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香記  作者: 鏡春哉
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Ⅰ 佑磨⑩

 女が居なくなってから一分もしないうちに、奥の方から二つの人影が現れた。一方は先程の女のもので、もう一方は女の言う、マスターのものらしかった。マスターはかなりの年を食った老人で、細身の上に、骨ばった手つきをしていた。ワイシャツにサスペンダーという姿は、何となく西洋の職人を連想させた。

 マスターは俺の姿を見つけると、無言で近寄ってきた。近くで見ると意外と背丈があったようで、失礼かもしれないが、威圧的な存在感に圧倒された。マスターは俺の手から件の黒い傘を取ると、女が見た時よりもじっくりと観察を始めた。時折傘を開いたり閉じたりし、様々な角度に向きを変えて見る。生地の感触も確かめたりしながら、静かに傘を畳んだ。満足いくまで観察できたのだろう、マスターは傘を俺に返してくる。

 彼はゆっくりと、息を吐いた。その一歩後ろでは、バイトの女が興味深そうにマスターの反応を待っている。かく言う俺も、半ば期待しながらマスターを見た。

 マスターは徐に店のカウンターへと移動した。彼はカウンターの背後にある本棚から一つのファイルを引き出し、真ん中ら辺の頁を開いた。それからファイルを近づけたり遠ざけたりした後、懐から老眼鏡を取り出してかけた。やっと焦点が定まったのか、彼はそれを持って俺のところへ戻ってくる。それから俺を、じっくりと見つめた。

「……一年前、ある女が此処を訪ねてきてな。『図案は考えてきた』と言って、やけにシンプルなデザインの、男物の傘をオーダーしてきよった」

 彼はしゃがれた声で話し始めた。

「特に客を選んでいるわけでもなかったから、儂は快くそのオーダーを引き受けた。他の客のように凝った作りではなかったし、飾り気も全くないデザインだったから、比較的作りやすかったのを覚えている。だから、通常よりも引き渡しは早かった」

 彼は懐かしい過去を回想するかのように語る。

「せっかく一点物の傘を作るのだというのに、何故こんなにシンプルな傘をオーダーしてきたのか、やはり気になってな。ならば他の場所で買えばよかろうにと、女が受け取りに来た日に訊いてみたのだ。すると、女は満足そうな顔をして、『シンプルなものが好きな弟にやるんだ』と答えただけで、それ以上の情報は口にしなかった」

 俺は顔を顰めた。この反応を見たマスターは、予想通りだと言わんばかりに目を細めた。

「やはりな。先方は偽っておったわけか」

「……何を思って言ったかは俺も知る由がないが、少なくとも、あんたが懐疑する程度には、あの女は変なことを口走っていったんだろう?」

 俺の淡々とした言いように、マスターは片方の口角を上げた。目尻の皴が、一層深くなる。

「これは驚いた。先方の謎な言動を読み解くだけの事はある。……確かに彼女はこうも言っておった。『もしかすると、弟がこれを持って此処へ顔を出すかもしれない。その時は、是非とも歓迎してやってくれ』とな。まさか本当に来るとは思わなんだ。それも、こんなに幼い『弟』がな。しかし、彼女の言葉はどうも引っかかった」

 どのように引っかかっていたのか。それは俺にも容易に想像が出来た。

「弟に、例えばプレゼントとして渡すのならば、その弟が、わざわざこの傘を持って(・・・・・・・・・・・)、此処を訪れる意味が分からない」

 マスターは「その通りだ」と俺の言葉を肯定した。

「もしこの傘を気に入って貰えたのなら、此処へはオーダーをしに来るだけで事足りる。別段誰かの紹介状がいるような堅苦しい店ではないゆえ、証拠品なるものを持って来ずとも儂は快くオーダーを引き受ける」

「オーダーの仕方だって、実の姉に訊きさえすればいいわけだしな」

 彼は「確かにそうだな」と言って笑った。この時、後ろの方でずっと口を噤んでいた女が口を開いた。

「私、三か月前から入ったアルバイトだから、詳しい事は知らないんだけど。今の話からすると、その女の人はあなたの事を弟だ、と言ったにもかかわらず、あなたはその人の弟ではないってことになるのだけれど……。あなたが知らないだけで、本当は生き別れの姉弟って事もあるかもしれないわよ? それなら、その傘を置いて『私を探し出して』って暗に伝えても、おかしくはないわよね」

 俺は半目になってバイトの女を見た。

「……仮にその女が二十代だとすると、俺の親はその女を十代で産んだことになるぞ? 三十代なのだとすれば、ほぼ不可能な年齢になるな。それに、女は一度、俺と対面しているんだ。わざわざ俺の方から探し出させる理由が、イマイチ理解出来ない」

 女は俺に悉く論破され、慌てた顔をした。それでもまだ何か反論する気力があるようで、無駄に食ってかかってくる。

「あなたが養子の可能性だってあるじゃない!」

「人の事を何だと思っている。何なら、DNA鑑定でもしてみればどうだ」

 そこまで言って、俺はふと、あることを思い出した。

「あぁそう言えば。俺の両親は死んでいるんだった」

 ぼそりと呟いた言葉に、女は今度こそ口を閉じた。一時ほど、重い沈黙が店内を支配した。

 暫くして、マスターが俺に話しかけてきた。

「うちのバイトがすまんな。……それはそうと、お前さんは先方の事を探しているのだろう?」

 その言葉で、俺の視線はマスターに向き直った。真っ直ぐに彼の瞳を射抜く。

「そうでなければ、これ程立地の悪い場所になんか来ようとも思わない。……その口調からすると、教える気があるようだな」

 マスターは不敵に笑った。

「先方には、『歓迎してやれ』と言われておるからな。他の客の情報を流すのではない限り、望み通りの答えは教えるつもりでいる」

 俺も不敵に笑った。

「なら遠慮なく、女の名前とその他諸々の情報を教えてもらおうか。……と言っても、あんたは最初からこの質問を予想していたんだろうけどな」

 俺はマスターの持つファイルに視線を移して、そう言った。マスターは「参ったな」と感嘆し、今一度ファイルの中に書かれた内容に目を通した。

「先方の名前は、芹沢薫。年齢は二十三歳。職業は、プログラマーだそうだ。……うちの顧客情報は、職業に関しては任意なのだがな」

「それが、次のヒントだってわけだ。他にはないのか?」

「残念ながら。知ってはいるだろうが、ここは電話もインターネット環境も揃っていない。故に先方と連絡を取れるような手段はないから、必然的に番号やアドレスは聞かないことになっている。加えて、商品の引き取りも此処で行うから、住所を知る必要性もないわけだ。……すまんな。必要最低限の情報しかうちにもないのだよ」

 ここまで聞いて初めて、俺は女、もとい芹沢薫がこの店を選んだ理由が分かった。全く、なかなかやってくれるではないか。俺は無意識に笑みを浮かべていた。

「情報提供感謝する。……あぁ、それと。あんたの作る傘、長さ以外は使い心地が良いよ」

 マスターは一瞬だけ呆気にとられた顔をしたが、すぐに、はっはっはっはっ、と声を立てて笑った。

「それは良かった。今度、子供用の傘でも作ってみようかね」

「……飛ぶように売れるだろうな」

 俺は回れ右をして、この店、「スコレー」を後にした。帰りの下り道でも、眩暈の連続と吐き気を催した事は、最早言うまでもない。


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