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香記  作者: 鏡春哉
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Ⅰ 佑磨⑬

 教授と別れてから、俺は一直線に駅へ向かった。時刻は午後二時過ぎ頃。昼時よりもさらに人は少なくなり、俺は余裕で座席に座ることが出来た。腰を下ろす事がこうも安堵感を覚えさせるというのは、ここ数日で幾度も身に染みた事である。

 田中武という人物と出会う前から、彼が変人であるという事はインターネットの情報よりあらかた予想はついていた。しかし予想は単なる脳内の創造物に過ぎず、彼自身の性格を実感するのはやはり、彼と対面した後なのだ。

 偏に変人と言っても、こちらが身構えておかなければならないような変人ではなかった。変人というと、性格に難がある、つまり気性が極端に荒かったり、何を考えているのか分からなかったり、聞く耳を持たなかったりするとかいう事象を思い浮かべるだろう。

 確かに教授はイマイチ何を考えているのか分からなかったが、性格は朗らかだったし、大いに柔軟性のある人だったと思う。俺としては、もっと気紛れな人なのかとも思っていたが、案外鋭い洞察力なんかを持っていたりもして、また違った意味で肝の冷える思いをさせられた。

 そんな教授でさえも、芹沢薫が何を考えているのか分からないという。

 俺は今更ながらに、人生の選択を間違えたのではなかろうかと不安に駆られた。理由もなくただ本能的に嫌な予感がする今の状態を味わうくらいなら、俺は素直に家に留まっていた方が良かったのではないだろうか。そんな思いが脳裏を過ぎった。

 勿論、俺はそんな馬鹿な考えをすぐに取り消した。過ぎ去ったものはどうしようもないし、戻ったところで俺の手に負えなくなっている事は考えなくてもわかる。

 客観的に、只今俺の置かれている状況を見てみれば、俺が天涯孤独の八歳児であることは最早否定しようがない。付け加えるとすれば、罪を犯したはずのこの俺が、罪に対する意識もそこそこに、芹沢薫の用意した盤上を半ば嬉々として進んでいるという事くらいだろう。

 言うなれば、俺は己の好奇心に打ち勝てなかったのだ。罪の意識とか嫌悪感とか、焦燥感とか、そういったものを簡単に上回ってしまうくらいには、俺は源泉を探求することに余念がないらしい。こうして冷静に自分の事を分析できるのも、そういう事に相違ない。いや、もしかすると、俺はもとから恐怖など抱いていなかったのかもしれない。

 俺は何を思って家を出たのか。住宅街を意味もなく彷徨ったのか。

 警察に捕まることが怖かったから? 周りから糾弾されることが怖かったから? 事件後の世間の目が怖かったから?

 そんな訳がなかろう。文字通り、「何も考えずに」ただただ家を出てきたのだ。この「何も考えず」の表面上には、確かに、「此処に居てはいけないような気がする」という考えもない事はなかったが、それにしたって、「気がする」という程度の曖昧な判断だった。

 つまり、俺はあの時、何もかも失ったものだとばかり思っていたのだ。何もかもを失った俺が、意識的に何かをしたいなどという欲求に駆られるはずがない。所謂、廃人と化していたのである。街を徘徊したのだから、ゾンビと言ってもいいかもしれない。此処ではゾンビの定義とは真逆になってしまうが、死体が生きているように動いていようと、生者が死んだ幽霊のように徘徊していようと、見た目だけでは判断できまい。

 ゴトトン、と電車が上下に揺れた。この揺れによって俺の思考が途切れると同時に、不意に過去の事が俺の脳裏に浮かんだ。

 昔、家族旅行で地方の在来線に乗ったことがあるが、並くらいには鈍感だった俺の三半規管も、それにはどうやら耐えられなかったらしい。酔ってばかりで表立っては全く楽しかった記憶はないが、何故だか、郷愁の念を感じるのである。やはり、家族揃って、というところが一番重要だったのだろうか。もっと言えば、父親と一緒に行ったというところが。

 その時何をしに行ったのかは、残念なことに俺が幼すぎて覚えていないのだが、父親に肩車をしてもらったことだけは覚えている。それをして貰ったのは、後にも先にもその時だけ。俺が不覚にもバランスを崩し、危うく自動車と接触しそうになったのだ。その後、俺だけ(ここだけは敢えて強調しておく)が母親にこっぴどく叱られた故に、ねだる事はしなくなったし、「やってあげようか」と父親に言われても断り続けた。

 再び、ゴトトン、と電車が揺れる。

 あの時の在来線と比べれば、都会の電車とは何て便利で快適なのだろうか。在来線の時刻表を見ると、一時間に一本なんて数字がざらにあった。乗り過ごしたら、何もないプラットホームで待つ他にすることがない。申し訳程度に自動販売機があったが、出てくる飲み物が安全なものかどうかさえ、分からなかった。けれど、その待ち時間に父親と沢山の話をした記憶がある。父親との会話は殆どが医療に関係するものだったけれど、父親と話が出来るだけでも嬉しかった俺にとっては、全くもって退屈しなかった。そんなこんなをしているうちに電車がやってきてしまい、寧ろ時間が足りないくらいだったのを覚えている。

 対してこちらはどうであるだろうか。乗り過ごしてもすぐに次が来る。ただ、ホームの混みようや電車のすし詰め状態がおおよその日常であることを除けば、待つという概念を考えなくても済むし、揺れの酷さも気にせずに済む。

 まるで、マンネリ化した何かのようにさえ感じる。「待つ事」を知らなければ、「待つ事への対処法」を知らないことになる。「待つ事への対処法」を知らなければ、「待つ」という事態に陥った時に、無駄に費やすだけのただの時間へと成り下がる。

 これは「目的を失った事」に関しても、同じことが言える。「目的を失った事」を嘆き、その後のことを何も考えなくなってしまっては、「目的を失った事への対処法」を見失う事になる。「目的を失った事への対処法」を見失ってしまえば、最早ただの「廃人」にしかなり得ないのだ。

 しかし両者とも、それが一人だった場合には(・・・・・・・・・)という限定が付く。「待つ事」に関しても、「目的を失う事」に関しても、目の前に誰かが居れば、諭してくれる誰かが居れば、孰れの「対処法」が見つかるかもしれないのだ。

 かもしれない、なんて曖昧な表現を使ったのは、勿論「対処法」が見つからない場合も存在し得るからだ。その要因は自分にあることもあるし、相手にあることもある。だけれど、きっといつかは、誰でもその答えに気付く日が来るに違いないと俺は思いたい。

 俺にとってのそれが、あまりにも早く訪れすぎたのだというだけだ。それが良い事なのか悪い事なのか、神様でもない限り分かる由もない。ただ、以心伝心的に分かってしまう事が一つだけある。

 己の選択に後悔すること勿れ。

 罪悪感をそっちのけてまで、俺は芹沢薫という女を探す事を選んだ。探す、という事は、自ずと彼女の人間像も明らかになっていくわけである。しかし、俺はごく最近、学んだことがあったではないか。

 その人自身を知るには、その人を語る言葉なんぞよりも、その人自身が全てを語っているのだ、と。つまり、頭の中だけで構築された模造の人間像なんかよりも、本人自身がはっきりとそれを指し示している。もっと言えば、実際に会ってみなければ、その人の事を分かったとは言えない。詰まる所、そういう事なのだ。

 目的の駅に着き、俺は電車から降り立った。慣れた手つきで改札口を通り過ぎ、荷物を預けたコインロッカーへと向かう。ポシェットの中に放り込んでおいた鍵を探し出し、開錠する。中には、相変わらずの重量感を誇っているリュックサックと、隅に追いやられた黒い傘が立て掛けてある。俺はそのうちの傘だけを手に取り、扉を閉めて再び施錠した。同じように鍵をポシェットの中に放り込み、ジッパーを閉める。

 俺は一旦息を吐いて、すぐに進行方向を向いた。その時俺は、このような報道を耳にしたのである。

『今日の午前十一時頃、都内の住宅街の一軒家で、二人の遺体が発見されました。ここ数日家からの出入りがないことを不審に思った近所の方が発見し、通報に至った模様です。……遺体の身元は、蘇芳美波さん、三十六歳、蘇芳佑羅さん、三十九歳で、二人はいずれも義理の姉妹という関係でした。二人の遺体には、何者かに首を絞められたような跡があり、また争ったような形跡も残されていました。加えて、何かを探し出すように部屋が荒らされており、金品が盗まれていることから、警察は強盗殺人との見解を出しています。尚、この事件の犯人はまだ見つかっておりません。捜査協力を、是非とも宜しくお願いいたします――』

 聞き終えて、俺は思わず鼻で笑ってしまった。警察に対する嘲笑というよりも、自分に対する馬鹿らしさから来たものの方が大きい。

 何も、焦る必要はなかったのだ。

 第一、あの家に好んで近づこうとする輩はそうそういないのだ。発見が遅れるということは、難しく考えずとも分かっていた事ではないか。

 俺はにやけてしまう顔を引き締めつつ、一歩前に踏み出した。


 このゲームは、俺の勝ちである。


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