内に足を踏み入れるような音もする。

 誰かが入ってきたのは、間違いようの無い事実だった。しかし、それにしても、芹沢は離れようとしなかった。さすがにこの状態を誰かに見られるのは嫌だったので、俺は全力で芹沢の体を押し返した。けれども残念なことに、彼女はびくりとも動かない。俺の体力の無さによるものなのか、はたまた、芹沢の筋力の為せる業なのか。……子供というものは、体格差からしても大人に対してハンデを追っている事は、言うまでもない事実であることを俺は再認識した。

 果たして、近付いてきていた足音が不意に止まった。俺は冷や汗を掻きつつ、抱きしめられたまま横目に様子を窺った。

 近いと言っても近すぎず、かと言って遠くもない位置に、見るからに陰気な、上下紺色ジャージ姿の小柄な男が立っていた。彼は温度の無い黒い瞳で、じっとこちらを見つめてくる。

 温度が無いというのは、卑下とか侮蔑とか軽蔑とか、そういった冷めた(・・・)感情を指しているのではない。文字通り、温度が無いのである。変温動物とかそういった物理的な体温ではなく、単純に、感情の込められていない目をしていた。「何を考えているのか分からない変人」の典型例であると言ってもいい。

 感情の無い視線というものは、観察対象にされている事と紙一重だ。何処までも客観的に、起こっている事象を観るのである。故に、観られている側はどのように反応すればいいのか、全くもって想像がつかないのである。この状況を作り出した元凶は未だにしつこく抱きしめ続けているし、抱きしめられた本人は体格差によりされるがままになっている。それを傍から観察する第三者。

 ……どんな状況だ、これは。

 一種のプレイか何かだろうかという考えが浮かんだ時、状況は変化した。第三者であった男が動きを見せたのだ。動きといっても、積極的な動きではない。寧ろ、唐突に興味を失ってしまったかのような動きだった。

 男は俺たちから視線を外すと、芹沢の席の左後方にある、アイボリー色のドアの向こうへと消えていった。ガチャン、と虚しくドアの閉まる音が響く。それを耳にした芹沢は、漸く俺を解放した。

「ふぅ、満足。でも、このがっさがさの髪はどうにかしないといけないね」

 俺はドアの向こうに遣っていた視線を、徐に正面に戻した。そこには、感想通りに満足そうな顔をしている芹沢がいた。

「いや、開口一番にその発言はないだろ!」

 芹沢は暫し目をぱちくりとさせた後、当然の事のように反論した。

「開口一番も何も、僕らはさっきから会話をしていたじゃないか」

「一旦途切れたから、再スタートの意味での『開口一番』だ!」

「ほう、そういう意味でも使えるのか。日本語ッテ、深ーイデースネー」

「お前も日本人だろ」

「日本人でも語彙に乏しい人間は存在する」

「国家公務員たるものが、ボキャブラリー不足であっちゃ困るだろ」

「僕は国家公務員ではないけれど?」

「…………………………」

「…………………………」

「…………………………は?」

 今まで抱いていた第三者の男に対する疑問が、とんでもなく遠くに吹き飛んでしまった。

 警察庁の人間であるにもかかわらず、国家公務員でないというのはどういうことなのか。いや、警察庁の人間たるもの、前提条件として国家公務員でなくてはならない。それにもかかわらず、「国家公務員でない」と口走るこの女は、一体何を考えているのだろうか。

「……それは、国家の言いなりにはならないという意味での、発言か?」

「いや? 言葉の通り、僕は国家公務員ではないよ。もっと言えば、公務員ですらない」

 顔色一つ変えずに答える芹沢。あまりにも無垢な瞳を一直線に向けてくるので、俺は目の遣り場に困ってしまった。動揺を隠せずに、眼球がちょろちょろと動く。そこでちょうど目に入ったのは、ずっと右手に掴んでいた、例のアレだった。長らく掴んでいたせいで、その部分だけ少しばかり蒸れていた。

 俺は咄嗟に、目の前にいる芹沢にそれを突き出した。

「そ、そうだ。これを返すのを忘れていた!」

 目の前に黒く細長いそれを突き返された芹沢は、俺とは反対に、動揺もせずに受け取った。徐に立ち上がり、自席までよろよろと歩く。机の引き出しを開け、中から筆箱のような水色のケースを取り出す。芹沢は受け取った物を机上に置き、自身は黒い椅子に座り込んだ。

 取り出したケースは、どうやら裁縫箱らしかった。何故職場に裁縫箱を持ち込んでいるのやらと不可思議に思っていると、彼女は無言のまま、中から糸切り鋏を取り出した。それから傘布を締めている紐を外し、手元を持って、傘布を揺らした。その折に見つけたらしい、例のブランド名の書かれたステンレス製のプレートと、傘布の間に、糸切り狭を差し込んだ。

 チョキン、チョキン、と容赦なく糸を切り、芹沢は傘布からプレートを外した。いきなり何をし出すのかと声に出そうとしたが、俺はどうにも、口を開くことが出来なかった。否、ぽかんと口を開けることしか出来ず、ただただその様子を眺めていた。

 好奇心と言えば聞こえはいいかもしれないが、要するに、俺は今から何が始まるのだろうかと、内心で興奮していたのである。彼女の行動に魅入ってしまっていたと言ってもいい。とにもかくにも、謎の行為に多大なる興味を示していたのである。

 芹沢は外したプレートを裏返し、元々取り付けられていた位置に仮置きした。次に、裁縫箱から黒い糸と針を取り出す。巻き糸の芯にしてある厚紙には、「ポリエステル(黒)」と書かれていた。彼女はその糸の一部を解き、ある程度の長さを取ると糸切り狭でチョキンと切った。糸の端を持って針の穴に差し込み、もう片方の端を玉結びにしてから、今一度プレートを縫い付け始めた。

 彼女は裁縫も手馴れているようで、一連の作業には一分もかからなかった。傘の裏側で玉留めをした後、余分な糸を切り取る。針を針山に刺してから、彼女は傘の手元を持った。石突を天井に向け、出来具合を確認している。

 満足のいく出来だったのか、芹沢は傘布をもとのように折り畳み、紐で括った。そうして立ち上がり、再び俺の目の前へとやってくる。

 彼女は笑みを浮かべ、無言で黒い傘を手渡してきた。俺は首を傾げ、何も考えずに受け取った。確かに受け取るときは何も考えていなかったが、受け取ってから、芹沢が何をしたのかをすぐさま確認した。

 件の細長いプレートを見ると、そこに書かれている筈の文字列が、以前とは異なる文字で構成されていた。

〝Υουμα〟

「……ヨウマ?」

 分からずに芹沢の方を見ると、彼女は察しろとでも言うような表情をして俺を見ていた。

 ギリシャ文字である事には間違いないのだが、このような文字列は見た事がない。故にそのままローマ字読みをしてみたのだが、それも違うという。

 もしや、英語に戻せば分かるのだろうか。そう考えて、俺はぶつぶつと呟きながらアルファベットを並べていった。

「ワイ、オー、ユー……、『you』かな。ん? ユー? ユーマ? ……佑磨?」

 改めて芹沢を見ると、満足そうに笑みを浮かべている。俺は今になって漸く、その表情の意味を理解した。

「俺に、くれるのか?」

 ぼそりと呟くと、芹沢は満足げな笑みから、薄ら笑いに表情を変えた。

「君が此処へ来たという事は、当然あの老人の店にも出向いたってことだよね」

 質問に質問で返され、俺は混乱しながら首を縦に振った。

「つまり、僕がそこでなんて言ったかっていうのも、聞いたってことだよね」

「『シンプルなものが好きな弟にやるんだ』、か?」

「そう。『シンプルなものが好きな弟にやるんだ』、だよ」

 俺は再度、眉根を寄せた。

「あんたが構わないのなら、別に貰う事に拒否はしないが……。俺は断じて、あんたの弟ではない。DNA鑑定をしても、それは明白な筈だが」

 俺は「スコレー」で出会った、バイトの女が口走っていたことを思い出しながら言った。対して彼女は、端から冗談とも言えない冗談を言うつもりはないらしかった。

「うん、そうだよ? 事実上、君と血の繋がりはない。だって、僕の親は随分と前に亡くなっているからね。それも、佑磨が生まれてくる前に。どう考えても、物理的に無理なわけだ。……佑磨が過去からやってきた人物なら、話は変わってくるけど」

「……俺が過去からやってきた人物のように思えるのか?」

「人は見かけによらないって言うじゃないか」

 俺は呆れか安堵か、自分でもよく分からない溜息を吐いた。

「つまり、初めから俺に渡すつもりでいた。そういう事だな」

 芹沢は子供のようににっこりと笑った。本当にこの女は、いろんな笑い方をする。

「だってさぁ。真っ黒な傘なんて、僕の趣味じゃないよ?」

「俺だって、こんなに長い傘、好きでも使いたくない」

「それは、大人になった君に向けてデザインしたんだから仕方がないじゃん? あの店、子供用は受け付けてなかったんだもん」

「次回からは作ると、マスターが言っていた」

「あ、ほんとに? あの人もチャレンジャーだねぇ」

 芹沢は口の端を上げて笑っていたが、大して興味を示していないようだった。

「なら次は、僕用にメルヘンチックで機能的なデザインの傘を作ってもらおうかな」

「どんな傘だよ、それは。それにそもそも、子供用じゃないだろ」

「何を言ってるの、佑磨。僕が子供にあげる用(・・・・・・・・・)に作ってもらうんだよ」

「……修飾語が足りない」

「あら、また一本取られちゃった」

 芹沢はクスクスと笑った。


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